第二十九話 舞踏会
舞踏会の当日、ローズは長いこと、鏡の前に立っていた。
選んだのは、淡いブルーのドレスだった。
衣装部屋には、様々な色のドレスがあった。赤、緑、黄色、白。でも、ローズの手は自然に、このブルーのドレスに伸びていた。
この色を選ぶたびに、アンリオンの声が聞こえる気がする。
「よく似合っていますよ、ローズ」
あの声は、七年経っても、記憶の中で少しも色あせなかった。
初めての舞踏会の夜、緊張で震えていたローズに、少し後ろから小声でそう言ってくれた。その声のおかげで、ローズは広間に踏み出せた。
ローズは鏡に映る自分を見つめた。
以前よりは、少しは大人になった。あの頃の自分は、まだ無邪気で、世界を知らなくて、自分が何を持っているかも、何を失うことになるのかも、わかっていなかった。
頬のあたりが少し変わったかな。
髪には、もう白いリボンはつけない。
でも、心の中はあの頃のままよ、と小さく呟いた。
「ローズ様、お時間ですよ。馬車の準備ができました」
召使の声がした。
「はい、今すぐ参ります」
ローズは深呼吸をした。
行ってどうなるわけでもない。
アンリ・ハルベルト小将軍は、アンリオンに似ているところがある人だろうか。
アンリ・ハルベルトは将軍の養子として、アンリオンとは全く違う戦いの道を歩いてきた人だ。
アンリオンは、ここを出てから、どんな道を歩いたのだろうか。
住むところもなかったのだから、もとの仲間のところに戻ったのだろうか。
いいえ、戻るはずはないけれど。でも、捕まって、戻ることになったかもしれない。
時は人を変えてしまうというから、彼の姿が想像できない。
ローズは部屋を出た。
廊下を歩きながら、自分の胸に手を当てた。心臓が、いつもより少しだけ速く打っていた。緊張はしているけれど、心がうきうきしている。そういうことは、久しぶり。
でも、自分の予感は当たったことがないので、自信はない。
夜空には星が多く、馬車の窓から見える明るい月に照らしだされたピンク色の花が、とても美しいと思った。
*
一方、アンリオンもまた、この舞踏会の夜を前に、複雑な思いでいた。
軍の礼服に袖を通しながら、鏡を見た。鏡の中の自分の顔には、包帯が巻かれていた。
「行ってきなさい。おまえが参加することを、国王が望んでおられるのだから」
そう言った時の将軍の顔が、どこか意味深だった。
「国王が、ですか。どうして、僕なんかを」
アンリオンは鏡から目を逸らした。
「行って、尋ねてみたらよいだろう」
「そんなこと、お聞きできませんよ」
*
アンリオンが入院していた時、将軍が「元気になって、自分で確かめればよい。王室関係のことなら、調べるのは難しくはないだろう」と言ったことがある。
それで、彼は退院すると、すぐにソーントン伯爵家、ローズ・ソーントンの情報を集めた。
ローズとビクター第三王子との縁談は、破棄されたことがわかった。
その理由は不明だが、ビクター殿下は今や行方が知れないという。
ローズは、フランクという男爵家の子息と婚約したが、それも解消されたと聞いた。今は、領地で人々のために働いているという。
ローズが結婚していなかった。
「まさか」
そのことを知った時、アンリオンは自分の心が揺れるのを感じたが、人の不幸を喜ぶべきではない、と自分を叱った。
たとえ結婚していなくても、ローズはもう関係のない人なのだ。
自分はただの孤児上がり。今は将軍の養子になったけれど、顔には大きな傷跡が残っている。傷などなくても、想いが重すぎると嫌われて、顔も見たくないと言われた身だ。こんな顔で、ローズに会えるはずがない。
しかし、将軍がこんなことを言ったのだ。
「ソーントン伯爵の令嬢が、今夜の舞踏会に招かれているらしい」
「そうなのですか」
アンリオンはできるだけ、平静を装った。
「会ってみればいい」
「……それは」
「私の顔も立てなさい」
「えっ。それは、どういう意味ですか」
将軍はそれだけ言って何も付け加えず、部屋を出ていった。後ろ姿が、なぜか笑っていた。
*
アンリオンは、長いこと迷った。
今更、会うべきではないだろう。ローズには、ローズのこれからの人生がある。それに、自分も人前で、恥はかきたくはない。
でも、ずっと、思い続けてきたのは本当だ。
会えるかもしれない、という機会が目の前にある。
一目だけでいい。元気でいることを、自分の目で確かめたい。
もう一度、恥をかいたって、よいではないか。
アンリオンは鏡の中の自分を、もう一度見た。
包帯に覆われた顔。
ローズが見たら、驚くかもしれない。あるいは、自分に気づかないかもしれない。
時の流れは、人を変える。
自分もきっと、変わった。声も、体つきも、なにもかも。でも、ローズへの想いだけは、前と少しも変わっていない。
それを知ったら、「しつこい人」、「気持ち悪い」と言われるかもしれないな。その時は、仕方ないな。
「ギャリュビョ」
アンリオンは鏡に向かって、笑おうとしたけれど、少しも、笑えなかった。




