第三十一話 「泣いていませんよ」
「きらいなわけ、ないです」
ローズが早口で言った。「きらいじゃなく、その反対です」
「反対って」
「大好きということです」
「まさか、本当ですか」
「本当です」
「よかった。久しぶりですね、ローズ」
「ええ……」
「泣かないでくれると、助かるのですが」
「泣いていませんよっ」
ローズはそう言ったけれど、その瞳にはまだ涙がたまっている。
「目から涙が流れていますよ」
「これは涙ではなくて……汗です。いろいろなことをしでかしたから、冷や汗をかいているのです」
「ああ、あなたの冷や汗は、目から出るのですか」
アンリオンが、少し吹き出しそうな顔をした。ローズも、涙をこらえながら、笑ってしまった。
こんなふうに笑うのも、久しぶりだった。
「本当に、アンリオンなのね」
「だいぶ、変わってしまいました。ひどい顔でしょう」
アンリオンが、自分の傷を指した。包帯の下には、戦場でついた深い傷。一生消えない傷跡がある。
「そんなことないです」
ローズは首を横に振った。
「顔はただの顔です。気にしないでください。アンリオン、あなたは変わっていないです、少しも。いいえ、精悍になられて、ご立派になられました」
「そうですか。嘘でも、そう言われると、安心します」
アンリオンが、少し照れたように目を逸らした。その仕草も、昔と同じだった。褒められると、こんなふうに目を逸らすのだ。幼い頃から、少しも変わっていない。
「ローズ、あなたこそ」
アンリオンがローズを見た。その瞳がやさしい。
「きれいになりましたね。いや、前もきれいだったけれど」
「そんな……。肌は日焼けして、皺が増えて、きれいじゃないですよ」
「僕は本当のことを言いましたよ」
その声は静かで、まっすぐだった。
「お世辞でも、うれしいです。あのう、安心します」
ローズがアンリオンの口調を真似した。
「ふたりとも安心したところで、ローズ、もう一曲、踊っていただけますか」
アンリオンが手を差し伸べた。
「喜んで」
ローズが、その手を取った。
前に、屋敷で、二人で練習した時と同じ。でも、今は違う。
あの頃は、先生に言われた通りに動いていただけだった。
今は、音楽が聞こえた瞬間、自然に体が動いた。
アンリオンの手は、戦いで鍛えられて、大きく、強くなっていた。しかし、ローズの手を包む時の加減は、昔と同じだった。強すぎず、弱すぎず。ローズがどう動きたいかを、手のひらで感じ取るような、あの感覚。
音楽が流れ、ふたりは踊った。
「ごめんなさい」
ローズが、耳元で呟いた。
「何がですか」
「全部。あの時……あなたを信じないで、ひどいことを言ってしまいました。あなたを……追い出してしまいました」
「もう、過ぎたことです」
「でも、私は……」
「ローズ」
アンリオンが、穏やかに言った。
「僕は恨んでなどいませんよ。あなたは、騙されていただけです」
「それは言い訳になりません。あなたは最初から、正しかった。私は自分の目を信じると言っておきながら、何も見えていなかった。自信があったのに、全然見えていなかった。見ようとしなかったのですよね。なんと浅はかな私。恥ずかしいです」
「浅はかじゃないですよ。いいや、世の中に、浅はかでない人なんか、いませんよ。ローズは純粋なんです」
「また安心させてくれようとしているのですか。あなたがいなくなった後、手紙を見ました。楽しかった、って書いてありました」
ローズの声が、揺れていた。
「アンリオン、あの言葉が、ずっと胸に残っていました。楽しかったって書いて、出ていってしまった。私があげた青い石と、お母さまのショールを置いていったから、もう二度と帰ってこないと思いました」
アンリオンは何も言わなかったが、ローズの手を、少し強く握った。
「あの経験があったから、今の僕がいます」
しばらくして、アンリオンが言った。
「兵士になって、多くのことを学びました。人を守るということ。責任を持つということ。仲間のために前に出るということ。ひとりでは知れなかったことを、たくさん知りました」
「私も……学びました」
ローズが恥ずかしそうに下を向いた。
「ローズはどんなことを、学んだのですか」
「自分が浅はかだということですよ」
「またそれですか」
「美しく見えるものが、美しいとは限らないということ。真実を見つけるのが、難しいということ。ずっとそばにいてくれた人が、どれほど大切だったかということ」
「ローズ、すごいじゃないですか」
アンリオンに褒められて、ローズが赤くなった。
「ねえ、私、もっと踊りたい」
「うん」
ふたりはしばらく、黙って踊った。
言葉がなくても、何かが通じ合っていた。離れていた距離が、少しずつ、縮まっていく気がした。演奏が終わっても、ふたりは手を離さなかった。
周囲の人々が、ふたりに気づき始めていた。何人かが足を止めて見ていた。でも、ローズには、そんなことはどうでもよかった。
「外に行こうか」
「ええ。私も、そう考えていたところ」
ローズがくくくと笑った。なにか、とても楽しい気分になっていた。




