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第十話 疑惑


舞踏会の夜、アンリオンはなかなか眠りにつけなかった。


脳裏に浮かぶのは、ビクター王子の非の打ちどころのない微笑み。隙のない優雅な所作。そして、一瞬だけ覗いた、あの冷えきった眼差し。


やはり、気になる。


彼について調べてみよう。


何もなければ、それでいい。ただの思い過ごしだったと笑えば済む話だ。だが、もし胸騒ぎが当たっているのなら、見過ごすわけにはいかない。


翌日から、アンリオンは密かに動き始めた。


夜になり、ローズが寝静まるのを待って屋敷を抜け出した。そして王宮に出入りする馬丁や下働きの者たちが集まる酒場へ足を運んだ。


貴族の素顔を知りたければ、表ではなく裏口で働く人間に聞け。


それは窃盗団のアジトで育った頃、親分から何度も叩き込まれた教えだった。豪奢な屋敷の秘密は、主人ではなく使用人が知っている。華やかな仮面の裏側を見ているのは、いつだって彼らなのだ。


最初の夜は空振りだった。


酒場の隅で酒を飲むふりをしながら耳を澄ませたが、聞こえてくるのは賭け事や女の話、隣町の噂ばかり。夜明け前、何の成果も得られないまま屋敷へ戻った。


二日目も同じだった。


だが三日目の夜、ようやく求めていた名前が耳に飛び込んできた。


隣の卓で、王宮の厩舎勤めだという男が、酒をあおりながら仲間に話していた。


「ビクター殿下の馬が、また夜中に出たらしいぞ」


アンリオンは杯を口元で止めた。


「またか?」


「ああ。月に何度もだ。しかも供も連れず、たった一人でな。どこへ行ってるのやら」


「王族が真夜中に一人で出歩くなんて、穏やかじゃねえな」


「どこへ行くんだ?」


「夜中に出ていくのだから、教会か。罪を悔いている、ってことはないよな」


ふたりは肩を叩いて笑った。


「酒か、金か、それとも女に決まっているさ」



その言葉を聞いた瞬間、アンリオンの背筋を冷たいものが駆け抜けた。



*



翌日の夜、アンリオンは歓楽街へ向かった。


酒場で集めた噂をたどると、一軒のある高級倶楽部へ行き着いた。


王都でも名の知れた店らしく、入口には屈強な用心棒が二人立ち、店へ入る客を一人ひとり確かめている。出入りするのは貴族や豪商、その子息ばかり。労働者風の男が近づけば、怪しまれるだけだった。


アンリオンは向かいの酒場に腰を下ろし、窓際の席から店の様子をうかがうことにした。


しばらくすると、一台の黒塗りの馬車が店の前で止まった。


降りてきたのは、ビクター王子だった。


王子は顔を隠すこともなく店へ入り、用心棒たちは恭しく扉を開けた。


常連なのだ。


数時間後、ビクターは酔った足取りで店を出てきた。


その後ろから、体格のよい用心棒風の男が二人続いた。


「若旦那、次の返済は約束どおりに、支払ってくださらないと、困ります」


男の低い声が夜風に乗って聞こえた。


ビクターは眉をひそめた。


「わかっている。来月には用意する」


「前回も同じことをおっしゃいました」


男の笑みは穏やかだったが、目はまったく笑っていない。


「こちらも慈善事業ではありません。利息だけでも相当な額になっています。これ以上遅れれば、こっちも黙ってはいません」


ビクターは舌打ちを飲み込み、低く答えた。


「金なら入る。当てがある」


「では、今回は、その言葉を信じることにいたしましょう」


男たちは一礼して闇へ消えた。


ビクターはその場に立ち尽くし、大きく息を吐いた。


昼間の余裕に満ちた王子の姿は、どこにもなかった。


アンリオンの脳裏に、ローズへ向けていたビクターの穏やかな笑顔が浮かんだ。


まさか。


ローズに近づいたのは、そのためなのか。


そんな考えが頭をもたげる。


ただの思い過ごしかもしれない。いや、違うような気がする。


アンリオンは拳を石壁に押し当てた。


確かめるために、僕には何ができるのだろうか。その無力さが悔しくて、拳を握る手は小刻みに震えた。

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