第一話 小路の子供
「馬車を止めなさい」
ソーントン伯爵夫人リリィが、窓を開けて御者に言った。
冬の冷たい風が馬車の中に吹き込んできたが、夫人は気には留めなかった。御者が馬の手綱を引き、馬車の横に立っていた従者がドアを開けた。
「ソーントン夫人、どうなさいましたか」
「あそこの小路で、子供達が喧嘩をしているようです。ちょっと見てきなさい」
「はい」
「気をつけるのですよ」
従者が剣に手をかけながら小路まで行くと、騒いでいるのは五、六人の少年で、その袋叩きにあっていたのは額に血を流したひとりの子供だった。薄汚れた服を着た少年は、顔を腕で覆いながら、身を丸めて耐えていた。
「やめろ。やめるんだ」
従者が虐めていた子供を睨みつけた。そして、小銭を与えて、追い払った。倒れていた少年を起き上がらせ、引きずるようにして馬車に連れて行った。
「怪我をしていた子供を連れてきました」
「よくやりました」
夫人はそう言って、窓から少年の瞳を見てはっと驚いた。そして、わざわざ馬車から降りてきた。
その子の哀しい瞳が、あまりにも、若くして亡くなってしまった大好きだった兄上さまのものに似ていたからである。その黒い瞳には、諦めと悲しみが混ざり合っていた。
しかし、もう一つ、何かがあった。リリィにはそれが何かわからなかったが、ただ、この子を放っておくことができないと思った。それだけははっきりしていた。
「まあ、かわいそうに、こんな寒い中……。こんな服装で、いじめられていたのですね」
夫人は優しく微笑んで、震える少年に自分のショールをかけた。高価な葡萄色のビロードのショールは、少年の冷え切った体を温かく包んだ。
少年は、最初、びくりと身をすくめた。優しくされることに、慣れていないのだろう。その反応が、リリィの胸を締め付けた。
「お腹、空いているでしょう?」
少年はおずおずと頷いた。
「うちにいらっしゃいな。たくさん食べ物がありますよ」
少年は大きく頷いた。もう三日も何も食べていなかったから、空腹で目が回りそうだったのだ。
夫人は少年を馬車に乗せ、自分の隣に座らせて肩を抱いた。彼の身体は骨ばっていて、あまりにも痩せていた。
こんなに細い子供を、リリィは見たことがなかった。何日、まともに食べていないのだろう。何年、こんな暮らしをしてきたのだろう。
「お名前は」
「アンリオン」
「聞いたことのない名前だけれど、なんて美しい響きだこと。あなたにぴったりね」
少年は、名前を褒められたことに、どう反応すればよいかわからないようだった。ただ、じっとリリィを見ていた。
疑っているのか、それとも、信じたいのに信じ方がわからないのか。その目が、亡き兄上さまの目に似ていた。
「お父さんやお母さんはいるのですか」
「いるけど、いない」
と少年が首を振った。
「どういう意味かしら。話してごらんなさい」
「はい。三歳の頃に、人混みで、母親とはぐれてしまったんです。その時に、探してくれると言った人がいて、付いて行ったらこわい親分がいて、それから、街で盗みや物乞いをさせられていたんです」
「さっきの子供たちは」
「仲間ですが、時々、取り分のことで、喧嘩になるんです。稼ぎが少ないと、親分に殴られるから、みんな必死なんです」
「アンリオン、もうそこへ帰ることはないのよ」
七歳のアンリオンは、その言葉の意味が、すぐにはわからなかった。
もうそこへ帰ることはない。それは、どういうことだろう。
この綺麗な服を着た女の人が、そう言っている。でも、どうして。
自分は汚くて、何も持っていなくて、盗みをしていた子供なのに。
馬車の中で、アンリオンはずっと窓の外を見ていた。
街が、後ろに流れていく。あの小路が、あの仲間たちが、どんどん遠くなっていく。怖かったが、戻りたいとは思わなかった。
でも、この先に何があるのか、全くわからなかった。
こうして、七歳のアンリオンは、ソーントン伯爵夫人に拾われたのだった。




