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第六話 ふたりだけの合い言葉


それから数日後のことだった。


午後の庭で、ローズがまた何かを思いついた顔をしていた。アンリオンはその顔を見るたびに、次に何が来るかと身構えるようになっていた。たいていその後に、無茶なことが始まるからだ。


「アンリオン、新しいことを決めたわ」


「今度は高跳びですか。百メートル走ですか」


「違うわよ。もっと大事なこと」


ローズは庭の真ん中に立って、両手を腰に当てた。


「ふたりだけの合言葉を作るの」


「合言葉?」


「そう。困った時とか、悲しい時とか、もうだめだと思った時に、この言葉を言えば、笑えるようにするの。どんな時でも、笑えるように」


アンリオンは少し考えた。それは、悪い考えではないな。いや、むしろ、ローズらしい、とてもよい考えだと思った。


「どんな言葉にするのですか」


「それを今から決めるのよ」


ローズは真剣な顔をして、しばらく考え込んだ。その間、アンリオンは黙って待った。ローズが考え込む時は、邪魔をしてはいけない。


「決まったわ」


「何ですか」


「ギャリュビョ」


「えっ……」


「言ってみて」


「ギャギャビビ」


「違うわよ」


ローズが大笑いした。「ギャリュビョ」


「ローズは、よくそういうアイデアが出ますね」


「私、そういうのが得意なのよ、ギャリュビョ」


「ギャリュビョ」


「言えたわね。これがふたりの合言葉よ」


アンリオンはしばらく黙っていた。


「……本当にこれでいいのですか。山とか、川とか、もっと意味があるほうが、よいのではないですか」


「いいの。意味がない言葉だから、いいのよ。意味があると、真剣に考えてしまうでしょう。意味がない言葉だから、いいのよ」


なるほど、そうか。言われてみれば、そうかもしれなかった。


アンリオンは口の中で、もう一度繰り返してみた。「ギャリュビョ」確かに、声に出すと、悪くない。


「わかりました。ギャリュビョ、ですね」


「そう。これはふたりだけの言葉よ。他の人には絶対に教えない。困った時、悲しい時、もうだめだと思った時、この合言葉を言ったら、聞いたほうは、必ず助けに行って、笑わせなければならないの」


「必ず助けに行って、笑わせるんですね。助けには行きますけど、笑わせるできるかなぁ」


「やってみて。助けに来て、笑わせるの。私は、できるわよ」


ローズは真剣な顔でそう言った。


「わかりました。約束します」


「じゃ、早速。ギャリュビョ」


「……はは」


「ほら、笑った」


ローズが手を叩いた。


「これでよし。どんな時でも、これがあれば、私達は、大丈夫ね」


アンリオンは笑いながら、心の中でそっと思った。この言葉を、いつか本当に必要になる時が来るかもしれない。その時は、なにがあっても駆け付けて、ローズを助ける。そして、笑わせる。



*


ある日、ローズが興奮して駆け寄ってきた。


「アンリオン、見て見て! 新しい馬よ!」


厩舎には、美しい栗毛の馬がいた。筋肉質で、毛並みが陽光を受けて輝いている。


「お父さまが誕生日に贈ってくださったの。名前はサンライズ!」


「きれいな馬ですね」


「今から、一緒に乗りに行きましょう!」


「調教師がいるのに、僕とですか」


「そうよ。アンリオンと走りたい。アンナオンがいないと、私、つまらないのよ」


その言葉を聞くと、アンリオンの胸はうれしさで満ち溢れたが、同時に痛かった。



ふたりで森を駆け、川で遊び、丘の上で空を見上げた。


「ねえ、アンリオン」


草原に寝転がりながら、ローズが言った。雲が空をゆっくりと流れていく。


「私たち、ずっと一緒にいられるのかしら」


「……どうしてそんなことを?」


「お父さまの新しい奥さんに、男の赤ちゃんが生まれたのですって。だから、私が無理してソーントン家を継ぐことはないのですって。好きな人ができたら、お嫁に行ってもいいって言われたのよ。私がお嫁に行ったら、アンリオンとは離れ離れになってしまうでしょう」


「それは……そうなるかもしれません」


アンリオンの胸が、悲しみに包まれた。


「私、そういうの、いやだわ。アンリオンが、そばにいなくなったら寂しいもの。ギャリュビョ」


アンリオンが笑った。


「だったら、僕が嫁ぎ先について行きます、従者として」


貴族の世界では、貴族は貴族以上としか結婚しないから、アンリオンがついて行くとしたら、従者として行くしかないのだ。


「それはまずいのではないかしら?」


「どうしてですか」


「だって、ご主人さまが何と思うかしら。私たちがこんなに親しいのを見て、嫉妬してしまったりして」


「それでは、どうしますか」


「大丈夫よ。私は結婚しないから。ここにずっといます」


ローズはそう言って、いたずらっぽい目で、アンリオンを見つめた。


「アンリオンはどうなの? 誰かを好きになって、結婚しちゃったりする?」


「しませんよ」


「なぜ? アンリオンはすてきだからきっともてて、好きだという子が出てくるわよ」


「好きな人はできないし、結婚もしません」


「どうして……、ああ、わかったわ」


「何がわかったんですか」


「お母さまから私を守りなさいと頼まれたからでしょう。約束を守ろうとしているのね。約束を守る人は好きだけれど、義理堅い人ねえ。義理堅いのは好きだけれど、無理はしなくていいのよ」


「無理はしていないよ」


アンリオンは嘘をついた。本当は、ローズ以外の誰かを愛することなど、考えられなかったから。


草原に寝転んだまま、ふたりはしばらく空を見ていた。


雲が、ゆっくりと形を変えながら流れていく。アンリオンはその雲を目で追いながら、心の中で思っていた。


この時間が、ずっと続けばいい。丘の上で、ローズと並んで、空を見ている、この時間が。


でも、続かないことも、わかっていた。いつかローズは誰かと結婚して、どこかへ行く。それが正しい形なのだと、自分に言い聞かせていた。


でも、今日だけは、そのことを考えないでいよう。今日は、ここにいる。ローズの隣に、いる。それだけで、十分だ。


「ねえ、アンリオン」


ローズが言った。


「何ですか」


「ギャリュビョ」


「……なんですか、急に」


「合言葉よ。なんとなく、寂しくなったから、アンリオン、笑わせて」


アンリオンはよい考えが浮かばなかったから、変顔をして見せた。すると、ローズが笑った。


空の高いところを、鳥が一羽、横切っていった。




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