85.
ロザリーが自分の体の異変に気付いたのは、シーザーとベッドを共にし始めて2ヶ月が過ぎた頃だった。シーザーは体調の良い時は必ずロザリーを抱き、具合の悪いときは添い寝をねだった。
イール復興の為、城に籠りきりで家を留守にしがちのガロン以外には、もはや二人の関係を知らないものはこの屋敷にはいなかった。悲しい運命に翻弄されながらも幸せにそうに見つめ合う二人を、屋敷に仕える者たちは沈黙を貫き、見守るしかなかった。シーザーの容態が芳しくない事は誰の目から見ても明らかで、せめてこの瞬間だけでも幸せを感じてほしいと、この家の全ての人間がそう思っていた。そう、母のターニャでさえ……
そして、ロザリーの異変にいち早く気付いたのもターニャであった。いつものようにシーザーの食事の用意をしていた時、ロザリーは突然激しい吐き気におそわれたのだった。
「うっ!」
口元を手で押さえた彼女を見たターニャは驚きの表情を見せた。
「ロザリー、貴女もしかして……」
ロザリーははっと顔を上げターニャを見た。そしていきなり床にひれ伏し、この屋敷の女主人に許しを乞うた。
「も、申し訳ありません!誰にも迷惑はかけません!!お願いです。この子だけは産ませてください!!」
「……息子の、シーザーの子が出来たのね。お医者様には?」
「……隣町の診療所で診察を受けました。懐妊に間違いないそうです。申し訳ありません!シーザー様が女王陛下とご婚約されているのを承知で、私は罪を犯しました。罪は私一人にあります。どんな処罰も甘んじてお受けします。だけどっ!この子だけは許してくださいっ!!」
「……落ち着きなさい、ロザリー!そんなに興奮しては駄目よ。お腹の子に障るでしょ!!」
「奥様……」
てっきり責め立てられるとばかり思っていたのに、ターニャはいつもと変わらぬ優しい口調でロザリーを窘めた。
「だから、伯母様!……いいえ、お義母様と呼んでちょうだい。」
「お、お義母様……?」
床に跪いたまま、ロザリーが驚きのあまり呆気にとられていると、そっとターニャが手を差しのべてきた。
「いつまでそんな所にいるつもり?体が冷えてしまうじゃないの!お腹の子にもしもの事があったらどうするつもりなの?」
ロザリーの予想に反したターニャの言動は、思っていたものとはまるで真逆の慈愛にあふれたものだった。彼女はその暖かい手に恐る恐る自分の手を重ね、ゆっくりと立ち上がった。
「わ、私を許して下さるのですか?いけない事だと分かっています。それでも私はシーザー様の子どもが、あの方の生きた証が欲しかった……」
「何を言っているの?貴女は私たち親子を救ってくれたのよ。ロザリー、貴女、シーザーが長くない事を知っていたのね。知っていてなお、あの子に身を委ねたのね……」
無言のままターニャを見るロザリーの瞳に涙が溢れた。シーザーの前では泣かないと誓った彼女は、我慢していた涙を全て出しきるように、声を上げて泣いた。ターニャはそんなロザリーを黙って抱きしめ背中を優しくさすってやった。
「ありがとう……死んでいくあの子に希望を与えてくれて。ありがとうロザリー。本当にありがとう!!」
ロザリーを抱きしめながらターニャも泣いていた。
「……嬉しい。罵られて、お腹の子を始末しろと言われると思っていました。」
「そんな事!誰にも言わせないわっ!!貴女のお腹の子どもは未来のロックフォード侯爵よ。必ず私が守ってみせる!シーザーの分までね。」
「ではこの子は望まれて、祝福されて生まれてこられるのですね。ああ、シーザー様!!夢のようだわ!ありがとうございます、お、お義母様!!」
ターニャはガロンと結婚した後、どんなに望んでも中々子どもを授かることが出来なかった。それでもガロンは子の出来ない彼女を責めることも、外に愛人を囲うこともせず、誠実に接してくれた。そんな時にシーザーを授かったのだった。
結局、一人しか産むことは出来なかったが、シーザーはとても聡明で嫡男としての義務もしっかり果たしていた。文武に優れた夫は、優しすぎるシーザーに物足りなさを感じている事は判っていたが、ターニャは息子の優しい性格を駄目な事だとは思わなかった。彼女にとってシーザーは生き甲斐そのものだったのだ。
それなのに大切な息子の命の火が消えかかっている。ターニャは絶望に打ちひしがれ、悲しみに暮れていた。そんなターニャの希望になったのがロザリーの懐妊だった。
「そうと決まればこれからやる事が沢山あるんだから、泣いている暇なんて無いわね。まずは司祭を呼んで貴女達の結婚式をしなくてはならないわ。早く誓約書を交わして夫婦にならなければ、産まれてくる子が私生児になってしまうわ。」
「え?でもシーザー様は既にご婚約されておいでです。それなのに私と結婚なんてできるのですか?」
通常なら、貴族の結婚には王の許可が必要で承認されるまでには、それなりの時間を要した。しかし、疫病の蔓延で病に倒れる者が続出し、そんな絶望の中にでも、つかの間の幸せを求める恋人たちの為に、特例として平民も貴族も平等に、司祭の承認のみで正式な夫婦になる事が可能となった。そしてその特例は疫病が収まった今でも続行していた。
「確かに婚約はしているわね。だけどまだ結婚をしたわけではないし、貴女だって知っているでしょ?この婚姻は女王陛下の地位を安定させる為だけのものだって。」
「はい、シーザー様から伺っております。」
「事情が判れば女王陛下だってお許し下さるはずよ。でもその前に、貴女は最優先にしなくてはいけない事があるわ。分かるわよね、ロザリー。」
「……は、はい。」
ロザリーは自分が妊娠したことを、お腹の子の父親であるシーザーにすら話していなかった。
「シーザー様は喜んで下さるでしょうか?」
「それは自分で確かめてきなさい。さあ、早く!私たちにはあまり時間が残ってないのよ。」
ターニャに背中を押され、ロザリーは出来上がったばかりの朝食をワゴンに載せ、彼の部屋へ向かった。そして扉の前に立ち、ノックをして中に入っていった。
「シーザー様、朝食をお持ちしました。」
「いつもありがとう、ロザリー。今日は僕も体調がいいから、久しぶりに庭でも散歩しないかい?」
「ええ、喜んでお供させて頂きます。」
ロザリーは部屋の中のテーブルに朝食の用意を始めた。ポットの蓋を開けると暖かいスープから良い香りの湯気が立ち上る。突然、ロザリーにまた吐き気が込み上げてきた。『いけない!まただわ』慌ててベランダに続く窓を開け、部屋の外に出た。
「ロザリー!!」
シーザーは自分の体を顧みることなく、ロザリーに駆け寄り、痩せ衰えた手で彼女の背中を擦る。
「大丈夫かい?顔色が悪いよ、ロザリー。もしかしてどこか具合が悪いんじゃないのか?」
シーザーは心配そうに彼女の顔を覗きこむと、ロザリーはその体に抱きついた。
「……病気ではありませんから安心してください。どうも食べ物の匂いが駄目みたいです。……少しだけこうしていれば治まりますから。だから、シーザー様。このまま私を抱きしめていてください。」
「……」
少しだけ言葉の意味を考えた後、シーザーははっと小さく息を飲む。
「ロザリー……僕に話す事があるよね。……教えて。君からちゃんと僕に伝えて」
「シーザー様……私……」
抱きしめているロザリーの肩が震える。
「大丈夫だよ、ロザリー。ずっとこうしているから。」
「……貴方子どもが出来たの。私のお腹の中に貴方の赤ちゃんがいるのです。」
「……本当に?」
今度はシーザーの声が震える。
「本当に僕の赤ちゃんが?」
「……はい。黙っていて申し訳ありません。私、怖くて」
「……僕が反対すると思った?」
「シーザー様……」
「嬉しいよ……僕の、僕の子どもが産まれる!ありがとう、ロザリー。こんな僕にも残せるものがあるなんて……でも、君には苦労をかけてしまう。ああ、僕は死にたくない!ずっと君と、生まれてくる子どもと生きていたい!!」
褐色の瞳から溢れ出す涙を気にすることなく、シーザーが苦しい胸の内をさらけ出す。二人は涙を流しながら抱きしめあった。
「シーザー様!生きて……生きてください。この子の為に、私の為に」
ロザリーはまだ膨らんではいない自身の腹にシーザーの手を添えた。彼は優しく小さな命が芽吹いている彼女の下腹部を愛しそうに撫でた。




