第二十八話 小将軍の名
久しぶりに主都から戻ってきた伯爵が、娘のローズを書斎に呼んだ。
書斎は、夕方の光に包まれていた。窓から差し込む橙色の光が、棚に並んだ本の背表紙を照らしていた。伯爵は机の前に立ち、ローズが入ってくるのを待っていた。
「今度、王宮で春の舞踏会が開催されるから、ローズにぜひ来てほしいという依頼があった」
「お父様、ご存知のように、私は舞踏会は苦手です」
ローズが即座に答えた。
「以前は、ダンスが大好きだったではないか」
「ずうっと昔のことですわ。それに、ダンス自体は、嫌いではないですが」
「ビクター王子のことがトラウマになっているのかい。あのことは、もう七年前のことではないか」
「そういうわけではないのですが……」
とは言ったものの、ビクター王子のことが全く関係ないとは言えなかった。
豪華なシャンデリア、色とりどりのドレス、甘い音楽。初めて招かれたあの舞踏会の記憶は、浮かれ過ぎてしまった初恋、次に訪れた怒りと憐憫、後悔につながっている。
あの頃のローズには、何も見えていなかった。
恋に落ちるって、こわいと思った。
華やかさに目を奪われ、甘い言葉に耳を奪われ、大切な人の言葉を聞こうとさえしなかった。
恋はもういや。
二度と、自分を失うのはいや。
「人が大勢いるところにいると、緊張してしまいます」
「フランクとの婚約を解消したことで、また何か言われると思っているのかい」
「それもあります」
社交界での勝手な噂のことは、知っていた。
ビクター王子の件は極秘処理されたため、ローズが勝手に婚約を破棄したと思っている人も多い。あの人柄のよい男爵のフランクまで振って、なんて気まぐれな令嬢だという声があることも知っている。
退屈な社交界の夫人たちは、話を好きなように盛って、噂を楽しんでいるのだ。
それが気にならないと言えば、嘘になった。でも、ローズは思う。私は臆病ではない。社交界の夫人たちなどに、負けはしない。
でも、あの場所に戻ることには、深いためらいがあった。思い出がありすぎるから。
「ローズ、今回は、国王が自ら頼んでいるのだから、この舞踏会には参加すべきだよ」
「国王がですか。なぜわざわざこの私を」
「今度、ハルベルト大将軍と、その子息が北の戦地から戻ってくる。その勝利と慰労を兼ねての舞踏会で、盛大にやりたいようだ」
「大将軍と、そのご子息ですか?」
「この国にハルベルトありと言われる名将と、その息子のアンリ・ハルベルト小将軍だ」
「アンリさまですか」
アンリという名前を聞いた瞬間、ローズの心臓が跳ねた。アンリは、どこにでもある名前だ。でも、アンリオンと、音が似ているというだけで、どきどきしてしまった。
「アンリさまは北部の戦いで華々しい活躍をされて、国を勝利に導いたお方だ。戦いでは大きな傷を負われて、ようやく快復されたところらしい。顔に、痛々しい傷跡が残っているそうだが」
「アンリ・ハルベルトさまが、お顔に傷をですか」
「ハルベルト将軍の跡継ぎだが、養子だそうだ」
「そのお方のお怪我は、大丈夫なのですか」
「舞踏会に出席できるくらいなのだから、大丈夫なのだろう。ところで、その小将軍が、ローズに会いたいと希望されているらしい」
「……どうして、私に」
「それは私にもわからん。以前、どこかでお会いしたことがあるのかもしれないな」
「名前も今聞いたばかりで、一度もお目にかかっていないのに」
ローズがなぜかしら、と首を傾げた。
「とにかく、行ってはくれないか」
「はい」
ローズは、すぐに返答した。
「お国のために力を尽くされたお方ですもの。ぜひ、お会いしたいです。その方が、私に会いたいと言ってくださっているなんて、光栄です。会ってがっかりさせないような振る舞いをいたします」
伯爵は、娘の顔を少し不思議そうに見た。
ローズが舞踏会に行くことをこんなに早く承諾したのは、初めてのことだったから。
*
アンリ・ハルベルト小将軍が、なぜ自分に会いたいと言ったのだろうか。一度も会ったことのない人が、なぜ。名前も聞いたことがなかったのに、なぜ。
ローズは窓際に座って、夜空を見上げた。
アンリオンが屋敷を出た夜も、こんなふうに星が出ていただろうか。
あの夜のことを、ローズは今でも鮮明に覚えている。
裏口の木の陰で待ち伏せて、どこへ行くつもりなの、と声をかけた。アンリオンは驚いて振り返った。
その顔が、月明かりの中で、とても悲しそうだった。
あれから七年。
アンリオンは、どこで何をしているのだろうか。生きているだろうか。元気にしているだろうか。
折に触れて、彼のことを考えた。庭のバラを見るたびに、空を見上げるたびに。
アンリ・ハルベルト小将軍。
アンリオン。
響きが、似ている。それだけで、うれしい。
その夜、ローズは眠れなかった。胸のあたりが、落ち着かなかった。
舞踏会が待ち遠しいような、怖いような、不思議な気持ちだった。こんな気持ちは、久しぶりだった。
ローズは膝の上にショールを広げた。葡萄色のビロードのショールが、月明かりの中で静かに光った。アンリオンが置いていったもの。触れていると、あの日のことが戻ってくる気がした。
「ギャリュビョ」
ローズTが小さく呟いた。




