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第三話 お兄さん


「アンリオン、ローズはとてもよい子なのよ。でも、活発すぎて、時々、危険なことをやることがあります。あなたはどんな時でも、ローズを守ってくださいね」


「はい」


「約束してくださいね」


リリィ夫人の瞳には、深い愛情と同時に、どこか不安げな光があった。


「はい。僕はどんな時でも、ローズさまをお守りします」


アンリオンは真剣な表情で答えた。この親切な人たちのために、心から、何でもしたいと思った。


その数日後、ローズが馬に乗った時、足元を走り過ぎたリスに驚いて、馬が暴走してしまう事件があった。馬丁が急いで後を追ったが、誰も追いつけない。


ローズの悲鳴が庭中に響き渡った。


馬はゲートを飛び越えて、門を抜け、外の林に向かって走りだした。


アンリオンは懸命に走り、先回りして道に出て、迫って来る馬の前に立った。暴走する馬の目が恐怖に見開かれている。


アンリオンは怖かったが、動かなかった。馬は少年の前で立ち止まり、ローズは振り落とされることなく、無事だった。


彼の機転と勇気のおかげで、ローズは怪我をしなくて済んだのだ。


「ありがとう。アンリオン、こわくなかった?」


「ぜんぜんです」


とアンリオンは答えたが、アンリオンの膝は、恐怖でがくがく震えていて、すぐには微笑むことさえできなかった。でも、ローズが無事だったことが、何よりもうれしかった。


リリィ夫人は彼の行動に感動した。


「アンリオン、あなたはもうこの家の使用人ではありません。今日からは、ローズのお兄さんですよ。よいですか」


「僕はうれしいですが、……」


アンリオンが不安そうにローズのほうを見た。


「ローズはどう思うの?」


と夫人が聞いた。


「お兄さんがずうっとほしかったから、とてもうれしい」


「それはよかったわ。私も、これで安心です」


夫人は、アンリオンとローズを分け隔てなく育てることにした。同じ食卓で食事をし、同じように教育を受けさせることにしたのだった。


その夜、アンリオンはベッドの中で、今日のことを思い返していた。


「お兄さん」


生れて初めて、そう呼ばれた。


自分には、家族がいない。たったひとりだと、ずっとそう思っていた。でも今日から、妹ができた。守るべき人ができた。それはうれしいことだったが、同時に、とても重いことのような気がした。


アンリオンは目を閉じた。暗闇の中で、ローズの笑顔が浮かんだ。満開のバラのような、あの笑顔が。


どんなことをしても、あの笑顔を守るんだ。彼はそう心に誓った。


*


それから三年経ち、アンリオンが十歳になった春、リリィ夫人が突然の病に倒れた。


もともと心臓に問題があり、いつも発作の不安が離れなかったのだが、ここ数年は落ちついていた。


今回は、最初は軽い咳だったが、病は日に日に悪化していき、町から招いた名医が、弱っている心臓は、数日しかもたないだろうと宣告した。


「お母さま、私を置いていってはいやです」


ローズは母の手を握りしめて泣いていた。小さな手は、母の痩せ細った手を必死に握っていた。


「リリィ奥さま……」


ベッドの傍らで、アンリオンも泣いていた。伯爵夫人は彼を救ってくれた人。世の中で一番優しい人だったから、彼の涙が止まらなかった。あの冬の日のことを、思い出していた。


馬車から降りてきて、ショールをかけてくれた人。お腹、空いているでしょう、と言ってくれた人。あの言葉が、アンリオンの人生を変えた。


「私の愛する娘ローズ……泣かないで……」


リリィの声は弱々しかったが、優しく微笑んだ。その顔は青白く、かつての美しさの面影を残しながらも、死の影が濃く差していた。


「お母さま……嫌よ、ひとりはいや。ひとりにしないで……」


「ごめんなさい……でも、大丈夫……あなたには、アンリオンというお兄さんがいるでしょ……」


リリィの目が、アンリオンに向いた。その瞳には、最後の力を振り絞るような強い光があった。


「アンリオン……」


「はい」


「ローズを……よろしく頼みますよ……。あなたはお兄さんですからね、妹を」


その声はかすれていたが、その瞳には力が込められていた。


「アンリオン、あなたは……とても優しい子……だから、お願いします……どんな時にも、ローズを……守ってあげて……」


「奥さま!」


「約束して……」


アンリオンは、涙を拭いて、しっかりと頷いた。


「約束します。僕は、いつでも、ローズさまを守ります」


「ありがとう……」


夫人は安心したように微笑み、そして、静かに目を閉じた。窓の外では、春の風が優しく木々を揺らしていた。まるで、リリィ夫人の魂を天へと送るかのように。


夫人の手が、そこにあった。でも、さっきまでと違うのは、もう動かないことだった。もう目を開けることも、何かを話すこともない。


蝉の抜け殻みたいに、夫人は身体をこの世に残したまま、天国に旅立った。

これが、死というものなのだとアンリオンはおののいた。


ローズが声を上げて泣いていた。アンリオンは、ローズの肩に手を置いた。何も言えなかった。ただ、そこにいることしか、できなかった。



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