74.
それからアビゲイルはユノールに顔を出さなくなった。もともとユノール出身の母がいたからこそ、訪問していた国だ。他国の妙齢の姫が単身訪れているなどと噂になっては、要らぬ誤解を諸外国に与えてしまう可能性があったからだ。
しかし、クライブは外交の名目で度々イールを訪れてくれていたので、幼馴染みは今まで通りの交流を持つことが出来た。ただ、クライブがアビゲイルを追いつめて泣かせる事は一切しなくなっていた。
そして4年過ぎた運命の日、疫病がイール国を襲い、イール国王は他国との交流を遮断したのだった。そのあとすぐに王も王子も亡くなってしまい、ワクチン開発の依頼だけは来たものの、アビゲイルがシーザー・ロックフォードと婚約した事実は彼にとって、まさに寝耳に水の出来事だった。
これは傾いたイール国を安定する為には必要不可欠なものだと、クライブとて分かってはいた。他国の第三王子では何の力にもなってやることは出来ない。クライブはこの時初めて自覚した少女への恋心を押し殺し、ひたすら今、自分が彼女にしてやれる、ワクチン開発に心血を注いだのだった。
疫病が収まり、国交が再開しても、クライブはなかなかイールに足を運ぼうとは思わなかった。なぜなら、女王になったアビゲイルと婚約者であるシーザーの仲睦まじい姿を見る勇気がなかったからだ。しかし、その願いは彼女の婚約から四年後、望まぬ形で叶えられる事となった。長いこと闘病していたシーザーが死んだのだった。
それから6年、気が付けばクライブは32歳になっていた。いたって平和な世の中で無理な政略結婚をさせられることもなく、第三王子という身軽な立場から、周囲からの結婚への圧力もなかった。別に生涯一人でいようとも思ってはいなかったが、だからといって妥協もしたくはなかった。
そんな時に、イール国からアビゲイル女王の花婿候補にどうかという話が舞い込んできたのだった。クライブは思いがけず巡ってきたチャンスに胸が高鳴った。……ところが
「私はラドハルトのルルドールをわが夫に迎えたいから力を貸してくれないか?」
クライブは久しぶりに訪ねたイール国で女王直々に頼まれたのだった。話によると、初めて見た時から気になって仕方なかった。どうしてもあの少年が欲しいそうだ。初めて会った時?彼はまだ10歳の子供だったはず。しかしクライブとて人の事は言えない。自分がアビゲイルに興味を持ったのはたしか彼女が5、6歳の時だった……
「分かったよ、協力するよ。ただし、彼がつまらない男に成長していたら、君を渡すわけにはいかないからね。そうしたら、君は僕とおとなしく結婚するんだ。いいね?」
「ふふふ……もしそうだったらクライブと結婚する。その時は宜しく。」
いつもの冗談だと思っているのだろう。アビゲイルはクスクス笑いながら了承した。クライブはもう二度とアビゲイルを自分のものにする機会が訪れないことは「ルルドールが欲しい」と言った時の、彼女の真剣な眼差しを見た時から解っていた。
しかし、相手の少年がろくでもない男に成長している事に一縷の希望をかけてみた。結果、ルルドールは噂通り、美しく、立派な若者に成長していた。賭けに負けたクライブはその夜、帰国の途についたのだった。
だが折角イール国まで来たのだから、なじみの取引先の店を回りながら帰国することにした。そして同じ宿でたまたま出くわしたソルシアンたちに昨夜、女王が襲撃された一件を知らされたのだった。
「奇遇だな、クライブ。帰ったと聞いていたが」
「ええ、そのつもりでしたが、取引先を開拓してから帰ろうと思い直しました。ソルシアンこそ、どうしてここに?」
「ああ、私か?私はだな…」
ソルシアンは横目でチラッと彼の傍に寄り添っている可憐な少女に目をやった。
「…ああ、確かクラーロ商会のご令嬢ではありませんか?」
「はい、左様でございます。クライブ殿下、初めまして、アニス・クラーロと申します。父がお世話になっております。」
クラーロ商会はもちろんユノール国とも取引を行っていた。
「なぜ貴女がソルシアンと一緒にいるのですか?まさか、駆け落ちでも…」
「違うわっ!!誰が駆け落ちだっ!?私はこれからアムダルグに婚約者を連れて帰るだけだ!余計な事を言うな、クライブ!」
ソルシアンが慌てて叫んだ。そしてクライブから大切な宝物を隠すように少女を抱き寄せた。
「婚約者ですか?貴方は女王の花婿候補ではなかったのですか?」
矢継ぎ早に聞いてくるクライブにソルシアンが面倒くさそうに経緯を説明する。
「あー、クライブ。もういいだろう!?アニス、こんなやつに挨拶することはない。さあ、部屋まで送ろう。」
「え?まさか同部屋にお二人で…」
「ち、違うわっ!!どうしてお前はルルドールみたいに底意地がわるいんだっ!!ったく、あんなに綺麗な顔でも性格が悪いから怪我をするんだ。」
「え?ルルドールは怪我をしたのですか?」
たった一日いなかっただけでイール城では、クライブが知り得ない様々な事が起きていたようだ。
「は?おまえ知らないのか?ああ、そうか。女王が暗殺されそうになった時間、すでに城から出ていたんだよな。巻き込まれなくてよかったな……っておい、人の話は最後まで聞けよ。お、おい!クライブっ!!こんな時間にどこに行くんだよ!?」
アビゲイルが暗殺!?ソルシアンの話は途中までしか頭に入って来なかった。走り出したクライブの背後で、彼はまだ何か叫んでいるみたいだったが、クライブの沸騰した頭では何も考えられなかった。早くイールの城に戻ってアビゲイルの無事を確かめなくては!!
クライブは何も持たず、愛馬に跨がった。護衛の騎士たちは何がなんだか分からず、慌ててついてくる。気付いた時には夜中の間、ずっと馬を走らせていたようだ。
「ク、クライブ様!さすがに馬たちもバテております。お願いでございます、少しお休みください!!」
護衛の必死な声にクライブはようやく馬を止めたのだった。




