47.たらればに意味は無い
「はい……はい、わかりました。では、帰艦後すぐに報告書をまとめます」
一定のリズムで響く重低音。微かな振動。
焦げ臭い煙の匂いはなく、代わりにツンとした薬品と機械の冷たい匂いが鼻を突いた。
「成果はあれど損害は甚大……今からどれだけ会議が長引くか、頭を抱えたくなりますな」
白衣を着た男が、通信機に向かって大きな溜息をつく。無精ひげを生やした口元には疲労が滲んでいたが、その声色や目尻の下がった風貌からは、元来の人の良さそうな気質が窺えた。
「ええ、もちろん。では博士、また後程──」
通信が切れ、無機質な電子音が室内に響く。
その音に引かれるように、ベッドの上で横たわっていた小さな身体が、ゆっくりと動いた。
「……?」
重い瞼を押し上げる。
視界に広がったのは、燃え盛る赤い空ではなく、見知らぬ金属の天井だった。
「ここ……」
掠れた声を漏らした瞬間、部屋の隅で計器を操作していた人影が振り返った。
「……あっ起きた。班長~子供が目を覚ましたっスよー」
短い髪にくせっ毛を揺らしながら、女性が気怠げに声を上げる。少しつり上がった目つきから気難しそうな印象を受けるが、その瞳の奥には微かな安堵が浮かんでいた。
「そうか! ちょうどこちらも通話が終わった所だ」
班長と呼ばれた白衣の男が、慌てたようにベッドへ駆け寄ってくる。
「ここ……どこ」
「坊主、大丈夫か?」
「……」
アルスは自分の身体を見下ろした。
あんなにも深く抉られていたはずの胸の傷がない。痛みもない。
ただ、胸の奥底で、トクトクと力強く、ひどく温かい何かが脈打っているのを感じるだけだ。
「痛くないか? 意識はしっかりしてそうだな」
覗き込んでくる男の顔には見覚えがない。
「……だれ」
「魔物生態科学館の人間だよ。ここは飛空艇の中だ」
男は努めて優しく、噛み砕くように教えた。
飛空艇。空を飛ぶ巨大な船。村の本でしか見たことがない乗り物だった。
「……なんで」
なぜ自分は生きているのか。なぜこんな所にいるのか。
アルスの弱々しい問いに、男の表情がスッと強張る。
「あー……なぁ」
男は無精ひげをポリポリと掻き、ひどく言い淀んだ。視線を泳がせ、言葉を探している。
見かねたように、くせっ毛の女が横から口を挟んだ。
「いいんじゃないスか。……そういうの子供でも知っとくべきっスよ。まぁ今の状態で理解できるかは怪しいっスけどね」
突き放すような物言いだったが、それは彼女なりの、事実から目を背けさせないための不器用な誠実さだったのかもしれない。
「……坊主、落ち着いて聞けよ」
男がベッドの脇に膝をつき、アルスと視線を合わせる。
「お前のお母さんが、燃える森からお前を抱えて出てきたんだ」
その言葉に、アルスの心臓が大きく跳ねた。
「それで、な。お前を乗せてやってくれ、と」
「……ママは」
「あー……」
男は顔を歪め、ぎゅっと目を閉じる。
代わりに紡がれたのは、女の淡々とした、けれど僅かに震える声だった。
「残念ながらそこで事切れちゃったっス。子供助けるためにあんな化け物の暴れるとこに突っ込んでたとか、マジすごい母ちゃんだったっスね」
「お、おい……!」
男が咎めるように声を荒げるが、女は目を逸らさなかった。
アルスの頭の中が、真っ白に染まる。
事実が、上手く頭に入ってこない。ただ、冷たい氷水を頭から被ったような感覚だけが全身を這い上がっていく。
「……れっど、は」
無意識のうちに、もう一人の大切な存在の名を口にしていた。
「レッド……友達か? あぁ、うちの飛空艇に村の人達を避難させてるから、王都に着いたら探してみると良い。きっといるさ」
男はレッドを人間の子供だと思っているのだろう。安心させるように微笑みかけてくる。
だが、アルスは知っていた。
自分の胸の中で脈打つ、この圧倒的な温もり。これが誰のものなのかを。
「……」
「その、すまん、坊主。あんなのがいるとは……俺たちも……いや、博士は……わかってたのかもな」
男が悔しげに拳を握り込む。
「国の機関に話はつけてある。王都で村人全員を保護する予定なんだ。……まぁ、難しい事はわからんか。……着くまで休んでろ、なっ」
慰めの言葉は、今のアルスには何の救いにもならなかった。
口の中が、砂を噛んだように乾いている。
「あ……」
「水、いるっスか?」
女が素早く金属製のコップに水を注ぎ、差し出してくる。
「……ありがとう」
「どーぞ」
アルスは両手でコップを受け取った。金属の冷たさが掌から伝わってくる。
水の入ったコップの水面を眺めて、しばし茫然とする。
水面には、ひどく青ざめた自分の顔が揺れていた。
夢を見ていた。
レッドが、自分に語り掛けてくる夢だ。
──みんなが一緒に暮らせる世界を作ろう。
それがあれば、それさえあれば。
ママも、レッドも、死なずにいられたのだろうか。
水面に、ぽつりと。
一滴の水滴が落ちて、波紋を広げた。
それが自分の瞳から零れ落ちた涙だと気づいた瞬間、堰を切ったように感情が溢れ出した。
「……っ、ぐっ……うっ……うぁ……ぁぁ……」
声にならない嗚咽。
小さな両手でコップを握りしめ、顔を伏せてアルスは泣いた。
すべてを奪われた少年の慟哭が、冷たい金属の部屋に響き渡る。
「──ひどいっスよ。こんな子供もいるのに……」
女は顔を背け、吐き捨てるように呟いた。そのキツい目元には、明らかな怒りとやり切れなさが浮かんでいる。
「色々、俺たちも認識が甘かったんだ。……痛恨だな」
男もまた、口を引き結び、眉をぎゅっと寄せている。
ただいつものように実地調査が行われると思っていた。現に博士の見立てでは、魔力反応さえ出れば行幸だというくらいの期待度だったのだ。
それでも、結果はこれである。
一体何が引き金になってしまったのか、あの巨大な魔物が村の全てを焼き、人々にも多くの傷を残した。
多くの事情を知らない末端の自分たちであっても、この結末については責を感じざるを得なかった。
「博士は──何考えてんスか? 説明なんにもなしって意味わかんないっスよ! 博士もシェイレーンさんも!」
「よせ! 今その話は……」
男の鋭い制止に、女は唇を噛んで押し黙る。
「……」
それ以降、艇の中の会話はなかった。
規則正しいエアコンの風音とエンジンの駆動音。
そして、それらに溶けていくようなアルスの細い泣き声だけが、静かに、いつまでも空気を震わせていた。
そしてこれが、アルスが王都にたどり着くまでの物語である。
母と友が命を賭けて守り抜いた少年はやがて青年となり──
魔物と人間を結びつける架け橋となるべく、成長していく。




