第五話 七年後
リリィ夫人が亡くなってから、七年が経った。
もちろんいくら年月が経とうと愛する者を亡くした悲しみが消えるわけはないが、でも、忘れないと思っても、忘れる部分はある。
それは、たぶん、時の流れというやさしさなのかもしれない。
ローズは美しく成長し、傍目には普通の生活に戻り、笑顔を取り戻していた。
ビル伯爵はもともとは主都で育った人で、今でもそこに屋敷がある。
彼はそこで過ごす時間が増え、最近ではめったにソーントンの領地に戻って来なかった。それは、主都の屋敷に新しい妻を迎え、男の子も生まれたからだった。
伯爵はアンリオンに行ったことがある。この田舎の屋敷に縛られることはない。よそへ行ってもよいのだ、と。でも、彼はこの屋敷で働きながら、ローズの側にいる道を選んだ。
アンリオンはいつも、自分に言い聞かせていた。
僕は、ローズを守る兄のような存在。
でも、屋敷で働くただの使用人なのだから、それを忘れるな。
そんなことを言い聞かせたのは、心の奥底で、何かこれまでとは違う感情が芽生え始めていることに、気づいていたからだったが、でも、そのことは考えないようにしていた。
なぜなら、当時は貴族は貴族か王族としか結婚してはならない、という無言の厳しい慣習があったのだ。
貴族の令嬢が、乞食だった自分を男性として好きになるとか、そういうことは考えられないのだ。
*
「アンリオン、もう一回!」
十五歳になったローズは、木剣を構えていた。お転婆な性格は相変わらずで、淑女の作法よりも剣術を学ぶほうを好んだ。
汗が額に光り、頬は運動で紅潮している。
「ローズさま、もう十分ではないですか」
「『さま』はいらないって、何度も、言ってるでしょ! それに、あと一本だけ!」
「わかりました、あと一本だけですよ、ローズ」
十七歳のアンリオンは苦笑しながら、木剣を構えた。
二人は庭で何度も打ち合った。木剣がぶつかる音が、午後の庭に響いた。ローズは剣術の才能はあったが、まだまだアンリオンに敵わない。
「やあっ!」
ローズの渾身の一撃を、アンリオンは軽く受け流した。
「ローズ、足元が甘いですよ」
アンリオンが軽く足を払うと、ローズはバランスを崩して尻餅をついた。
「いたい……」
「大丈夫ですか?」
アンリオンが手を差し伸べると、ローズは口を尖らせた。
「アンリオンは強いわね。でも、覚えておいて。そのうちに、絶対に勝ってみせるから」
「楽しみにしています」
「じゃ、次は、別の試合をしましょう」
「別の試合って、何ですか。僕が、左手で木刀を持つとか」
「言ったわね。それでも、勝てると思っているわけ?ああ、屈辱!」
「屈辱」という言葉に、アンリオンが思わず笑った。
「じゃ、なぞなぞ、いくわよ。私が右手をあげると、その子も左手をあげるの。私が笑うと、その子もうれしそうに笑うの。でも、どんなに仲良くなっても、絶対に握手だけはしてくれない。それなーんだ?」
アンリオンが頭を傾けたので、わからないらしいな、とローズが笑った。
「答えは、自分、ですか」
「違うわよ。私達は握手ができるもの。ほら」
ローズが突然、アンリオンの手を握ったので、彼はどきどきした。
「あっ、答えが、わかった」
「なに」
「鏡です」
「あーあ、ヒントをあげすぎたわ」
「また僕の勝ちですね」
「じゃ、早口言葉をしましょう」
「それは、ちょっと。口では、ローズには敵わないから」
「だめよ、アンリオン、言ってみて。ギャリュビョギャミャルギョビャリュギャ」
「なんですか、それは」
「早く、言ってみて。ギャリュビョギャミャルギョビャリュギ、ギャミャルギョビャリュギ」
「ギャリュビョ……そんなの、言えません」
「まいった?」
「まいりました」
「やったー」
ローズがうれしそうに笑った。アンリオンはローズが笑うと、自分もうれしくなって笑ってしまうのだった。
「それでは、アンリオンが剣で勝って、私が早口で勝ったから、おあいこ。では、ここで、決着をつけましょう」
「なぞなぞは」
「あれはアンリオンがお手付きしたもの。数えないわ」
「じゃ、おあいこでいいじゃないですか。決着をつけないと、だめですか」
「だめよ。私は決着をつけるのが、好きなのよ」
ローズがまた口を突き出した。
「では、何をしますか」
「そうね。じゃ、幅跳び。どちらが遠くまで飛べるかを計るのよ。負けた人は、逆立ちをして、家まで帰るというのはどう」
「玄関までは、三十メートルはあるから、手に豆ができますよ」
「あら、誰が負けるのかしら。私は平気よ。幅跳びも、逆立ちも、得意だもの」
そう言って、ローズがスカートを翻して飛んでみせた。
アンリオンはローズに逆立ちで歩かせるわけにはいかないから、ローズより少し手前に着地した。
「ほらね」
ローズが手を叩いて喜んだ。
「じゃ、アンリオンは逆立ちをして帰るのよ。約束ですからね」
「わかりました」
アンリオンはやれやれと思うのだけれど、ローズのそういうところもかわいいと思うのだった。
アンリオンが逆立ちをして歩きだすと、ローズが声援を送りながらついてきた。彼が途中で、足を下ろしてしまうと、ローズがそばに来た。
「手を見せて」
ローズが、彼の手を引っ張った。
「痛そうね。もうやめてもいいわよ」
「それは、だめですよ。約束は約束だから」
「アンリオンは約束が好きだものね」
ローズはそう言うと、靴を脱いだ。
「じゃ、これを両手にはいて」
「裸足では、ローズの足が痛いよ」
「そんなのは、平気。ほら、はいてみて」
アンリオンがローズの靴に手を入れると、少しあたたかかった。
ローズの体温が残っている。
ローズはこんなふうに、いろんなアイデアが浮かぶ子なんだ。そう思うと、アンリオンはなんだかうれしくなって、元気が出てくるのだった。




