38.
少し離れた場所からカイルとサンダートは護衛の男がソルシアン皇子、そしてアニスと何やら話しているのを見ていた。話す内容までは聞き取る事は出来なかったが、時たま声を荒げる護衛は『馬の骨』だとか、『得たいの知れない』だとか、『たぶらかす』などの言葉を口にしていた。
するとみるみるうちにアニスの顔が青くなり、いきなりホールを飛び出して行ったのだった。恐らく男はアニスに向かって先ほどの言葉を投げつけていたのだと兄たちは思った。
いくら隣国の皇子だとしても、身分が高いからといって他国の若い娘を弄んで良いわけがない。クラーロ家の兄たちは大切な妹を公衆の面前で侮辱され黙ってはいられなかった。たとえ相手がアムダルグの皇子で、不敬罪で自分たちが罪に問われようが、これでは亡き母に顔向けが出来ない。
怒った二人が一歩を踏み出した時、いつの間に移動していたのか、護衛の男の脇に立っていたカサンドラがいきなり男の頬を平手打ちしたのだった。
「バチーン!!」
盛大な音が響き渡った。ドルフは不意打ちを食らって一瞬、何が起きたか理解できなかった。もともと両手はソルシアンを押さえ付けていたため使えなかった。彼女が近付いて来ていたことは把握していたが、まさか、自分の頬がこんなか弱い女性に張られるとは夢にも思っていなかったのだ。男はその時初めて彼女に目を向けた。ふるふると怒りに震える彼女の顔を見た瞬間、『ごくん』と男は唾を飲んだ。薄青い瞳はイール人ではありふれた色なのだが、怒りのあまりキラキラ光るその瞳を男は美しいと思った。そして彼女の桜色の唇が開いた。
「貴方は一人の少女を謂われもない罪で断罪しました。しかも、こんな大勢の前で!彼女は馬の骨でも得たいの知れない娘でもありません!彼女は一人のれっきとしたイール国の国民で、アニス・クラーロという名前を持っています。」
「ええ?アニス・クラーロ?あのクラーロ家の令嬢じゃないか?」
近くにいた客のひとりから驚きの声が漏れる。このネガール大陸でクラーロが大富豪だという事を知らない人間はいない。 辺りがざわざわしはじめる中、ドルフは自分が失敗した事に気付き始めた。しかし、カサンドラの追及の手は止まらなかった。
「皇子をたぶらかす?反対ですわ!アニスさんをたぶらかしたのはそちらのソルシアン殿下ではありませんか!大体、女王様の花婿候補が他の女性に手を出すなんて信じられません!それとも、ご自分がアムダルグの皇子だから、イール国の平民の娘なら遊んで捨てても問題ないとでもお思いだったのですか?そんなお考えをお持ちでしたら、ここにいるイール国民全員を敵にまわしますよ。」
カサンドラの言葉に周囲の人々も同調する。いつの間にかドルフと彼女の周りには人だかりが出来ていて事の成り行きを見守っていた。
ソルシアンは押さえ付けられている間に自分がとんでもない鬼畜野郎みたいに言われている事に気付き、慌てて否定した。
「違う!たぶらかしても、弄んでもいない!私はアニスを愛しているんだ!ドルフ!!今、この場で皆に謝れ!おまえが全部悪いっ!!」
やっとの思いでドルフの腕から逃げ出したソルシアンが護衛の男を睨み付ける。多勢に無勢、さすがのドルフも敗けを認めるしかなかった。
「……すまなかった。アニス嬢に対する、先程の言葉は全て撤回する。イール国民の皆さん、お騒がせして申し訳ない。このとおりだ。」
男は潔く頭を下げる。それを見たカサンドラの頭も冷えてきて、そうなると自分のした事が無性に恥ずかしくなってきた。『ああ、私ったらなんて事を……』彼女もいたたまれない気持ちになり、一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
「わ、解っていただけたらそれでいいのです。で、では、私はこれで失礼します。」
カサンドラが踵を返して歩き出そうとした瞬間、男に突然手を握られた。




