第九話 ビクター王子
ダンスフロアで、ビクターがローズの顔をじっと見つめたまま言った。
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
「ローズです。ローズ・ソーントン」
「ソーントン伯爵家のご令嬢ですね。ローズ、美しい名前ですね。まるで、あなた自身のように」
王子の美しい微笑みに、ローズの頬が赤くなった。
「あなたは」
「ビクターです」
「もしかして、ビクター王子でしょうか」
「そうですよ」と彼が笑った。「気がつかれませんでしたか」
「すみません、田舎に住んでいますので」
「今夜、ここに来て本当によかった。私は普通はこういうパーティには参加しないのですが、父王に命令されてしぶしぶ来てみたのです。ここで、こんなに美しい花のようなお方に会えるとは思いませんでした」
「そんな……恥ずかしいです」
「いいえ、本心ですよ」
曲が終わっても、ビクターはローズの手を離さなかった。
こういう雰囲気は初めてだったし、熱く手を握られたのも、アンリオン以外の男性と踊ったのも初めてだったので、ローズは夢心地になってしまった。
ビクター王子は完璧なダンサーで、彼女を優雅にエスコートしてくれた。音楽に合わせて、二人は流れるように踊った。
「もう一曲、いかがですか?」
「はい!」
ローズはためらいもなく頷いた。
ローズはアンリオンと先生について練習していたからうまく踊れたし、それにダンスが大好きなのだった。いつまでも、夢のような世界で、踊っていたかった。
アンリオンは、遠くからふたりの様子を見ていた。
ローズの顔は、喜びに輝いている。でも、アンリオンの心には、また説明のつかない違和感が沸き上がった。
ビクター王子は、誰もが認めるほど容姿端麗で、立ち居振る舞いも完璧だった。理想の紳士と言っていい。それなのに、アンリオンの胸には拭いきれない違和感が残る。何かがひっかかる。本能が、静かに危険を告げていた。
こんな感情を抱くのは、アンリオンにとって初めてのことだった。胸の奥で鳴り続ける警鐘に従うべきなのか、それともローズを奪われたくないという嫉妬が見せる幻なのだろうか。その答えは見つからず、ただ戸惑うばかりだった。
*
舞踏会が終わり、馬車で屋敷に戻る道中、ローズは興奮冷めやらぬ様子だった。
「信じられない夜だったわ。王子様が、私を五回も踊りに誘ってくださったのよ!他の令嬢には、目も向けられなかったわ」
「それは、よかったですね」
「ビクター様は本当に素敵な方だったわ。優しくて、紳士的で、それでいて少しユーモアもあって……」
ローズは頬を赤らめながら話し続けた。
「アンリオン、ちゃんと聞いている?」
「はい、聞いていますよ」
「どう思う? 王子様、私のこと気に入ってくださったかしら?」
「そうだと思います。ローズを気にいらない人なんか、いませんから」
アンリオンの声は、いつもより硬かったが、ローズは気づかなかった。
月明かりが馬車の中を照らし、ローズの幸せそうな横顔を浮かび上がらせていた。アンリオンは窓の外を見た。夜の街が、馬車の速さで流れていく。
ローズが幸せそうな顔をしている。
それは、うれしいことのはずだ。でも、今夜のビクター王子の、あの出口を確かめる目が、アンリオンの頭から離れなかった。あの表情がふっと消えた一瞬が、離れなかった。




