89.
ほどなく、ターニャに呼ばれたハロルドが支度を終えて部屋に入って来た。
「ああ、この子がフォスだね。賢そうな顔をしているね。それにとてもハンサムだ。フォス、さあ、お祖父様のところにおいで。」
「あ、駄目ですよ、伯父上!息子は今しがた眠ったところなんですから。」
「そうですよ、お兄様。祖母である私ですら、まだ孫に触れてもいないのに、先に抱こうなんて、厚かましいですよ。」
「……そんなに言わなくてもいいではないか」
少し拗ねたようにハロルドが言うものだから、ロザリーは思わず笑ってしまった。
「ふふ。お二人とも、その様なことを言ってハロルド様を苛めては駄目ですよ。ハロルド様、どうか息子に祝福の洗礼をお願いいたします。」
彼女は腕の中でスヤスヤと眠る我が子をハロルドに手渡した。
「ありがとう、ロザリー。おお、これはまた見事にロックフォード家の血を受け継いだものだな。やはり瞳の色は琥珀色を?」
「ええ、伯父上。」
「………ガロン殿にも合わせてやりたいな」
「そうね。こんなに可愛い孫ですもの………。きっとそのうち全てがいい方向に向かうと信じて、その日が来るのを待っているわ。さあ、お兄様、フォスに祝福を」
「ああ、そうだな………。この世に生まれし穢れなき魂よ。今この時よりそなたを神の子のひとりとして承認する。シーザー・ロックフォードとロザリー・ロックフォードの子、フォス=シーザー・ロックフォードよ、偉大なる神の名のもと、そなたの人生に大いなる祝福を与えん」
ハロルドは最後に手にしていた、小さな小瓶から聖水を一滴指に取り、フォスの額に垂らした。
「これで後はこの書類を提出すれば、フォスは君たち夫婦の子供として正式に登録されるだろう。ただし、分かっていると思うが、ロックフォード家の者となるには当主であるガロン殿の承認が必要とされる。それはロザリーにだって言える事だ。」
「いいえ、ハロルド様。私はシーザー様の妻になれただけで充分幸せです。これ以上望んだらばちが当たりますわ。きっとフォスだって分かってくれると思います。」
「………ロザリー。君は本当にいい子だな。どうか、君に神のご加護がありますように。もし困った事があったら、いつでも私の所においで。シーザーに誓って必ず君達を守ってあげるから。」
「ハロルド様……本当にありがとうございます。」
「ありがとうございました。伯父上。このご恩は絶対に忘れません。これからもロザリーとフォスを、大切な僕の家族をどうかよろしくお願いします。」
「いいんだよ、シーザー。その代わり妻子を幸せにしてやれるよう、努めるのだぞ。」
「はい。そのつもりです。」
「私もたまには顔を出すから、それまで息災でな。」
「伯父上こそ、もうお年なのですから、無理はなさらないで下さいよ。」
「ははは……。これは一本取られたな。」
伯父と別れたその夜、シーザーは二通の手紙を認めた。一通は父、ガロンに。そしてもう一通は
「アビゲイル様、どうか私の妻子をよろしく頼みます………」
願うようにシーザーは呟いた。それからシーザーは寝たきりの生活を送るようになった。病は少しずつ体力を奪っていったが彼は幸せだった。隣にはいつも最愛の妻子が、彼から片時も離れずに寄り添ってくれていたからだ。
「ああ、赤ちゃんて本当にいい匂いがするんだね。それに暖かい。」
シーザーは毎晩幸せそうにロザリーとフォスを抱きしめながら眠りについた。そして気付けばフォスが生まれて半年、シーザーの余命宣告の期限もとうに過ぎていた。
「はい、フォス。最後の一口よ、アーン。」
夕方、ロザリーは息子に離乳食を与えていた。フォスは健康そのもので、なんでもよく食べ、よく眠った。そんな最愛の息子の姿をシーザーはベッドから目を細め見守っていた。
「フォスは大きくなったね。」
「ええ。体重もかなり増えて、抱っこすると、とても重いですよ。」
「そうなんだ……僕も抱っこしたかったな。」
「……病気が治ったらいくらでも出来ますよ。」
「そうかな?でもこんな腕ではフォスを支えられないね。体がよくなったら鍛え直しだね。」
シーザーは痩せ衰えた腕を上掛けの中から出すと弱々しく天にかざした。今や彼は自力で起き上がることすら出来なかった。それでも彼は生きることを諦めてはいなかった。愛する妻子の為そして、アビゲイルの為に。
「では、抱っこ、してみてください。」
「え?」
ロザリーはそっとシーザーの上掛けを捲る。服の間から彼の浮き上がった胸骨が覗く。ロザリーは涙をぐっと堪え笑顔を見せた。
「そっと乗せますから受け止めて下さいよ。」
「え?ロ、ロザリー。無理だよ。」
慌てるシーザーに彼女は優しく笑いかける。
「大丈夫ですよ。私も支えていますから」
フォスは暴れることもなく、信じきった瞳をしてシーザーに手を伸ばしてくる。幼い息子を受け取る瞬間、彼は今ある力の全てを両腕に込めた。
「うわっ、本当に重いな!」
「でしょ?」
ロザリーは彼が受け止められなかった分の重みを支えながら、そっとシーザーの胸の上にフォスを下ろした。
「ロザリー、君のおかげで僕は本当に幸せな人生を送れたよ。本当にありがとう。こんなに可愛い息子にも恵まれて、もう思い残す事は何もないよ。心残りがあるとしたら、ずっと君達の傍にいられない事だけさ。」
「……シーザー様、そんな縁起でもないこと、言わないで下さい。まだまだ私たちの傍にいてもらわなければ、困ります。」
「ふふ。ごめん、そうだよね。ああ、明日はどんな一日になるだろう。」
「ええ、きっと三人一緒なら楽しい一日になるでしょう。」
「ああ、そうだね。明日が楽しみだ。ロザリー、愛しているよ、ずっと。」
「私もシーザー様を愛しています、ずっと。」
ロザリーは自らの唇をシーザーの唇にそっと押し当てた。……これが最期の口づけになるとは思いもぜすに………
その夜、シーザー・ロックフォードは静かに息を引き取った。彼の死に顔は笑っているような、とても穏やかな顔だった。




