第二十二話 アンリ・オリオン
「でも、その後、伯爵夫人に救っていただき、幸せでした」
将軍は、膝の上で手を組んだ。その大きな手が、少し震えているように見えた。
将軍は静かに話し始めた。
「私には弟がいたのだ。温厚で、剣よりも本を好む男だったが、妻と二人の息子を深く愛していた」
「はい」
「十五年ほど前、その弟が家族で馬車旅行をしていた時、山賊に襲われた。馬車は崖から落ちた。……弟も、義妹も、上の息子も、遺体で見つかった」
「それは……」
「しかし、下の息子だけが、見つからなかった。三歳になるかならぬかの頃だった」
将軍は視線を窓の外に向けた。
「その子の名が、アンリ・オリオンだ」
部屋の中が、静まり返った。
遠くで鳥が鳴いた。包帯の下で、腕の傷が鈍く疼いた。
「もしかしたら、その子が、きみではないかと思っている」
アンリオンは何も言えなかった。
言うべき言葉が、見つからなかった。もし本当にそうだとしたら、と思う気持ちと、そんな都合のいい話があるはずがない、という気持ちが、同時にあった。
「もしかしたら、この僕が」
アンリオンがやっと口を開いた。
「そうなのかもしれない、と思っている」
将軍は静かに繰り返した。
「私は何も覚えていません」
「知っている」
将軍は、アンリオンの顔をもう一度、静かに見た。
「おまえの目が、弟によく似ている。戦場での動きが、弟の長男に似ている。おまえの名前が、近い。そして……」
将軍は、ゆっくりと立ち上がった。
「あの奇襲の夜、おまえが背後の村を守ろうとした理由を、部下から聞いた。民が寝ているから、と言ったそうだな」
「はい」
「弟が、よく言っていた言葉がある。剣は人を殺すためではなく、人を守るためにある、と」
その言葉が、アンリオンの胸に響いた。
どこかで、聞いたことがある気がした。いや、そんなはずはない。
三歳の頃に聞いた言葉など、覚えているはずがない。
それでも、その言葉は奇妙なほど、自分の中にすっと入ってきた。
「……僕には、わかりません」
アンリオンは正直に言った。
「きっと違うと思います。証拠もないのに、血がつながっているとは言えません。でも、でも、そう思っていただけたことだけで、幸せです」
「そうか」
将軍は、窓から差し込む光のほうを見て、ゆっくりと頷き、珍しいことに、笑った。
「まずは傷を治せ。充分に休め。それから、先のことを話そう」
「はい」
「ところで、ギャリュビョとは何なのだ」
「えっ」
「ギャリュビョとは、何か。人の名前か」
「どうして」
「おまえが死線をさまよっていた時、繰り返し言っていた言葉だ」
「ああ。それは、ただのおまじないです、子供の頃の、」
「そうか」
アンリオンは無意識に、あの合言葉を繰り返していたことを知って驚いた。
ローズ、きみは助けに来てはくれなかったのだね、と心の中でそっと思った。
「早く傷を治して、私の部隊に来なさい」
将軍がそう言った時、アンリオンは目を丸くした。
「将軍の直属軍団は、上流階級の先鋭と決まっているはずです。僕には、その資格がありません」
「この私がいいというのだから、いいのだ。資格など、実力で示せばいい」
将軍は立ち上がり、踵を返した。扉に手をかけたところで、振り向いた。
「早く元気になりなさい」
そう言って、将軍は扉を閉めた。
部屋にひとり残されたアンリオンは、しばらく天井を見つめていた。
アンリ・オリオン。
その名を、心の中で繰り返してみた。窓からのやわらかい橙色の光が、どこか懐かしかった。
「ギャリュビョ」
アンリオンが言ってみた。
けれど、衛生兵の足音しか、聞こえない。




