第十五話 残されたもの
父からその話を聞かされた時、ローズの顔から血の気が引いた。
倒れそうになる身体を、椅子の肘掛けに縋って支える。
あの優しい微笑みも、あの温かな手も、あの甘い言葉も、すべて偽りだったのか。
頭では理解できた。けれど、心がその事実を受け入れられなかった。
あの瞳も嘘だったのか。
あの笑顔も嘘だったのか。
以前、ビクターが賭博場へ行ったことがあると話したことがある。
だが、それはギャンブルに溺れた部下を救うためだったのだと聞かされ、ローズはなんてお優しい方なのだと心を打たれた。
あの話も……すべて、作り話⁉
自分でも驚くほど、声が震えた。
「ビクター王子が……人を殺させたのですか」
息を詰めるように、ローズは続けた。
「何のために……」
「第三王子であるビクター殿下には、王位を継ぐ可能性などほとんどなかった。しかし、金があれば権力を手に入れることはできる。兄君たちを押しのけ、いずれ王座に就くためなら、どんな手段も選ばなかったのだろう。それに、賭博で作った借金も相当な額だったようだ」
「もしかして……殺されたのは」
嫌な予感が、胸の奥を締めつけた。
あの喧嘩をした夜から、アンリオンとは会っていなかった。
「もしかして、殺されたのは……アンリオンですか」
「いや」
父は静かに首を振った。
「水中から引き上げられたのは、小太りの中年男性だった」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、ローズの身体から力が抜けた。
「では……アンリオンは、どこに」
その時、召使が戻ってきた。
「彼の部屋に、これが残されていました」
差し出されたのは、白い封筒だった。
それを受け取るローズの指先が震えた。
封を開くと、中には一枚の紙が入っていた。
そこに書かれていたのは、たった数行だった。
「ローズ、長いことありがとう。楽しかった。どうぞ幸せに。
アンリオン」
ローズは、しばらくその文字から目を離せなかった。
楽しかった、その言葉が、胸の奥に深く突き刺さった。
怒りでもない。
恨みでもない。
悲しみを訴える言葉ですらない。
ただ、楽しかった、と書いて、静かに出ていった。
それがアンリオンだった。
傷つけられても、相手を憎むことを選ばない。
酷い言葉を向けられても、責めることをしない。
*
あの夜、ローズは「顔も見たくない。出て行け」と言った。
でも、本当に出ていくとは思っていなかった。
だって彼には帰る場所がない。
ここより他に、いられる場所がないはずだから。それなのに。
「彼は、どこへ」
「わかりません……」
ローズは手紙を胸に抱きしめた。
それから、声を上げて泣いた。父が傍らで何か言っていたが、聞こえなかった。
「アンリオン……ごめんなさい……ごめんなさい……」
あんなにひどいことを言った。
疑って、怒鳴りつけて、追い払った。
彼はずっと、私を守ろうとしていたのに。
古巣が恋しくなったのかとか、重すぎるとか、ひどいことを言った。
私の幸せだけを願って、夜ごと命がけで調べていてくれたのに。
*
翌朝、ローズは早くに起きた。
夜通し泣いていたから、目が腫れていた。でも、泣き続ける気力も、もうなかった。ただ、胸の中に、重くて冷たいものがあった。
アンリオンの部屋に行ってみた。
扉を開けると、部屋はきれいに整っていた。
ベッドのシーツは畳まれ、窓は少し開いていた。朝の風が、薄いカーテンをふわりと揺らした。ローズは木製の椅子に触れた。背もたれが、冷たかった。
アンリオンはここに座って、あの短い手紙を書いたのだ。楽しかった、とだけ書いて、出ていってしまった。
窓の外に目をやると、庭が見えた。
バラが朝の光の中で咲いていた。アンリオンが手入れをしていたバラ。
昨日も今日も、変わらず咲いている。でも、もうあの人は、ここにいない。
ローズは部屋の隅に、小さなものが置いてあるのに気づいた。近づいて見ると、青い石だった。
いつか庭で拾って、きれいだからとアンリオンに渡したことがあった。あの石を、ずっと持っていてくれたのだ。でも、置いていった。
その隣に、葡萄色のビロードのショールが、丁寧にたたんで置いてあった。リリィ夫人がアンリオンにかけてあげた、あの葡萄色のビロードのショール。
どちらも、アンリオンがとても大切にしていたものだった。それなのに、彼はそれを置いていった。それは、彼が、自分の強い意志で出ていったのだということを伝えていた。
「ギャリュビョ」
ローズは小さく呟いた。
でも、アンリオンは助けに来てくれなかった。
「お嬢さま、よろしいですか」
召使がそっと入ってきた。
「こんなものが、ゴミ箱にはいっていました。関係があるかないかわかりませんが、取っておきました」
それは手紙の束で、引き裂かれてはいるが、アンリオンの筆跡で、ビクター王子の行動が書かれていた。
そして、「直訴」という字が見えた。
夜ごと屋敷を抜け出していたアンリオン。
ビクターのことを調べていたアンリオン。
その調査の報告を書いて、彼は直訴しようとしてたの?
ローズは手紙の束を抱きしめて、泣いた。




