88.
「シーザー様、お食事をお持ちしました。今日もとてもよい天気ですね。庭園の薔薇も今が見頃でとても良い香りです。」
ロザリーは暖かい日には必ず窓を開け、新鮮な空気を部屋に入れた。
「……ああ、そのようだね。風に運ばれてこの部屋にまで薔薇の香りがしてくるよ。うん、本当に良い香りだ。」
順調にロザリーの腹の子が育つ中、シーザーはベッドにいる日が増えていった。二人は夜になると同じベッドで抱きしめ合って眠った。ロザリーはシーザーの胸の中で、彼の子供の頃の思い出話を沢山聞く事が出来た。
「ふふふ。シーザー様って意外とやんちゃだったのですね。」
「そうかもね。母上の大切にしていたカメオのブローチを壊してしまった時なんて、椅子に座れないくらいにお尻を叩かれたっけ。」
「まあ、そんなに?じゃあ、きっと生まれてくる子もシーザー様に似てやんちゃな子どもになるかもしれませんね。」
「うん。その時は君がきちんと叱ってあげて。」
「シーザー様……」
「君ならこの子をうんと大切に育ててくれる。僕はそう信じているよ。……愛してる。君も、お腹の子も。」
シーザーの手が彼女の腹をいとおしそうに撫でる。
「私も同じですよ。貴方も、お腹の子も愛しくて仕方ないのです。シーザー様、私を、私たち二人を抱きしめてください。」
「ロザリー……」
シーザーは彼女の腹を気遣うようにそっと、包み込むように抱きしめた。
「……暖かい。私、幸せです。」
「ああ、僕も幸せだよ。」
こんな日が永遠に続く事を願いながら、若い夫婦は眠りに就いた。
ロザリーが臨月を向かえた頃からシーザーは胸の痛みを頻繁に感じるようになった。
「うっ!」
「シーザー様!!」
「だ、大丈夫だよ。君こそもう、産み月だっていうのに、僕に付き添っていて大丈夫なのかい?」
「ええ。シーザー様が私の安定剤なんです。」
「ふふっ。僕は君の薬なのかい?」
「はい。私を元気にするお薬です。」
「……ロザリー」
「もっとお薬を下さい…キスして、シーザー様」
ロザリーは自らの唇をシーザーに近付けると、彼からの口づけを待った。そしてすぐにその願いは叶えられた。シーザーはそっと優しく彼女にキスを贈った。それは愛し合う時のような激しいキスではなく、神の前で愛を誓う、神聖な口づけだった。ロザリーは全てが満たされてゆく感覚を体全体で感じ取っていた。すると、
「あっ!?」
「どうしたの、ロザリー?」
「じ、陣痛が始まったようです…」
「え?ええっ?た、大変だ!!」
ロザリーは痛む腹を擦りながら、シーザーのベッドに腰掛けた。シーザーは慌てて呼び鈴を鳴らし、彼女の背中を優しく撫でた。
「すぐに医者が来る!大丈夫、大丈夫だよ。ロザリー!!」
「ふふ……シーザー様、私は大丈夫です。少し落ち着いてください。貴方のお父様は心配性ですね。さあ、早くその姿を見せて、お父様を安心させておあげなさい。」
ロザリーは幸せそうな笑顔で腹の子供に話しかけた。
「……お父様」
ロザリーの言葉を聞いて、シーザーは固まっていた。背を擦る手が止まり、何度も同じ言葉を、独り言のようにリピートしている。
「…お父様…お父様…」
「ちょっと、シーザー!!」
シーザーが我に返りはっと顔を上げると、いつの間にか、部屋に駆けつけていたターニャが呆れてように彼を眺めていた。
「は、母上」
「母上じゃないわよ、全く!!こんな時、男は本当に役に立たないわね。」
母は腕組をしてふぅっ!とため息を付くと
「さあ、ロザリー。準備は出来ているわ。行きましょう。」
彼女を部屋から出るように促した。
「え?ロザリーを連れていくの?」
「当たり前でしょ?ロザリーはこれからお産をするの。すでにお医者様も待機してくださっているし、ハロルドお兄様も生まれた子供に洗礼すると張り切って3日も前から屋敷にいらっしゃるのよ!」
ハロルドはロザリーの出産予定日の前後二週間は、彼女がいつ産気付いても駆け付けられるように、自分のスケジュールを空けておいた。そして、今日がその予定日だった。
「本当にとてもいい子だわ。ちゃんと予定日に生まれてきてくれるつもりなのよ。さあ、早くおばあ様にお顔を見せてちょうだいね!」
「……ずるいですよ、母上!僕だって自分の子供が生まれてくる瞬間に立ち会いたいですっ!!」
珍しく駄々をこねる息子にターニャは目を丸くしたが、こればかりは叶えてはやれなかった。
「どこの世に妻の出産に立ち会う夫がいますか?男は黙って外で待っているものです。あなたもおとなしくここで待っていらっしゃい!さあ、ロザリー早く行きましょう。」
ターニャがロザリーに手を貸してベッドから立たせようとすると、その手をシーザーがガシッと握り、離さない。
「シーザー様……」
ロザリーはシーザーの真剣な瞳を見るや、ターニャに願い出た。
「お義母様、私はここで、シーザー様と共にこの子を産みたいと思います。どうか私の願いを聞き入れてください。」
真っ直ぐにターニャを見据え、ロザリーは迷いなき意思を彼女に伝えた。ターニャは一瞬考えたが、可愛い嫁の初めてのお願い、しかもやっぱりシーザーがらみと来ている。ターニャは、ほうっとため息を付くと
「全く、貴女はいつでもシーザー、シーザーね!そんなにあの子が好きなのかしら?」
「はい。シーザー様が大好きです!」
「ふふふ、それはご馳走さま。シーザー、聞いた通りよ。今からこの部屋を分娩の為に使わせてもらうわよ。」
「え?は、はい!ありがとうございます、母上!」
「あらあら、お礼を言う相手を間違えているわよ!」
「ふふっ。そうだった。ロザリー、ありがとう!無事に子が生まれてくるまで、僕を君の傍にいさせて。」
「はい。シーザー様。その時が来たら私の手を握ってくださいね。」
急遽、シーザーの部屋が分娩室へと姿を変えた。部屋は暖かく、湯の用意も万全だ。ロザリーの陣痛の間隔も狭まり、いよいよ本陣痛が始まった。あまりの痛みにロザリーの額には玉のような汗が流れ落ちる。
「シ、シーザー様…痛い!!助けてっ」
「ロザリー、頑張れ!僕はずっとここにいるよ。」
「シ、シーザー様、傍にいて。手を握っていて……ああっ!」
「ロザリー!!頑張れ!もう少しだ!」
「はあああっ!!シーザーさまぁー!!」
いくら辛いことがあったとしても、けして弱音を吐いたことなどない彼女が、シーザーに助けを求める。彼女が直面している痛みは、きっと男の彼には想像だにしないものなのだろう。
「ロザリー、大丈夫よ。皆、同じ痛みを経験して子を産むのよ。後少し。頑張るのよ!!」
「お、お義母様っ!」
片手をシーザーが、片手をターニャが握りしめ、彼女を励ましている。ロザリーは痛みの中に至極の幸福を味わっていた。涙と共に自然と笑みが零れた。
「私、私は本当に幸せ者だわ。あっ!ああーー!」
痛みがひときわ強くなり、子を押し出すように子宮が収縮する。ロザリーが力を入れて息んだ瞬間、ようやく赤子が顔を出した。
「…………ほぎゃあ…ほぎゃあ…」
小さな命がこの世に生まれ落ちた瞬間だった。肩で息をするロザリーに医師が優しく告げる。
「産まれましたよ。頑張りましたね、元気な男の子です。」
「……ああ、男の子よ!ロザリー。ありがとう。ありがとう!!」
ターニャは涙でぐしゃぐしゃになった笑顔を彼女に向けて何度も何度も感謝の言葉を繰り返した。
「無事に産まれて良かった……シーザー様?……」
シーザーは産まれたばかりの我が子を見つめ、静かに涙を流していた。医師は手早く赤子を湯で洗い、柔らかな布に包むとシーザーに差し出した。
「……え?」
戸惑う彼に医師が言った。
「さあ、貴方様のお子です。ロザリー様から最初にお子を抱きしめる役目はシーザー様にと、常々言われておりましたので。」
シーザーがロザリーに目をやると、彼女は静かに頷いた。差し出された赤子におそるおそる手を伸ばす。そっと受けとると暖かく柔らかな感触が彼の心に広がった。
「ああ……ああ…………」
シーザーははらはらと涙を流したまま、言葉にならない声を発した。そしてこの世に二つと無い、素晴らしい宝物を出来うる限り優しく抱きしめた。ああ、なんて暖かいんだ…。シーザーは今、人生で一番の幸せな瞬間を迎えていた。もはや今までの苦しみや悲しみ、死への恐怖すら、どこか遠くに消え去っていた。全ては我が子に出逢う為のステップに過ぎず、今の彼に怖れるものは何もなかった。
「ようこそ、僕の息子。君に逢うのを心待ちにしていたんだ。」
我が子の姿を見て、彼は目を細めた。シーザーは瞳こそ父、ガロンと同じ色だったが、他は母譲りの美しい金髪、華奢な肢体を持ち、少なからずコンプレックスを抱いていた。そして全てにおいて、文武両道のロックフォード家の気質を継げなかった自身に不甲斐なさを感じてもいた。
だが、今、自分の腕の中にいる我が息子は グレーの髪に琥珀色の瞳、健康そうなしっかりとした体を持って産まれてきてくれた。シーザーは彼の小さな額に祝福のキスを贈った。
「今日から君は死ぬまでの永い時をフォス=シーザー・ロックフォードと名乗る事になるだろう。どうか、君の傍にずっといることの出来ない、情けない父様を許しておくれ。だからせめて君の名の中で君と共に歩ませてほしい。」
「シーザー様……」
今までそっと父子を見守っていたロザリーが思わず呟いた。
「さあ、母上。早く伯父上をお呼びして、わが息子に祝福の洗礼を」
「え、ええ、そうね。すぐに呼んでくるわね。」
ターニャも嬉し涙を流しながら部屋を出ていった。
「……フォス=シーザー・ロックフォード。フォス……」
ロザリーが独り言のように繰り返す。
「あ、勝手に名付けてしまってごめん。気に入らないかい?」
「いいえ!いいえ!!この子にこれ以上、似つかわしい名前はありません!フォス=シーザー・ロックフォード!!なんて、なんて輝かしい名なのかしら!!ありがとうございます、シーザー様!」
「良かった!君が気に入らないと言わないか、少し不安だったんだ。……うっ!」
「シ、シーザー様!?」
シーザーは医師に体を支えられ、椅子に座った。ロザリーが子を受け取ろうと手を延ばしたが、彼はそれを断り、我が子を誰にも渡さなかった。
「大丈夫ですか、シーザー様?少し無理をしすぎですよ。」
「いや、違うんだ。体調は悪くないんだ!ただ、君と一緒に力んでいたみたいで、安心したら……腰が抜けたみたいなんだ……」
少し情けない顔のシーザーの告白にロザリーは少しの間、きょとんとしていたが、やがて
「ぷっ!ふふふっ!」
声を上げて笑いだした。涙を流しながら大笑いする彼女にシーザーが憮然とした顔で反論した。
「だ、だって今まで弱音を吐いたことない君があんなに苦しそうにしていたんだよ。そりゃ力だって入るさ!フォスっ、大笑いするなんて、君の母上はひどいよな。」
シーザーが産まれたばかりの息子にぼやいたとたん、今までご機嫌にしていた息子がいきなり泣き出した。
「うわっ!ロ、ロザリー、どうしたらいいんだっ?」
慌てふためくシーザーに医師が説明をした。
「きっとお腹が減ったのでしょう。ロザリー様、お子様にお乳をお与えください。初乳には栄養があり、きっとお子様の免疫力も上がることでしょう。では、私はこれで失礼いたします。」
年老いた医師は静かに頭を下げて部屋を出ていった。彼はハロルドの知り合いで、こんな厄介な話にも積極的に協力してくれた。彼の娘も疫病で亡くなっていた。しかも当時、彼女は妊娠しており、彼は初孫を抱くこともなく、一人娘と孫を一度に失ったのだった。後を追うように娘の夫も亡くなり、彼は独りになってしまった。だからだろうか、『どうせ天涯孤独の身、娘にしてやれなかった事が出来るなんて、思ってもおりませんでした。』と二つ返事で引き受けてくれたのだった。
「この子は幸せ者ですね。こんなに皆さんに愛されて、大切にされて。」
息子、フォスは母の乳を口に含み、喉を鳴らして無心に乳を飲んでいる。シーザーはその光景を眩しそうに眺めていた。
「ふふ。お乳をよく飲む、いい子だわ。」
ロザリーは乳をやりながらフォスの頭を優しく撫でた。
「本当に可愛いなぁ!目元なんて君にそっくりだよ。」
「そうですか?私はシーザ様に似ているのだと思いますよ。お口の形も、お耳の形もそっくりです。」
「いやいや、爪の形を見てごらん。君とそっくりじゃないか!」
「それをいうなら………なんか私たち親バカですね。」
「うん。そのようだね。」
二人は顔を見合わせて微笑んだ。ふと見るとフォスは満足したのか、健やかな寝息をたてていた。
「フォスは幸せそうに眠ったね。」
「ええ。」
「………ロザリー」
「はい」
「僕、頑張るよ。」
「シーザー様………」
「もっと君とフォスと一緒にいたい!だから、少しでも長く生きられるように頑張るから。」
「ええ、シーザー様。病に負けないで。ずっと私たちの傍にいてください!」
「ああ、君たちは僕の大切な宝物だ。ふたりとも愛してるよ。」
シーザーはロザリーとフォスを包み込むように抱きしめた。




