第二十四話 婚約者
ある晴れた午後、散歩に出かけたローズのところに、子供たちが駆けてきた。
「ローズ様!」
子供たちは、顔を紅潮させ、ローズを取り囲んだ。
土のついた手で、ローズのドレスを引っ張る子もいた。以前のローズなら、ドレスが汚れることを心配したかもしれない。でも、今は、自分のところに駆け寄ってくれる子供たちの小さな手が、とてもうれしかった。
「まあ、どうしたの? そんなに息を切らして」
「あのね、村に井戸を作ってくれてありがとう!」
「もう、水を汲みに遠くまで行かなくていいんだ!」
「お母さんが、これを渡してって」
一番小さな女の子が、両手で野の花の束を差し出した。摘みたての、素朴な花だった。ローズはしゃがんで、その花を受け取った。
「ありがとう。こんなにきれいで心のこもったお花、いただいたことがないわ」
「本当に?」
「本当よ。お部屋に飾って、大切にしますね」
女の子は照れて、ころころと笑った。その笑顔が、天使のように無邪気で、ローズは胸が温かくなった。
「どういたしまして。これからも、困ったことがあったら、遠慮なく言ってね」
子供たちが走って去っていくのを見送って、ローズは微笑んだ。
家に戻って、ローズは楽しそうに、鼻歌を歌いながら、花瓶に花を生けた。
「ローズ、最近は、本当に生き生きとしておられますね」
その声はフランクだった。
彼は男爵家の長男で、誠実な人柄の青年だった。三年前、ある公爵の紹介で知り合い、ふたりは婚約したのだった。
それは、彼を断る理由が見つからなかったからだった。フランクは穏やかで、頭脳明晰で、何よりもローズを大切にしてくれた。
それに、女性がひとりで生きていくことなんかできないと思ったし、子供もほしかった。こういう人はもう二度と、現れないだろう。
「そうかしら。自分では気づかなかったけれど」
「以前とは、目の輝きが違います」
ローズは少し考えてから、空を見上げた。雲が、ゆっくりと流れていた。
「やるべきことを見つけたからかもしれないです」
「と言いますと」
「以前は、王子の妃になることが、幸せの道だと思っていました。美しいドレスを着て、舞踏会に出て、人々から羨望されること、それが、伯爵家の娘として生まれた女性の、幸せの形だと」
ローズは花瓶に生けた野生の花を見た。
「でも、違うことがわかりました。私、子供すぎました。人々の役に立つこと、誰かを笑顔にすること。それが、私の幸せなのだと、ようやくわかったのです」
フランクは、しばらく黙っていたが、少し躊躇うように口を開いた。
「あなたはすばらしいお方です」
「そんなことはないのです。私は意地悪で、心の狭い人間です」
「あなたが意地悪なら、世の中は、凶悪人ばかりですよ。僕はあなたをずっとお慕いしております。もう婚約して二年が過ぎました。いつ、結婚していただけるのですか」
ローズは、答えに詰まった。
フランクがよい人だということはわかっている。
この二年間、一度も急かすこともなく、ただ隣にいてくれた。しかし、社交界では、どうして婚約が長引いているのかと、噂が立ち始めていることも知っていた。
「フランク、少しだけ待ってほしいの」
「本当に、もう少し待てばよいのですか」
「……」
「僕たちの間に、問題は何もないのに、どうして結婚できないのだろうか」
その言葉には、責めるような響きはなかったから、それがかえって、胸に重かった。
「フランク、あなたは、私のどこがお好きですか」
ローズは、正直に聞いてみた。フランクは、しばらく考えてから答えた。
「家柄や、お姿の美しさを挙げることもできます。でも、私が好きなのは、あなたの心です。あなたは、誰にでも親切で、優しい。時に騙されやすいところがあるけれど、それは裏返せば、人を信じる純粋な心を持っているということだと思います」
「私は意地悪だったと言いましたでしょ。誰にでも優しいというわけではなかったのよ」
「どういうことですか」
「一番優しくしなければならなかった人に、残酷な仕打ちをしてしまいました」
フランクは何も言わなかったが、それがアンリオンのことを言っていることはわかった。
アンリオンという、幼い頃から共に育った人物がいて、屋敷を去ったことも、彼女がそのことを今も悔いていることも。直接聞いたことはなかった。
でも、そばにいれば、わかることがあった。ローズが庭のバラを見る時の目。ローズが空を見上げる時の目。それがどこを見ているのか、フランクにはわかっていた。
ローズとフランクは、夕日の中を馬で並んで進んだ。
影が、ふたつ、寄り添うように地面に伸びていた。
以前、このようにして馬を並べて走ったことがあった。あの時は、もっと速く駆けた。笑いながら、どちらが先かを競った。よく競争をしたし、ある時には、負けたほうが逆立ちをして歩く羽目になったことがあった。
庭の玄関まで三十メートルを、アンリオンが逆立ちで歩き、途中で手に豆ができて、ローズが靴を脱いで手にはかせてあげた。あの時のことを、アンリオンは今でも覚えているだろうか。
夕日が、地平線の向こうに沈んでいく。
橙色の光が、草原を赤く染めた。フランクは優しい人だ。誠実で、思いやりがあって、ローズを大切にしてくれる。彼を失ったら、もう結婚の機会はないだろう。そのことは、よくわかっていた。
でも、ローズは手綱を握りながら、思った。
一生、結婚できなくても、いい。
でも、それはフランクを傷つけることになる。それは、本当に申し訳ないと思う。
でも、たとえこの先、何年待ってもらったとしても、この気持ちは変わらないだろう。誠実な人を、曖昧なまま引き留めることのほうが、よほど不誠実だろう。




