第三十二話 プロポーズ
庭に出ると、広い庭の真ん中に噴水があり、灯が付けられていた。春の夜風が、やわらかく吹いていた。広間の音楽が、遠くに聞こえた。
「噴水、きれい」
ローズが噴水のふちに歩み寄り、水面に映る月を覗き込んだ。灯りを受けた水しぶきが、きらきらと宙に舞っている。
「子供の頃、噴水のふちをよく歩いたわよね」
「覚えていますよ。あなたが片足で歩いたりするから、落ちないかいつもひやひやしていました」
「私、落ちたことなんか、ありましたか」
ローズがくすりと笑って、噴水のふちに片足をかけた。
「危ないですよ」
「これくらい、平気。昔のローズは健在よ」
そう言った瞬間、踵がぬめった石の上で滑った。
「きゃっ」
短い声とともに、ローズの体が傾いだ。
アンリオンは考えるより早く手を伸ばしていたが、間に合わず、逆に引きずられる形で、ふたりそろって噴水の中に倒れ込んだ。
冷たい水しぶきが、月明かりの下で高く舞い上がった。
「つ、冷たい……!」
ローズが悲鳴とも笑い声ともつかない声を上げた。ドレスの裾が水を吸って重くなり、髪から水滴が滴った。
「大丈夫ですか」
「ええ、大丈夫。落ちたなんて、新記録。歳のせいかしら」
「靴のせいですよ」
「ギャリュビョ」
アンリオンが笑って立ち上がり、手を貸してローズを立たせようとすると、彼女が彼の手を引っ張り返した。
アンリオンがバランスを崩して、また水の中に落ちたから、ローズが声を上げて笑った。
「ふたりとも、びしょ濡れね」
「ローズ、あなたが引っ張ったからですよ。その力は、たしかに、健在です」
ふたりは水の中で顔を見合わせ、どちらからともなく笑い出した。昔、ふたりで遊んでいた時のような笑いだった。
ようやく落ち着くと、アンリオンはローズの手を取り、そっと噴水の外へ導いた。
「アンリオン、お願いがあります」
「何ですか」
「あのう……」
ローズの声が緊張していた。
「ローズの願いなら、何でも、聞きますよ」
「もう一度……私のそばにいてくれませんか」
ローズの声が、細くなった。アンリオンの瞳が驚いていた。
「従者としてじゃないですよ。でも、兄としてでも、友人としてでもなく……」
「ローズ」
アンリオンが、静かに遮った。
「先に言っては、だめですよ。僕に、言わせてください」
ローズがアンリオンを見つめた。
アンリオンは少し間を置いた。言葉を探しているのか、それとも、言っていいのかどうか、迷っているのか。ローズは、その沈黙の間、息をするのも忘れていた。
アンリオンは、少しの間、目を伏せた。
「ローズ」
「何ですか?」
「僕は、リリィ夫人に、ローズを守ると約束しました」
「ええ、覚えています」
「でも、あの頃は、守る知恵も、力もなかった。でも今は、違う。今なら、あの約束を、果たせると思います」
「アンリオン……」
「戦場で何度も死にかけているうちに、わかったことがあるんです」
アンリオンが、ローズの目をまっすぐに見た。
「夫人との約束がなくても、僕はあなたを守りたかった。最初に見た時から、そう思っていたのです」
「最初から?」
「赤い顔をして、ベッドの下から、出てきた時から」
「そんなこと、ありました?」
ローズが、不思議そうにアンリオンを見上げた。
風が、ふたりの間を抜けていった。
「戦場で、何度も死にかけました。剣を構えて、敵が向かってくる時、頭に浮かぶのは、国のことでも、名誉のことでもなく、いつも、ひとつのことだけでした」
「……」
「もし生きて帰れたら、一つだけ伝えたいと、ずっと思っていたんです。ただ、あなたに、これだけは聞いてほしかった。たとえ、拒絶されても、言ってしまおうと思っていました。聞いてもらえるだけで、いいんです」
アンリオンは、ゆっくりと石畳に片膝をついた。濡れた服のまま、月の光の下で、ローズを見上げた。
「ローズ、僕はあなたを愛しています。妹としてでも、従者としてでもなく、ひとりの男として。これは、誰かに頼まれたからでも、何かの約束を果たすためでもありません。僕自身が、あなたが大好きだからです」
ローズの目から、涙がこぼれた。
「結婚してくれますか」
声が、わずかに震えた。
「いいんですか、こんな私で。後悔しますよ」
「そんな後悔なら、してみたいです」
「じゃ、させてあげますから、もう一度、言ってみて」
「結婚してくれますか」
「はい。喜んで。すごく、喜んで」
アンリオンが立ち上がり、ふたりは濡れた服のまま、抱き合った。
噴水の水が、月明かりの中できらめいていた。どこかで夜の鳥が鳴いた。庭園のバラが、夜風に揺れて、甘い香りを漂わせた。
しばらくして、ローズがアンリオンの胸に頬を当てたまま、小さく言った。
「ねえ、アンリオン」
「何ですか」
「服が、濡れているけど、寒くはない?」
「寒くないです。ローズは」
「ずっとこのままでいたい」
ローズが目を閉じた。
アンリオンの胸から、心臓の音が聞こえた。それは、とても穏やかで、規則正しい音だった。生きている人の音だった。七年間、どこかで生きていてくれた人の音だった。
「よかった」
ローズは小さく呟いた。
「何がですか」
「あなたが生きていてくれて、よかった」
アンリオンが、ローズをもう少し強く抱きしめた。
「僕も、ローズに会えて、うれしいです」
春の夜風が、また吹いた。バラの香りが漂い、噴水の水が、月明かりの中で静かに揺れていた。




