★四章 第二十七話 命知らずの戦士
伯爵家の屋敷を出てから、七年が経ち、アンリオンはすでに二十五歳になっていた。
ハルベルト将軍の養子として小将軍の地位を得て、北部の大規模な反乱の鎮圧に功績を上げ、国に平和をもたらすことに貢献した。
戦場に出ても、彼は怖くはなかった。
全く怖くなかったわけではないが、失うものが少ない人間は、強くなれる。それが良いことなのかどうか、アンリオン自身にはわからなかった。
ただ、前に出ることをためらわなかったのは確かだった。部下たちは彼のその姿を「命知らずの戦士」と呼んだ。
それでも、戦場に出るたびに、思うことがあった。
この国に、ローズが元気に生きている。
そう思うと、微笑みが漏れた。
彼女に、子供は何人、いるのだろうか。子供たちと、子供の頃のように、庭で走り回っているだろうか。木に登ったり、馬を走らせたりしているのだろうか。彼女は奇想天外で、話すことがおもしろいから、夕食の時には、家族みんなを笑わせていることだろう。
でも、それは自分には関係のないことだ。彼女の家庭のことまで、考えるべきではないといつも思う。
それでも、戦の前夜など、ひとりになると、決まってローズの顔が浮かんだ。
ある秋の戦いで、味方が包囲された。
彼らを救うため、アンリオンは敵陣の中に、自ら斬り込んだ。
しかし、撤退の直前、最後の一人を仕留めようとした瞬間、背後から気配があった。
振り向く間もなく、刃が振り下ろされた。間一髪のところで急所を外れたが、
刃は頬から顎にかけて深く切り込んだ。
痛いという感覚はなく、最初はただ音がしただけ。鋼が骨をかすめる、鈍い音。次の瞬間、視界が傾いて、アンリオンは地面に膝をつき、顔をついた。
「小将軍!」
部下の声が、遠くなった。
頬に触れた土の冷たい感触だけが、妙にはっきりしていた。
意識が遠のきながら、アンリオンはぼんやりと思った。ローズのことを。
「ギャリュビョ」
*
アンリオンが目を覚ますと、白い世界があった。
ここは天国なのか。いや、白いのは天井で、ここはまた病院なのか。長い治療が待っているのか、とアンリオンはうんざりした。
今度の傷は以前のよりも痛かった。
顔の右半分が、熱を持っていて、石のように重い。おそるおそる触ってみると、包帯が頬から顎を覆っていた。
呼吸するたびに、顔がひきつる。
腕を動かそうとすると、全身がきしむように痛んだ。
窓から光が差し込んでいた。この光は午前なのか、午後なのか。どれほど眠っていたのかわからなかった。
部屋の隅に小さな鏡台が見えた。
しかし、顔がどうなっているか、見たくはなかった。見る理由なんか、もうない。
誰かに恰好いいと思われたいという気持ちは、とうの昔に手放した。
いや、正確には、たったひとりに思われたかっただけで、その人はもう遠くにいる。顔なんか、どうでもいい。
しばらくすると、扉が開いた。
「目が覚めたか」
ハルベルト将軍だった。
三年前に病院で初めて会った時と同じように、彼は静かに部屋に入ってきた。その後ろに、軍の医師が続いた。
将軍は椅子を引いて、アンリオンの傍らに座った。その顔には、安堵と、それを隠そうとする厳しさが混ざっていた。
医師が包帯を確かめながら、将軍に報告した。
「彼は弱音を吐きませんが、この傷は相当痛いはずです。痛みはやがて収まりますが、顔に傷跡が残るでしょう」
「わかった。ありがとう」
将軍が医師に頷くと、医師は静かに部屋を出ていった。
将軍とアンリオンが二人きりになった。
「痛いか」
「大丈夫です。戦場の傷など、名誉の勲章です」
「鏡を持ってこようか」
「いりません」
「そうか」
将軍はそれ以上は言わなかった。
その沈黙が続いた。将軍は膝の上で手を組んだ。
叱るでもなく、慰めるでもない。アンリオンはその沈黙が、何よりもありがたかった。
余計な言葉をかけられると、堪えている何かが崩れそうな気がしたから。
窓の外では、枯れ葉が風に舞っていた。ローズが好きな季節だった。
秋になると彼女は必ず庭に出て、落ち葉を集めて山を作り、その上に飛び込んで笑っていた。
アンリオンはいつも、呆れたふりをしてそれを眺めていたが、本当は、その笑顔を見るのが好きだった。
黄色や赤の葉が彼女の金色の髪に混じって、それをアンリオンが一枚一枚取ってやると、ローズはくすぐったそうに首をすくめた。
今は、もう美しい容姿など必要ない。
ローズの前に立つことなど、もうないのだから。
いつか、ローズがなぞなぞを出したことがあった。
あれも、秋の日だったと思う。落ち葉の山の上に座り込んで、勝気なローズが得意げに言ったのだ。
「じゃ、なぞなぞ、いくわよ。私が右手をあげると、その子も左手をあげる
の。私が笑うと、その子もうれしそうに笑うの。でも、どんなに仲良くなっても、絶対に握手だけはしてくれない。それなーんだ?」
アンリオンはしばらく考えた。
「答えは、自分、ですか」
「違うわよ。私達は握手ができるもの。ほら」
ローズが突然、アンリオンの手を握ったので、彼はどきどきした。
「あっ、答えが、わかった」
「なに」
「鏡です」
「あーあ、ヒントをあげすぎたわ」
「また僕の勝ちですね」
あの時の、ローズの手の温かさを、アンリオンは今でも覚えている。あれは、何気ない子供の戯れだったのだろう。それとも、他に何か意味があったのだろうか。今となっては、確かめる術もない。
*
「父上」
「どうしたのだ」
「捕虜になっていた兵士は助かりましたか」
将軍が少し目を細めた。
「助かった。おまえの部隊が、飛び込んでいったからだ」
「それならよかった」
アンリオンは息を吐いた。それだけで、胸の中の何かが少し軽くなった気がした。
「おまえは」
将軍が、ゆっくりと言った。
「自分の傷よりも、そちらが心配なのだな。ほかに聞きたいことはないのか」
その声が、わずかに揺れていたが、アンリオンは気づかないふりをした。
「父上」
「なんだ」
「ローズは、幸せでいるのでしょうか」
そんな質問が、ふっと口から出てしまった。
「どうしたんだ、急に。……さあ、どうだろうな」
「ローズの苗字は、ソーントン、ローズ・ソーントン、相手はビクター第三王子でした。幸せに暮らしているのでしょうか」
「相手は、ビクター第三王子なのか」
将軍の眉がぴくりと動いた。
「ご存知ですか」
「そう言えば、第三王子の話は聞かないが、噂がないのは、よいことだ。知りたければ、元気になって、自分で確かめればよい。王室関係のことなら、調べるのは難しくはない」
アンリオンは、包帯に覆われた頬の右側を、指先でそっと触れた。
「これでよかったのです」
「何がよかったのだ」
「ローズには、ローズにふさわしい世界があります。美しいドレスを着て、美しい舞踏会に出て、美しい人々の中で生きる世界が。私はその外にいるけれど、それがふさわしい」
「本当にそう思っているのか」
少し間があった。
「……思おうとしています」
正直に言ってしまってから、アンリオンは少し後悔した。しかし、将軍は何も言わず、ただ頷いた。
将軍はやがて立ち上がり、窓の外を見た。枯れ葉が一枚、風に運ばれて空へ舞い上がっていった。
「傷が癒えたら、また話そう」
「はい」
「急いで治そうとするな。今度ばかりは、ゆっくり休め」
「……はい」
「おまえがいなければ、私が困る。軍隊の話ではないぞ。私が困るのだ。それは、覚えておきなさい」
将軍はそれだけ言って、部屋を出ていった。
アンリオンは、ひとりになった部屋で、また天井を見上げた。
自分がいなければ困る、と将軍は言ってくれた。
彼は愛しているとか、大切だとか、そういう言葉は決して使わない。しかし、その言葉の奥の意味は、わかる。
父上、優しいお言葉をありがとうございます。
アンリオンは目を閉じた。
顔の傷が、じくじくと疼いていた。
でも、守るべき兵士は守れた。将軍は来てくれた。自分は、それだけで幸せだ。
ローズのことは、もう口にはしない。そっと胸の奥にしまっておこう。
突如、将軍の前で、彼女の名前を口にしてしまったりして、どうかしていた。
きっと頭を打って、おかしくなっていたのだと見過ごしてほしい。
窓の外で、風が木の葉を揺らしていた。秋の終わりの、冷たい風だった。




