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44.純粋なる悪意は群青

 

「あら、聞こえなかったかしら」


 柔らかな声だった。森の木漏れ日の中に溶け込むような、ひどく穏やかで優しい響き。

 だからこそ、氷を首筋にくっつけられているような寒気が際立っていた。


「坊や、ドラゴン知らない?」


 繰り返された質問に、アルスは顔を引きつらせて慌てて首を横に振る。


「し、知らない……っ」


 恐怖で喉が張り付いたみたいになり、うまく声が出ない。

 女はアルスの様子を見て目じりを下げ、わざとらしく困った顔を作った。


「んもう、ウソは良くないわねぇ。すっごい反応よぉ……そのカバンのな・か」


「っ……!」


 女の毒蛇のような視線が、真っ直ぐにアルスのカバンへ落ちる。

 必死に隠したつもりだったし、レッドも息を殺して静かにしていた。それなのに一体なぜ見破られたのか。

 やはりこの大人たちは、自分の知らない恐ろしい何かを持っている。


「ねーぇ坊や、なにも取って食べようってわけじゃないのよぉ。ちょーっと、貸してほしいだけ」


「ウソだ。いしょく、とか言ってた! レッドに何する気だ……!」


 カバンを庇うように両腕で抱きしめ、アルスは女をにらみつける。

 その言葉を聞いた瞬間、女の目がほんの少しだけ細くなった気がした。


「……」


 女の視線がアルスから外れ、森の向こうの何も見えない空間へ向く。


「ちっ、バカ共が。後でお仕置きが必要ね──」


 小さく吐き捨てるように呟いたその声音は、さっきまでの優しいお姉さんとはまるで別人だった。氷のように冷たく、どす黒い殺意が滲んでいた。

 しかしそれも、気のせいかと思うほどの一瞬で元の柔らかい笑顔に戻る。


「変な事しないわよー、人類の輝かしい未来のために、少し協力してもらうだけ……」


「っ!!」


 女の言葉が言い終わる前に、アルスは脱兎のごとく全速力で駆け出した。

 枝が頬を叩き下草が足に絡む。肩に下げた鞄が激しく暴れて走りづらい。

 それでも走った。とにかく遠くへ、この狂った大人の手の届かない遠くへ行かなければ。


「あ……逃げられちゃった」


 アルスの背中がみるみる内に小さくなっていくが、女がすぐに追う気配はない。

 その必要もないと肩をすくめると、女の耳の奥でかすかな電子音が響いた。


 ──村の方でぬくぬくと報告を待っていたアイツからだろう。私をこんな辛気臭い森に放り込みやがって、と文句の一つでも言ってやろうかと思ったが──どうせ代わりはいくらでもいるとか、可愛げのない事を言われるに違いない。


 女は苛立ちを吐き捨てるように細い息を吐き、耳に手を当てた。


「もしもーし。見つけたわよぉー。こんな所まで網貼ってたかいがあったわねぇー」


 耳に埋め込まれた機械に手を当てて、いつもの気だるげな調子で会話をする。

 ここに来てからというもの、ずっと起動しておけと言われていた通信用の魔機だ。


「あぁ、後……下っ端どものせいでちょっと話漏れてたわー。どうする?」


 返事は女にしか聞こえない。

 しばらくすれば期待通りの返答が来たのか、女の声が楽しそうに笑った。


「……ふふ。仕方ないわねー──お仕事だものねー──オッケイ」


 そう言って、女の細い指が腕に装着された機械へと滑る。


探査の魔機(プローブ)──起動(アウェイクン)


 キーワードに従い、魔機が低い駆動音を立てて起動する。

「じゃ、のんびり行きましょ」と、女は迷うことのない足取りで、アルスが消えた森の奥へと歩き出した。


「はっ、はっ……はぁっ……!!」


 木の根を飛び越えながら、アルスは必死に足を動かした。

 肺が悲鳴を上げているのに、止まった瞬間に捕まる気がして止まれない。


「オイ、アルス……」


「カバンの中にいて、レッド……! 逃げなきゃ……! あいつ、絶対ヤバイ……!」


 肩から提げた鞄を、命綱のように抱き寄せる。


「森の中なら僕が捕まりっこない……! このまま逃げ切ってやる!」


 ここは、アルスが毎日のように駆け回っていた遊び場だった。

 木登りしやすい枝も、獣道の位置も、身を隠せる窪みも全部知っている。


 このまま走り続ければ、王都の大人なんかに追いつかれっこない──


 しかしその考えは、何かが空気を引き裂くような鋭い音と共に無惨に切り裂かれた。

 直後、目の前の大木が凄まじい爆音と共に弾け飛ぶ。


「わぁっ!!」


 地面が跳ね上がったような衝撃だった。

 へし折れた大木が倒れ込み、アルスは体勢を崩したまま泥だらけの地面を激しく転がる。


「ドラゴンは生け捕り──子供はー」


 音がしない。

 枝を踏む音も、草を掻く音もない。

 なのに、女の鼻歌混じりの声だけが、少しずつ、確実に近くなっている。

 そうか、追跡する道具──反則だろそれ、とアルスは悔し気に口の中に入った土を吐き捨てて立ち上がった。


「最悪事故ってもオッケー、と」


 予想通り、女はこちらを視認していないのに、正確なルートで近づいてきている。

 まるで散歩でもしているみたいな雰囲気だ。恐らくどこまで逃げても、この森を抜けても振り切る事はできないのだろう。


「な、なんだァ……!?」


 すわ何事かと、カバンから顔を出したレッドが倒れた木を見やる。

 痛々しく抉れた木には、刃物のように鋭い『群青色の羽根』が数本、深々と突き刺さっていた。


「うぅ……っ!!」


 痛む膝をかばいながら、アルスは再び走った。

 追跡の道具の範囲外に出ればあるいは。そんな根拠のない希望にすがり、とにかく距離を離すことを選ぶ。


 やがて木々が途切れた。

 視界の先に、崩れた家々が並んでいる。壁は半ば崩れ落ち、人の気配はない。

 一心不乱に走り、無意識に辿り着いたのは──数日前、レッドと出会ったあの廃村だった。


「ここ……ここまで来たらどうだ……!」


 ボロボロの家屋の壁に背中を預け、ようやく息をつけると思った──しかし。

 ――轟音。背後の壁が、耳をつんざく爆音と共に突如として弾け飛んだ。


「わぁあああ!!」


 壁ごと吹き飛ばされ、アルスの小さな体が瓦礫と一緒に地面を転がる。

 朦朧とする視界、土煙の向こうから、ゆっくりと女が現れた。


「無駄よ~坊や。そんなでっかい魔力反応を連れて逃げられるわけがないじゃない」


 女は腕につけた機械へ視線を落とした。

 円盤状のそれには淡い光が浮かび、小さな点がゆっくり動いている。

 その光点は──アルス達のいる場所でピタリと止まっていた。


「にしても便利ねーこれ。科学の力ってすごいってやつかしらー」


 追いつかれた。

 森を走った意味も、隠れた意味もなかった。

 その事実に、胸の奥が絶望で冷たく凍りつく。


「健気なのねー──頑張るのねー──でも私たちはね、ぜーったいにドラゴンを逃がしたくないの。坊や、あんまり意地悪するとケガしちゃうわよ」


 そう言いながら、女が白衣の袖を少しだけまくる。

 覗いた腕に、アルスは恐怖に目を見開いた。


 群青色の羽根が、人間の腕から生えている──

 羽根は皮膚を破って生えているわけでもない。最初からそこにあったみたいに、肉と一体になっていた。


「おイ……おイ! 大丈夫かアルス!」


「うっ……だいじょぶ……!」


 震える声で答えるが、その実全く大丈夫ではない。

 膝は更に擦り剥けて血が流れ、腕には細かな傷が増えている。

 激しく背中を打ち付けた事で息も上手く吸えておらず、咳き込むたびに鉄の味がした。


「……にゃろウ!!」


 そんなアルスの異常を察したレッドが、抱える鞄の中で激しく暴れ始める。

 小さな体が何度もぶつかれば、我慢の限界だとばかりに鞄の口が強引に破られた。


「好き勝手暴れやがっテ!!」


「待って、レッド! 行っちゃだめだ!」


「そこで縮こまってろイ!」


 鞄を破り、小さな赤い影が飛び出す。


「レッド!!」


 あんな危ない奴の前に行ってほしくない。

 止まってほしかった。

 けれど小さな赤い背中は、一度も振り返らない。


 一直線に飛び出したレッドは、そのままアルスの前へ回り込むようにして空中で止まった。

 小さな翼を大きく広げ、自分より何十倍も大きい女を威嚇するように睨みつける。


「あら、あらあらあら! 本当にドラゴン! こんなにちっちゃいのねぇ~」


 女の目がゆっくり見開かれていく。

 さっきまで気だるそうだった顔が、初めて分かりやすく歓喜に歪んだ。


「やイてめェ!! ガキ一人になんて事しやがんダ! 人間なら、かわいそうとか思うんじゃねェのカ!」


 レッドが牙を剥いて怒鳴る。

 いつもの軽口とは違う、空気が震える程本気で怒っていた。


 しかし女は、そんな怒声なんて聞こえていないみたいに、熱を帯びた目でじっとレッドを見つめる。


「しかも人の言葉を喋る……いよいよ本物ね──」


「聞いてんのカー!」


「あら、ごめんなさい。かわいそうよー。かわいそうでー──悲しいわー──」


 白衣の袖が、ゆっくり顔を隠す。

 けれど全部は隠れない。

 細められた目だけが、袖の隙間から覗いていた。


「こんな所で誰にも看取ってもらうことなく、一人寂しく死んじゃうんだもの。なんてかわいそうなのー──」


 ぞくり、と。

 レッドの背中が粟立つ。

 笑っていた。


 口元が見えなくても分かった。

 声が笑っているのだ。

 まるで面白い冗談を話しているみたいに、心の底から楽しそうに。


「わかったゼ、オマエ絶対に悪い人間だナ。嗅いだことがある臭いダ」


 レッドが低く唸る。


「性根の腐った、死体だらけの世界でこびりついた臭いダ! オマエみたいなくっせぇ奴が、アルスに近寄るんじゃねェ!!」


 数秒。

 女は何も言わなかった。


 ただ、ぱちりと目を瞬かせる。

 それから肩をすくめるように、ひどくわざとらしく、小さくため息を吐いた。


「やだ、レディに向かって臭いだなんて……」


 依然女は笑みを崩さず──白衣の袖口を不自然にもぞりと蠢かせた。


「トカゲはデリカシーってもんがない──わねっ!」


 女の腕が鞭のようにしなる。

 その勢いそのままに、数本の群青色の羽根が殺意の矢となって空気を裂き、飛んだ。


「うワっ!!」


 小さな赤い体が空中で身をひねり、すんでの所で羽根をかわす。


「なろォ……!! やる気だなァ!!」


 怒りのままに、小さな翼が爆ぜるように羽ばたいた。

 地面を蹴ったわけでもないのに、赤い身体が視界から消える。

 一拍遅れて空気が破裂した時には、レッドの頭突きが女の腹へめり込んでいた。


「ゥオラァアアア!!」


「あぐっ!?」


 クリーンヒット。

 レッドの硬い頭がめり込み、女はまるで軽い人形のように吹き飛び地面を転がった。


「どうダ! 痛い思いする前に帰りやがレ!」


 土煙が舞い、崩れた壁の破片がぱらぱら落ちる。

 レッドが勝ち誇ったように鼻を鳴らし、アルスが安堵の息を漏らすが──


「……最悪」


 土埃の向こうで、女はゆっくりと立ち上がる。

 その口元は痛みではなく──純白の白衣が土にまみれた事に対する苛立ちだけで歪んでいた。


「でも、てんで軽い。貴方、ドラゴンの魔法は使わないの?」


 レッドの顔が歪む。

 使い方を思い出せているのなら、既に使っているのだ。

 内心で舌打ちをするが、目の前の華奢な女に自分の体当たりがまるで効いていない事の方が大問題である。


 自分はこいつに勝てるのか──


「バケモンかオマエ!!」


 一発で足りないならもう一撃くれてやると、レッドは再び高速で突進する。

 そしてそれと同時に。


「速いとわかっているのなら──」


 女の口元が、わずかに吊り上がる。

 そして今度は両の腕を広げて大きく振えば、先ほどとは比べ物にならない密度の羽根が、空を群青色に染め上げた。


 上も、横も、逃げ道もない。

 弾幕と呼ぶにふさわしい殺意の豪雨が、飛翔するレッドに襲い掛かる。


「ぎゃンッ!!」


 家屋が弾け飛び、地面が抉れていく。

 石片や木片が辺りに散弾のように散り、視界が土煙で完全に埋まった。


「レッドー!!」


 アルスは自分の体を庇う事も忘れて駆け寄った。

 レッドの返事がない。


 煙が晴れた向こうで、小さな赤い影が地面を何度もバウンドして、ようやく止まる。

 さっきまで元気に空を飛んでいたはずの小さな体が、ピクリとも動かず、ぐったりと伏せていた。


 転がるレッドへ駆け寄り、震える足でその前に立つ。

 自分でもまるで意味のない事だとわかっていたが、倒れる友人の前で両手を広げて壁になる事しか、今のアルスにはできなかった。


「やめて……! やめてください……!」


「ちょっとどきなさい坊や。そんな事しても意味ないわよ」


「つ、連れて行かないで……! とも、友達なんだ……」


 恐怖で喉が詰まる。

 悲しみなのか絶望なのか分からない涙が次々と溢れて、視界が歪む。


 しかしアルスは一歩も動かなかった。

 後ろから、ひどくかすれた声がする。


「アルス……どケ……」


「嫌だ! 一緒に、逃げるんだー!!」


 数秒の沈黙の後、女がひどく深いため息をつく。


「はぁ……もうっ」


 それは呆れた声だった。

 出来の悪い面倒なものを見るような声。


 女の腕がゆっくり持ち上がり、そして。

 何の手加減もない、一枚の刃のような羽根が放たれた。


「っぎゃあああ!!」


 アルスの小さな胸を、熱が貫いた。

 激痛で視界が真っ白に明滅し、アルスはその場でのたうちまわった。血が服を赤く染めていく。


「かわいそうねー──かなしいわねー──。子供ってなんでこうバカなのかしら」


 女は呆れたように肩を落とした。

 まるで駄々をこねる子供を相手にしているような声色で首を振り、少しずつ距離を詰める。


「アルス!! どケ!!」


「い゛や……だぁ゛…!」


 心臓のあたりが熱い。

 痛い。

 苦しい。


 息が上手く吸えないし、視界もぐらぐら揺れている。

 それでもアルスは、地面に爪を立てるようにして這いつくばり、レッドを庇い続けた。


 そんな無力な姿を見下ろして、女はどこか詰まらなさそうに鼻を鳴らし。


「本当に、かわいそう」


 羽根が、再び放たれる。

 ぐさり、とも。ずぶり、とも聞こえる音が、アルスの背中に深々と突き刺さった。


「あ゛……」


 体から完全に力が抜け、支えを失った視界がゆっくりと傾く。

 いつの間にか頬に触れた地面の泥の冷たさだけが、不思議なくらい鮮明だった。


 レッドの声が聞こえた気がした。

 怒鳴り声とも、悲鳴とも聞こえるような声。

 大切な、友達の声。

 どうか逃げて欲しいと願うも、口からは血の泡が漏れるだけで言葉にならなくて。


 ──アルスの目から、光が消える。


「ごめんなさいねー──許してねー──これも……」


 真っ暗になっていく視界の端で、女が笑う。


「人類の、未来のためなの」


 その顔は、他人の命を奪うというのに、最後まで何の悪びれもなく笑ったままだった。





魔機解説~探査の魔機~

「プローブ」のキーワードで起動する、魔力の方向と大きさを探知する魔機。

澱みの検査のような魔力量を具体的なデータにする機能こそないが、その範囲と正確性は探知系の魔機の中でも群を抜いているらしい。

腕時計のように着用することができ、調査団の中でも一部の人間にのみ配布された。

アルスが子供の時代においてはバッテリー稼働時間の短さや、小さすぎる反応を探知できないなどの不具合があったものの、現代においてはなんと高性能な充電式となり、探知する魔力の規模も設定できるようになった事で研究家の間で普及している。こうなると完全に澱みの検査の上位互換である。

ちなみに高いので、当然現代のアルスはこれを持っていない。

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