39.
「きゃっ!」
いきなり手を握られ、驚いたカサンドラは声を上げた。
「す、すまない。驚かすつもりはなかったのだが、つい。」
つい?何?彼女が睨むと男の頬がうっすらと染まったがカサンドラは気付かない。しかし彼は掴んだ手を離し、咳払いをしてすぐに先程の落ち着いた声に戻し話を続けた。
「私は直接アニス嬢に謝罪したい。頼む、彼女のところに連れていってくれないか?このままではソルシアン殿下に口も聞いてもらえない。」
ソルシアンはドルフの拘束がほどけた後、物凄い勢いでアニスを探しに行ってしまった。もちろん、ドルフとは目も合わせずに。男は困った顔をしてカサンドラに懇願した。その顔が今までの男の高圧的な顔とは対照的で彼女は思わずクスッと笑ってしまった。
「分かりました。彼女はきっと部屋に帰っているでしょう。私がご案内いたします。どうぞ、こちらです。」
「カサンドラさん、私たちもご一緒します。」
いつの間にかカイルとサンダートもカサンドラの側に来ていた。正直なところ、彼女はこの男と二人きりでいるのが嫌だった。アムダルグ人に多い赤毛には白いものが混じり、日に焼けた精悍な顔は知性的で、実年齢を感じさせない引き締まった体は黒い礼服の上からもそれが判る。全てが研ぎ澄まされたナイフのようで、カサンドラは彼に近寄りがたい威圧感を感じていた。
そして何より彼女が苦手意識を持ったのは、男の瞳だった。カサンドラが初めて顔を合わせた時から、あの褐色の瞳は鋭く彼女を見据えていた。もしかしたら何の権力も持たない、他国のちっぽけな小娘に、頬を平手打ちされた事を恨んでいるのだろうか。本来なら先程の無礼を詫びなければならないのだが、彼女はあの瞳に睨まれてなにも言えなかった。だから、クラーロ兄弟が一緒にいてくれるなら渡りに舟、好都合だった。
しかし、彼らは自らの申し出をすぐに覆すこととなった。それはあの男が余計な事を二人に吹き込んだからだった。
「いいえ、私は彼女と二人で大丈夫です。貴殿方はパーティーを楽しんでください。ほら、あそこの二人組のご婦人が先程からこちらを気にしているようです。さあ、早く声をかけに行ってらっしゃい。」
見ると、二人組の可愛らしい少女がこちらを見ている。それを確認した男たちの瞳が輝いた。カサンドラはこの瞬間、彼らの心の天秤が大きく少女たちに傾いたのを感じ、ため息をついた。
「はあー、カイルさん、サンダートさん。私がアニスさんの様子を見て来ますから此処にいてください。それに、彼女と入れ違いになってもいけませんし。」
「え?いいの!?じゃ、じゅあそうしようか、兄さん?」
「ええ?そ、そうだな。私たちは此処でアニスを待とうとしよう。カサンドラさん、よろしくお願いします!」
げんきんなもので二人はさっさと可愛いご令嬢のもとに去っていった。カサンドラは仕方なく、男と共に部屋に向かうことにした。
「……では参りましょう。こちらになります。」
気を取り直してカサンドラが歩き出した瞬間、男が彼女の手をまた握ってきた。
「ひっ!こ、今度は何ですか!?もう、いい加減にしてください!!」
さすがに二回目ともなると、彼女も驚くだけではなく、言い返す事が出来た。しかし男は手を握ったまま離さない。
「貴女の名はカサンドラというのか?」
そういえばこの男とは未だに、お互いの名を名のり合ってもいなかった事に彼女は気付いた。
「あ、はい。申し遅れました。私はカサンドラ・シモンと申します。あの……先程は大変失礼な事を……も、申し訳ありませんでした!」
「カサンドラ・シモン……いい名前だ。私はドルフ・モードンだ。先程の事は貴女が謝る必要はない。あれは100%私の落ち度だ。ふっ、だが女性に殴られたのは生まれて初めての体験だったからとても新鮮だった。貴女のような威勢のいい女性に巡り逢ったのも初めてだ。」
その言葉にカサンドラの顔がトマトのように真っ赤になった。恥ずかしさのあまり、瞳が潤んで来る。
「ごくん!」
喉が鳴る音が聞こえて男の瞳はますます鋭さを増し、彼女を見つめた。『ひっ』カサンドラは声にならない悲鳴を上げた。そのギラギラした眼差しだけで、彼女は殺されてしまいそうな錯覚に陥った。
「……では謝罪として、今度食事に貴女をお誘いしたい。それともこんな歳の離れた男と付き合うのは嫌ですか?ちなみに私は独身で妻も子どももおりません。駄目ですか?」
「…………は?へえ。」
男の申し出にカサンドラからはなんとも間抜けな声が漏れた。よくよく観察すると男の瞳は未だにギラギラと輝いているが、それは殺意ではなく、どちらかというと欲情。……欲情?
「ええー?」
カサンドラは思わず声を上げていた。




