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第二十六話 アンリ・オリオン・ハルベルト


ハルベルト将軍の下で働いて、さらに三年が経った。


そんな春のある日、将軍がアンリオンを書斎に呼んだ。


日が傾きかけた時刻で、書斎には温かい光が満ちていた。


棚には古い本が並び、机の上には地図と書類が積まれている。将軍はその机の前に立って、アンリオンが入ってくるのを待っていた。


「座りなさい」


椅子を勧められ、アンリオンは腰を下ろすと、将軍は机の端に腰をかけ、腕を組んだ。


「アンリオン、おまえに大事な話がある」


「はい」


「私には、跡継ぎがいない」


将軍の声は、穏やかだった。しかし、その言葉の重さは、部屋の空気を少し変えた。


「弟は死んだ。弟の家族も死んだ。私の妻は子を産む前に病で逝った。もう二十年も前の話だ」


「……」


「私もそろそろ、先のことを考えなければならない齢になった」


「まだお若いです」


「そういうことではない。おまえを、養子にしたい」


「僕を、将軍の養子にですか。弟殿のお子に似ているのかもしれませんが、私は孤児です。ハルベルト家を継ぐ者として、ふさわしくありません」


「孤児だとしても、どこかに親はいるはずだ。空気から生まれた人間はいない」


将軍が静かに言った。


「人は、必ず誰かから生まれた子だ。それに……」


将軍は、ゆっくりと立ち上がり、窓の外を見た。


「私はずっと考えてきた。おまえが弟の子かどうか、わかる術はない。しかし、わからなければ、つながりがないということにもならない。血がつながっていても、心がつながっていない親子はいる。いや、そういうほうが、多いのではないかな」


「はい」


「おまえと話していると、弟をよく思い出す。それが血のつながりによるものなのか、ただの偶然なのか、私には判断がつかない」


将軍が振り向いた。


「だが、私はおまえのことを、ずっと見てきた。後を継いでほしいと思う人間は、おまえしかいない」


アンリオンの胸の中に、うれしさと、申し訳ないような気持ちが、同時に満ちてきた。


「僕は、ハルベルト将軍に恥じない生き方ができるかどうか、自信がありません。僕は、そんなにできる男ではないのです。がんばってはいますが、実のところは、失敗ばかりしています。訓練でも、最初に試した時に、成功した試しがありません。きっと後悔なさいますよ」


「そんなものは、やってみなければわからないだろう」


将軍が声を立てて笑った。


「そういう謙虚さが好きなのだ。それに、アンリオン」


「はい」


「おまえが言った、あのローズという女性のこと」


アンリオンは少し驚いた。将軍がその名を覚えていたことが、意外だった。


「身分が違うと言ったな。ならば、身分を作ればいい。将軍の息子でも、不十分か」


「いいえ。でも、彼女はもう結婚しているでしょうから」


「そうか」


将軍はそれ以上は言わなかった。ただ、静かに頷いた。


ハルベルト将軍の息子になる。


その言葉の重みが、アンリオンの胸にじわじわと広がった。


窃盗団の子。孤児。誰にも望まれず生まれてきたと、ずっと思っていた自分。その自分が、ハルベルト将軍の名を継いでいいものか。


アンリオンは将軍の顔を見た。まっすぐにアンリオンを見つめるその目には、信頼と愛情があった。


僕なんかが、本当に。でも、彼の期待に、応えたい。新しい自分に、なってみたい。


「で、養子の返事は」


「ありがとうございます。光栄です」


アンリオンは、深く頭を下げた。


「……うれしいです」


声が、震えていた。


将軍は、アンリオンの肩に手を置いて、何度か揉んだ。その大きな手の重さが、父親というものに初めて触れたような気がして、アンリオンはしばらく頭を上げられなかった。


その夜、アンリオンはひとりで部屋に戻った。机の前に座ったが、何もする気になれなかった。


ただ、窓の外の空を見ていた。今日のことを、まだうまく飲み込めていなかった。


将軍の息子。


アンリ・オリオン・ハルベルト。


その名が、自分のものになる。


孤児だった自分が、三日間、何も食べられなかった自分が、窃盗団のアジトで、親分に怯えていた自分に、親ができた。それも、ハルベルト将軍だ。

あまりにできすぎていて、恐ろしい。


アンリオンが目を閉じると、リリィ夫人の顔が浮かんだ。


あの葡萄色のショールの温かさが、指先に残っている気がした。


「奥さま、僕はこんなところまで来ました」


「大丈夫よ」


夫人の声が聞こえた気がした。


それから、ローズの顔が浮かんだ。


金色の髪。青い瞳。口を尖らせた時の顔。笑った時の、満開のバラのような顔。


将軍は、結婚に、身分など関係ないと言ってくれた。それに、おまえは将軍の息子になるのだ。文句をいう者はいないはずだ、と。


でも、ローズはもう結婚しているはずだ。


今頃は子供もできて、幸せに暮らしているはずだ。それでいい。願いはいつも、それだけだった。ローズには、いつも幸せでいてほしい。


「幸せって、なによ」


そう言って口を尖らせるローズの顔が浮かんだ。


アンリオンは窓を開けた。夜風が入ってきた。今夜は、星が多いな。


同じ空の下、ローズも今夜の星を見ているだろうか。そう思うだけで、明日もがんばれる気がした。


こうして、アンリオンはアンリ・オリオン・ハルベルトとなった。



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