第二話 土のついた玉ねぎ
ソーントン伯爵家の屋敷に連れて来られたアンリオンに、召使が温かい肉入りスープと焼き立てのパンを運んできた。
肉なんて、長いこと食べていなかった。湯気の立つスープからは、香ばしい匂いが漂っている。こんなやわらかいパンを食べたことがなかった。がつがつと食べるアンリオンを、夫人は優しく見守っていた。
「何か甘いものも持って来なさい」
夫人は召使に指示を出した。
「はい」
「デザートを食べ終わったら、この子をお風呂に入れて、新しい服を着せてあげなさい」
「かしこまりました」
アンリオンは風呂場に連れて行かれ、温かいお湯に入れられ、召使にごしごし洗われた。長すぎた黒髪をカットされ、新しい下着、白いシャツに青いズボンを着せられた。
「ほら、見てごらんなさい」
と召使が鏡を見せた。
「これが、僕」
「そうですよ。あなたは土のついた玉ねぎね」
「玉ねぎ?」
「皮を剥いたら、中はぴかぴか」
アンリオンは涙が出そうになった。こんなに人に優しくされたことが、なかったから。どうすればいいかわからなくて、ただ、鏡の中の自分を見ていた。
これが自分なのか、と思った。汚れていない自分。温かい服を着た自分。見たことのない自分が、そこにいた。
召使が胸を張って、すっかりきれいになった少年を夫人のところに連れて行った。
「乞食少年が、まるで王子のようになりました」
「乞食少年はないでしょう」
夫人は眉をひそめたが、すっかり美しくなったアンリオンを見て、笑顔になった。
「アンリオン、あなたが心配することは、もう何もないのよ。私が守ってあげますからね」
「はい」
その時、アンリオンの目に、自分には差すはずがないと思っていた明るい光が、見えた気がした。
それが何なのか、アンリオンにはわからなかった。ただ、胸の奥がじんわりと温かくなり、うれしさがこみ上がってきた。
数日後、夫のビル・ソーントン伯爵が主都の住まいから、郊外のこの屋敷に戻って来た。
「ねえ、あなた、アンリオンを、うちで引き取るというのはいかがかしら。このまま帰すわけにはいきませんわ」
とリリィ夫人が言った。
「あの浮浪児をか。まだ年少のようだが、あんな子に、いったい、どんな仕事ができるというのか」
「うちには、さまざまなお仕事がありますわ。それに、彼にしかできないことだってあります」
「彼にしかできない仕事がありますか?」
「ええ。娘のローズはお転婆すぎて、女の子の友達とは合わないようですわ。一人っ子ですし、兄弟がいないから、いつも、寂しそうです。アンリオンのことを、ここ数日、じっくりと観察しましたが、ただの浮浪児ではないですよ。行儀もよいですし、言葉もよく知っています。きっと良い遊び相手になってくれると私は思います」
「そうだろうか」
「あなた、私の目を信じてくださいますよね」
この伯爵家は、もともとはリリィ夫人が父親から継承したもので、ビルは婿養子である。
伯爵は少し考えてから頷いた。
「では、そうしよう。リリィがそう言うなら、反対はしない」
リリィ夫人の判断は、いつも正しかった。それを、ビル伯爵はよく知っていたのだ。
その夜、リリィは一人で書斎に座っていた。暖炉の火が、部屋をやわらかく照らしていた。
あの子の目が、頭から離れなかった。兄上さまに似た目。でも、兄上さまとは違う何かが、あの黒い瞳の奥にあった。諦めと悲しみの中に、まだ消えていない何かが。それが何かを、リリィはずっと考えていた。
あれは人を信じたい、という気持ちの表れではないのか。
そう思った時、胸が痛くなった。あんなに幼いのに、あんなに傷ついているのに、それでもまだ、人を信じたいと思っている。その気持ちを、消してはいけない。守ってあげなければ。
リリィは立ち上がり、蝋燭のついた燭台を手に、アンリオンが寝ている部屋まで行った。
そっと扉を開けて中にはいると、アンリオンはベッドですやすやと眠っていた。あんなにも深く眠っている子供を、リリィは初めて見た気がした。疲れ果てて、ようやく安心できた場所で、眠っているのだろう。
リリィは部屋に入り、ずれかけていた毛布を、そっとかけ直した。その寝顔は、とても幼かった。当たり前だ。まだ七歳なのだから。
「安心していいのよ。私があなたを守りますから」
リリィは小さく言った。
「今日からは、ここが、あなたの家ですよ」
翌日、召使のクレメンシァはこの屋敷での「すべきこと」「してはならないこと」、貴賓に対する挨拶など、こまごましたマナーを教えると、アンリオンはすぐに覚えた。
「あなたは頭がいいわね。覚えがはやいこと」
と召使が驚いた。
「ありがとうございます」
クレメンシァはアンリオンをこの家のひとり娘ローズの部屋に連れて行った。
大きな扉を開けると、大きな窓から陽光が差し込む明るい部屋だった。壁には絵本や人形が飾られていた。
ブロンドの髪をした少女が、ベッドの下から、顔を出した。顔が赤い。
「お嬢様、どうなさいましたか」
「だって、友達が来るというのでうれしすぎて走り回っていたら、なかなか来ないんだもの。走り過ぎて、倒れてしまったの」
なんてかわいい少女なのだろう。
アンリオンは見とれてしまった。
「ほら、お嬢さまに、ちゃんと挨拶をしなさい。教えたように」
クレメンシァがアンリオンの頭を強く押した。
「初めまして。アンリオンと申します。よろしくお願いします」
「待っていたのよ。あなたがアンリオンなのね。お母さまからよく聞いています。いつ会えるのかしらって、すごく楽しみにしていたのよ」
金色の髪を二つに結った小さな少女が、アンリオンを見つめていた。その青い瞳は、好奇心に輝いていた。
アンリオンはこんなに明るい目をした子供を、見たことがなかった。まるで、曇りのない空のような目だった。
「私はローズよ。五歳。あなたは」
「僕は七歳です」
「私の遊び相手になってくれるって、お母さまが言っていました。本当になってくれますか」
「はい、ローズさま。よろしくお願いします」
「アンリオンは、木に登れますか?」
「得意です」
「走るのは」
「速いです」
「好きなものは」
「犬と虫とりんごです」
「わー、なんてうれしいの。最高!」
少女は屈託なく笑った。
「私も、同じよ。この世界に、こんな理想的な子がいるなんて、思わなかったわ」
ローズの笑顔は、まるで満開のバラのように明るくかわいかった。
アンリオンはローズの言葉を聞いて、とてもうれしくて、胸がどきどきした。孤児になってから四年、その間、こんなに幸せを感じたことは一度もなかった。
同じよ、と言われただけで、こんなにうれしいものなのか。
同じよ、というその言葉が、胸の中で何度も響いた。




