第十四話 婚約解消
アンリオンが出ていってから一週間後、その日の午後、父親のソーントン伯爵が、突然ローズを訪ねて来た。
ローズは婚約式の日に着るドレスを試着しているところだった。
淡いクリーム色のドレスは、彼女の金色の髪によく映えた。召使たちが裾の長さを確かめ、袖の具合を直している最中だった。鏡の前に立つローズは、幸せだった。
来月には婚約の儀式。そして、結婚したら王子妃になる。
子供の頃に読んだおとぎ話のような人生が、子どもの頃に読んだおとぎ話のような世界が、現実のものとなっていく。
ローズは、胸が弾むのを抑えきれない。この上なく幸せな気持ちに包まれていた。
「まあ、お父さま。お久しぶりです。どうですか、このドレス」
ローズはスカートの裾をつまみ、くるりと一回転した
しかし、伯爵の顔を見るなり、ローズの笑みが引いた。
父の表情は、いつもと違っていた。
主都から戻った日の伯爵は、たいていは少し疲れた顔をしている。だが、この日は違った。何か、覚悟を決めたような、硬い顔をしていた。
「ローズ、ビクター王子との話はなかったことにしよう」
「ええっ、どうしてですか」
ローズは息をのむと、震える声で言った。
「お父さまだって、あんなに喜んでくださったのに。私のためにわざわざ主都から来てくださって、王子との縁談をまとめてくださったではないですか」
伯爵は黙って、一枚の書状を掲げた。
「ある人から、手紙を受け取った」
「手紙ですか……」
「しかし、私も以前から不審に思っていた。ビクター殿下がソーントン家へ婿入りしたいと望む理由がよくわからない。どう考えても、王子側に利がありすぎる。だからこそ、密かに調査を進めさせていたのだよ」
ローズは、父の手の中の書状を見つめた。
「こんな手紙を書いたのは、アンリオンですね」
ビクター王子を疑い、夜ごと屋敷を抜け出していたアンリオンが、こんな手紙を書いたのだろう。
「すぐに彼を呼びなさい」
ローズが召使に命じた。
「手紙の主は、アンリオンではない。とある老紳士だ」
伯爵は椅子に座り、静かに話し始めた。
「それにより調査をした結果、ビクター王子の正体が明らかになったのだよ」
手紙を受け取った数日後、伯爵は警察とともに、王子が密かに使っているという港の倉庫へ向かった。
夜の港は静かで、月明かりさえ雲に隠れていた。波の音だけが聞こえる暗闇の中に、その倉庫はあった。そこにいたのは、間違いなくビクター王子だった。
しかし、そこにいたのは、昼間とはまるで別人だった。
宴席で見せていた柔和な笑みは跡形もなく消え、薄明かりに浮かぶその瞳には、冷酷な光が宿っていた。
影の中には数人の男たちが身じろぎもせず控えていた。その様子から、一目で、堅気者ではないことがわかった。
「殿下、今月の分です」
一人の男が、重そうな麻袋を差し出した。投げ置かれた袋の口から、金貨が床に零れ落ちた。
「ご苦労。次の船はいつ入る」
ビクターの声には、感情というものが一切なかった。
「十日後です。例の『商品』を満載で」
「よろしい。役人は例によって買収済みだ。問題なく通過できる」
「さすがは殿下。王家の権力を使えば、何でもできますな」
男たちが下卑た笑い声を上げた。
「ただし」
ビクターが急に声を低くした。場の空気が、ひりつくように変わった。
「私の正体を知る者は、生かしておけない。よく、酒場で私をじろじろ見ていた男がいただろう」
「ああ、あいつですか。もう心配ありません。今頃は海の底です」
男が口元に薄い笑みを浮かべたまま言い放った。
「今だ」
その瞬間、伯爵と警察が踏み込んだ。
「ビクター殿下」
伯爵の声が、倉庫に響いた。
男たちがざわめき、ビクターが振り向いた。
一瞬だけ、その表情が強張った。だが、次の瞬間には、何事もなかったかのように薄く笑みを浮かべていた。その瞳には、再び傲慢な色が宿っていた。
「何ですか。突然」
「話は聞きました。そのために、罪のない者を犠牲にしたのですか」
「罪のない?」
ビクターが、低く笑った。
「この世に、本当に罪のない人間などいない。私は、ただ愚かな民衆より賢く立ち回っただけだ。弱肉強食、それが世の理ではないか」
「違うでしょう」
伯爵は一歩も引かぬ口調で言った。
「ビクター殿下、あなたは狡猾な臆病者だ。正々堂々と生きる勇気がないから、卑怯な手段に頼った。そして、愛娘まで利用しようとした」
ビクターの表情が、一瞬ゆがんだ。
「ローズを愛していたのは……本当のことです」
ビクターの声が、初めてかすかに揺らいだ。
しかし伯爵は、首を横へ振った。
「いいや。あなたに愛する心はない。あるのは、欲望と野心だけだ」
ビクターの頬を、涙が伝った。
それでも伯爵は、その涙が本物だとは思わなかった。この男が流す涙もまた、仮面の一部に過ぎない。この男は泣くことさえ、計算してやっているのだ。
「娘との婚約話は、ここで終わりです。捕らえろ」
伯爵の命令で、警官たちがビクターと男たちを取り押さえた。
「離せ! 貴様ら、自分が誰に手をかけているのかわかっているのか! 私は王子だぞ!」
「その王家の名誉を傷つけたのは、あなた自身です」
伯爵の声は静かだった。
「貴様らに、私を裁けるわけがないのだ」
ビクターは吐き捨てるように言った。
「殿下、あなたを裁くのは私たちではありません。国王陛下です」




