43.焦燥と逃走
村中を歩き回る魔物生態科学館の調査は、連日休まず続いていた。
白衣姿の研究員たちは村人に一人ずつ声をかけ、周囲の地形や森の様子、最近見かけた動物や魔物について細かく話を聞いて回っている。村の広場には無骨な金属の机や分厚い紙束まで運び込まれており、長閑だった小さな村が、まるで冷たい機械仕掛けの急ごしらえの研究所に塗り替えられたみたいだった。
「最近、変わった生き物を見かけたりしませんでしたか?」
研究者の一人が、村の人間に笑顔でそんな質問をして回っている。
これはマズイ、とアルスは自室の窓枠からそっと下を覗き込み、ベッドの隅で縮こまっていた。
「……どうしようレッド」
「どうしようっテ、どうもしねェんじゃねェノ?」
ベッドの上で腹を出して寝転がるレッドに、アルスは青ざめた顔で詰め寄った。
「どうもするよ! もしレッドが見つかっちゃったら、じっけんされちゃうかもしれないんだよ!? かいたいされて、バラバラになっちゃうかも!!」
「ナニー!?!? バラバラァ!?」
そんなことされてたまるかー! と、レッドの体がびょいんと跳ねた。
当然、アルスも自分のたった一匹の大切な秘密の友達を、見知らぬ大人に渡す気など更々なかった。何をされるにせよ、離れ離れになる事など絶対に考えられない。
「もう一ヶ月も、ママにだってバレてないんだ。このままこの部屋で隠し通すしか……!!」
その時だった。
下の階で、玄関のドアがノックされる音が聞こえる。客が来たようで、母が応対に出る声も聞こえてきた。
アルスは息を殺し、半ば祈るような気持ちでぎゅっと目をつぶる。
しかし、その祈りは無情にも届くことはなかった。
「アルスー! ちょっと降りてきなさーい!!」
階段の下から、母が自分を呼ぶ声が聞こえる。
間違いない、あの白衣の研究者の人が自分に話を聞きに来たのだ。
しかしここで居留守を使えば、それこそ余計に疑われるのではないか。
アルスは冷や汗を拭い、意を決して、レッドに「絶対にこの部屋から出ないように」と固く言いつけてから、重い足取りで下の階へ降りた。
「ごめんね、時間は取らないから」
玄関先に立っていた研究者の男が、アルスに目線を合わせてにこやかに言う。
この人は確か──ティンバーゲンとか呼ばれていた、一番偉い人だ。
「この辺で、珍しい動物を見なかったかい? 普段はあんまり見ない生き物だ」
アルスは母親の背中に隠れるようにして立ち、無言で首を横に振った。
「あら……? どうしたのアルス。あなた人見知りする子だったっけ」
「ははは、街から来た私が怖いのかな。申し訳ございません奥様」
「いいえ、すみませんちょっと内気な子で。でも、この子は普段から村中駆けずり回って生き物ばっかり見てるんですよ」
母がアルスの頭を優しくなでる。外向きの、少しだけいつもより優しい雰囲気の母だ。
アルスは二人の会話を聞きながら、母のエプロンの裾を指が白くなるほどぎゅっと掴んだ。
声は優しいし、口元は笑っているのに。ティンバーゲンのあの目だけは、ガラス玉のように一切の感情がなく、妙に鋭く見えて恐ろしかったのだ。
「おお、それはそれは。将来有望な子ですな。是非将来は王都で学ばせてみては?」
「まぁ、そんな……」
調査から取り留めのない世間話に変わったのを聞いて、アルスは内心でほっと息をつく。
良かった、この調子ならバレっこない。
「博士!!」
そう思った矢先、外から別の白衣の男が慌ただしく駆け寄ってくる。
「どうしたんだい、そんなに慌てて」
「見つかりました! 痕跡です!」
白衣の男が、奇妙な板状の道具を持ちながら言えば、ティンバーゲンのガラス玉のような目がすっと細められた。
「反応は」
「G以上です。恐らく間違いないかと」
「そうか」
ティンバーゲンの声色は変わっていない。口元の笑みも崩れていなかったが、何故だかその短いやり取りを聞いた瞬間、アルスの背筋に氷をねじ込まれたような強烈な悪寒が走った。
「ご協力ありがとうございます奥様。では、また」
ティンバーゲンはそのまま恭しく一礼をして、男と共に足早に去っていく。
「どうしたのアルス。そんなに服ぎゅってしちゃったら、伸びちゃうわよ」
「……っ!!」
「あっ! ちょっとアルス!?」
母の制止も聞かず、アルスは大急ぎで階段を二段飛ばしで駆け上がり、レッドの待つ自室へと飛び込んだ。
「帰ってきタ。おいアルス、大丈夫だっタ……」
「レッド、急ごう! 隠れるんだ!!」
「ハ!? おま急になに……ぷぎゅッ!!」
のんびりしていたレッドを強引にカバンの底に詰め込み、机の上のメモ帳と肩掛け袋をひったくるように掴んで窓を大きく開け放つ。
そのまま庭の木の枝を伝い、一足で家を飛び出した。
「なんだってんだァ……!? おいアルス、どういう事なんだヨ!」
「多分、魔物の位置みたいなのを調べる道具があるんだ! このままじゃいつかバレちゃう!」
「そんな便利なもんガ……あうあうッ」
アルスは村の坂を駆け抜け、カバンが激しく揺れるのも気にせず、鬱蒼とした森への道をひた走る。
こんせきという言葉の意味はよく分からなかったが、大人たちが本気で『何か』を嗅ぎつけた事だけはアルスにも理解できた。
その情報を聞いてすぐに移動した所を見るに、きっとその痕跡とやらを正確にたどる手段があるのだろう。
実際に自分の推理が当たっているかは分からない。だが、アルスはこのまま家にいるだけではレッドが奪われてしまうという、強迫観念にも似た焦りだけで走り続けていた。
「博士が澱みの検査をもっと用意しろと──」
「あれか──早速最新の──試すんだな──」
過ぎ去り際、村の路地裏を走り抜けながら、研究者らしき人間たちのくぐもった会話が聞こえる。
何かの準備をしている。やはりあのままあそこにいないで正解だった。
アルスは舗装されていない獣道を、泥を跳ね上げながら必死に走る。
木の根につまずきかける度に心臓が早鐘を打ったが、転んでいる余裕なんてなかった。後ろを振り返るのが怖くて、とにかく前だけを見て走る。息はとうに苦しく、吸い込むたびに肺が焼け焦げるように痛んだ。
どうしてこんなことになったのか分からない。胸の奥がざわざわして、嫌な予感だけが黒雲のように膨らんでいく。
別に、あのまま研究者たちにレッドを見せてもなにも起こらないんじゃないか。王都の偉い人なら、きっと優しく保護してくれるんじゃないか。
そんな楽観的な気持ちも心の片隅にあったが、それも言い知れぬ恐ろしい焦燥感に飲まれてすぐに消えていく。
今はただ、レッドだけは自分が守らなきゃいけないと、アルスの魂が叫んでいた。
どれくらい走っただろう。
ようやく鉛のように重くなった足を止めた時には、もうすっかり深い森の中に入っていた。
「……はぁ……っ、はぁっ……!」
肩で激しく息をしながら、太い大樹の幹に手をつく。
森はひどく静かだった。
風が葉を揺らす音と、自分のけたたましい心音だけが聞こえる。
誰かが追ってきている様子もない。
ここに隠れて、研究者たちがいなくなるのを待とう。
「──」
「っ!」
腰を下ろし、散々揺らしてしまったレッドの様子を見ようとカバンに手をかけた矢先、ガサガサと草を踏む音と、人間の話し声が遠くから聞こえてきた。
「こんな所に、本当にいるのか? 危険区域でもなんでもない、ただのド田舎の村だぞ……あ~あ、割に合わないよなぁ」
「さぁ──まぁ博士の言う事は絶対だろー。あんまり文句を言ってると、おこぼれにあやかれないぜ」
「……」
アルスは息を殺し、生い茂るシダ草の陰に身を隠して耳をそばだてる。
間違いない、あの白衣の研究者の仲間だ。こんな森の奥深くで、一体何の話をしているんだろう。
「俺も早く移植してぇなぁ~! ガルーダとか絶対便利だろ!」
「確かになぁ、俺もドラゴンみたいな伝説の生き物より断然そういうのだね! っあぁでも、ウィスプとかも面白そうじゃないかー?」
(いしょく……? ドラゴン? なんだ、なんの話だ……?)
背中を伝う冷や汗が止まらない。
聞いたことのない恐ろしい言葉だったけれど、会話の空気だけは子供のアルスにもはっきりと分かった。
欲しい玩具のパーツでも選ぶみたいな、命を命とも思っていない異常な軽さ。その無邪気さが、かえって吐き気を催すほど気味悪くて──
「あら。どうしたの坊や」
ふいに。
自分のすぐ背後、首筋に息がかかるほどの至近距離から、間延びした女の声が落ちてくる。
冷たい刃物で背筋を直接撫で上げられたような、嫌な声だ。
ぞくりと、アルスの肩が恐怖に小さく跳ねた。
「こんな所で──迷子かしら?」
身体が言うことを聞かない。
錆びついた機械のように、ゆっくりと、ゆっくりと後ろを振り向く。
そこには、純白の白衣に身を包み、こちらを気だるそうに見下ろす女の人が立っていた。
まるで極彩色の鳥の羽のような、不自然なほど鮮やかな群青色の髪の毛を揺らし、アルスを見下ろしている。
口元には、薄ら寒い微笑みが貼りついていた。
「ねぇ坊や、ドラゴン知らない?」
その狂気を孕んだ視線は、アルスではなく。
彼が胸に抱きしめている『カバン』へと、真っ直ぐに向けられていた。




