第三十話 アンリオン?
王宮の大広間は、以前と同じように華やかで、まばゆい光に包まれていた。
天井から吊り下げられた無数のクリスタルシャンデリアが、何百というろうそくの炎を受けて煌めき、まるで星々が降り注いでいるかのようだった。
磨き上げられた大理石の床は鏡のように滑らかで、色とりどりのドレスの貴婦人たちの姿を映し出していた。
絹のドレスがワルツのリズムに合わせて優雅に揺れ、宝石をちりばめた髪飾りがきらきらと光を放っている。男性たちは金糸や銀糸で刺繍された礼服に身を包み、貴婦人たちをエスコートしていた。
前にも、こんな夜があったわ。
ローズは入口に立ち、広間を見渡した。あの夜と同じ音楽、同じ光、同じ香り。違うのは、隣に従者として付き添ってくれた人がいないことだ。あの夜、アンリオンは少し後ろに控えながら、ローズの様子をずっと見ていてくれた。
「ソーントン伯爵令嬢、ローズ様」
侍従が名を告げ、ローズは広間に足を踏み入れた。視線が集まるのを感じた。
フランクとの婚約解消以来、社交界での彼女への目は、どこか値踏みするようなものが混じっていた。気にしないと決めていた。でも、やはり、人の視線というのは、わかるものだった。
「ローズ様、久しぶりですわね。あなたはパーティには現れない人だから」
顔見知りの令嬢が近づいてきた。社交的な笑顔の裏に、好奇心が透けて見えた。
「ええ。本当に、お久しぶり。お元気で」
「ええ。元気よ。ところで、今夜はおひとりで?」
「父が少し遅れて参ります」
「まあ。……今夜の主役は、ハルベルト将軍父子ですのよ。ご存知でしょう? 小将軍は、まだお若いのに、それはそれは立派な方ですって。でも、顔に大きな傷跡があるそうよ……」
令嬢は声を低めて、いかにも秘め事を打ち明けるように言った。
「それでも、ハルベルト将軍の跡継ぎですから、身分は申し分ない。今夜、令嬢たちの間ではもう大変な騒ぎなのですよ。どなたかがお声をかけていただけないかと、みんな心待ちにしているの」
「そうですか。ごきげんよう」
ローズは穏やかに笑って、その場を離れた。
楽団が曲を変えた。
ワルツが始まり、人々がフロアに集まり始めた。さっそく一人の貴公子が近づいてきて、ダンスを申し込んだ。断る理由もなく、ローズはフロアに出た。久しぶりのダンスだった。
しかし、その貴公子ときたらひどいダンサーで、何度か躓き、ローズの足を踏んだ。一度目は我慢した。二度目も我慢した。三度目に踏まれた時、さすがに小さく声が出た。
「痛っ」
「す、すみません。痛かったですか」
「大丈夫です」
こらえてそう答えながら、ローズは内心、どうやってこの状況を切り抜けようかと考えていた。
その時だった。
貴公子の肩を、誰かが静かに叩いた。
「代わっていただけますか」
低い、落ち着いた声だった。
貴公子が少し戸惑いながら身を引いた。ローズは助かったと思いながら、その人物を見上げた。
純白の絹のシャツは、高い襟元まできちんと整えられ、その上に黒いベルベットの上着を羽織っていた。
肩から胸にかけてのラインは、軍人らしい引き締まった体格を際立たせている。腰には黒革のベルトが巻かれ、装飾の施された剣が下げられていた。
そして、その顔の右半分を、白い包帯が覆っていた。
ああ、あの噂のお方だわ。
舞踏会の華やかさの中で、その印象は鮮烈だった。包帯を巻いていても、いや、包帯を巻いているからこそ、その人物は広間の中で異彩を放っていた。
彼が通るたびに、貴婦人たちの視線が後を追っていた。それでも、その人物は周囲の視線を気にするふうもなく、静かに、まっすぐに、ローズを見ていた。
「よろしいですか」
手が差し伸べられた。
「はい」
大きな手だった。
節くれた無数の小さな傷のある軍人の手だった。ローズはその手を取った。
踊り始めた瞬間、何かが違った。
とても踊り方がうまい。
それだけではない。このリズムの取り方、この手の角度、この体の動き方。どこかで知っている。ずっと昔に、何度も、一緒に練習した。広間の先生に怒られながら、笑いをこらえながら、何度も何度も練習した。
ローズは顔を上げた。相手の目が、自分をじっと見ていた。
黒い瞳だった。懐かしい、深い黒。
「あなたは、アンリ・ハルベルト小将軍ですよね」
ローズの声が、かすかに震えた。
「今は、そう呼ばれていますが」
その声を聞いた瞬間、ローズの全身が震えた。
七年間、何度も夢で聞いた声。目が覚めるたびに、消えていった声。夢の中で何度も呼んで、何度も消えた。その声が今、目の前にあった。
「あなたは……アンリオンですか」
相手は、一瞬だけ目を細めた。それから、静かに頷いた。
「ようやくわかりましたか。ローズ……」
その声を聞いた瞬間、ローズの足が止まった。
周囲の音が遠くなった。音楽も、人々のざわめきも、どこか遠い世界のことのようだった。目の前に、ずっと探していた人がいた。
「アンリ・ハルベルト小将軍とは、あなたのことだったのですか」
アンリオンが頷いて、微笑んだ。
笑うと、口の横に縦の皺ができた。それを見た瞬間、ローズの目に涙が盛り上がった。
その皺は、昔と同じだった。以前と、少しも変わっていなかった。これは、懐かしいアンリオンの笑顔だ。
こらえきれない涙が、頬を伝わって、灯にきらきらと光った。
「どうして泣くのですか?」
「だって……」
ローズは言葉を続けることができない。
「今でも、僕がきらいですか。迷惑ですか」




