第十三話 屋敷を去る夜
その夜、ローズは興奮して眠れなかった。
私をこんなに愛してくださる方が現われた。
その方は夢で見た王子さまより、すてきなお方。
来月は婚約の儀式。
そして、いずれは王子妃になる。
子供の頃に読んだおとぎ話のような人生が、目の前に広がっている。
私の夢が全部叶う。
夢を叶えることのできる女の子なんて、世界に何人もいない。いいえ、ひとりもいないかもしれない。私はなんて幸せな女の子なのでしょう。
窓の外を見ると、月の光に照らされて、裏口から出ていく怪しい人影が見えた。
「こんな時刻に誰かしら」
ローズはガウンを羽織って、そっと部屋を出た。
人影は屋敷の裏口へと向かっている。
暗がりに目を凝らすと、黒いマントを羽織った人影が見えた。
「あ、あれはアンリオンじゃないの」
最近、アンリオンは夜になると出かけると召使が話していた。彼は周囲を警戒しながら、屋敷を出て行こうとしていた。
彼ったら、何をしているのかしら。
次の夜も、その次の夜も、アンリオンは部屋にいなかった。
四日目の夜、ローズは裏口近くの木の陰で待っていた。
「どこへ行くつもりなの?」
ローズが声をかけると、アンリオンは驚いて振り返った。
「ローズ……なぜ、こんな時刻に、起きているのですか」
「それはこっちの台詞よ」
「月がきれいだから、散歩です」
「嘘はだめよ。このところ、毎晩のように出かけているのを知っています。ギャンブルでも行くのですか」
「そんなはずがないでしょう」
「私は人を見る目には自信があるのよ。あなたは母に拾われるまでは、そういうところにいたのですから、古巣が恋しくなったのかしら」
「ローズ、ひどいことを言いますね」
「傷ついたのなら、謝ります。でも、あなただってビクター王子のひどい噂を流して、彼を傷つけたではないですか」
「噂など流してなど、いません」
「それなら、なぜ、彼のことを聞き回っているのですか。ビクター王子が、あなたの素行を嘆いておられましたよ」
「……少し、調べたいことがあるからです」
「調べたいことって何ですか?」
「……」
「ビクター王子のことなど、調べる必要などないのに」
「そんなこと、わかりませんよ」
「アンリオン、最近のあなたときたら、すっかり変わってしまって。あなたのこと、もう、信じられないわ。悪い遊びを始めたのではないでしょうね」
「本気で言っていますか」
「ええ。本当です。私はあなたを信じられないし、その不機嫌な顔を見たくないの。本当に、こんなことを続けるのなら、私のところから、出ていってもらえませんか」
「そう言われても、僕は出ていくわけにはいきません」
「お母さまから、私のことを頼まれたからですよね。でも、私はもう大人。お母さまがここにいらしたら、もうローズを自由にしてあげなさいと言うでしょう。あたなに、守ってほしくなどありません。自分のことは、自分で守りますから」
「本当に、そう思いますか」
「本当にそう思います。私はただ幸せになりたいだけなのに。幸せは目の前にあるというのに、どうして邪魔ばかりするのですか」
「僕がいなくなれば、あなたが幸せになれるというのなら、僕はここを出ていきます」
「そうやって、私を脅すつもりね。あなたがいなければ、私が何もできないと思っているのですか?私もあなたももう大人です。いくら母に頼まれたからと言っても、もういいわ。私のことなどかまわずに、お好きな道を歩けばいいのだわ。それぞれが、望む道を進めばいいのよ」
「それが、ローズの願うところですか」
「そうです。正直に言えば、アンリオン、あなたが私のことを思ってくれているのを知っています。でも、あなたの愛は重すぎて、もう顔も見たくないの。出ていってくれたら、すっきりします。私を自由にして」
「そうですか」
アンリオンは苦しい表情をしたが、やがて頷いた。
「わかりました。そういうことでしたら、僕はここを出ていきます」
「どうぞ」
ローズはそう言うと、向きを変えて、部屋に向かった。
アンリオンは、その背中を見送った。ローズの足音が、遠くなった。屋敷の扉が、静かに閉まった。庭に、アンリオンひとりが残された。
夜風が吹いて、バラが揺れた。
リリィ夫人が愛したバラが、暗がりの中で揺れていた。
リリィ奥さま、さいごまで、ローズを守ることができなくて、すみません。
でも、それが、ローズが望む道ですから、僕はここを出ます。ほかに、道がありますか。
アンリオンはそう思いながら、庭を見渡した。
バラの花が、月明かりに照らされていた。この庭を手入れし始めた日のことを、思い出した。リリィ夫人が、一本一本の花を、どれほど大切にしていたか。その夫人から引き継いで、アンリオンもずっと大切にしてきた。これからは、誰かが手入れをしてくれるだろうか。
アンリオンは部屋に戻り、荷物をまとめた。
着替えと、わずかな金だけ。それ以外に、持っていくものはなかった。
机の上に、便箋を一枚取り出した。何を書けばいいのか、しばらく考えた。
言いたいことは、たくさんあった。でも、どの言葉も、今のローズには届かない気がしたから、短く書いた。
「ローズ、長いことありがとう。楽しかった。どうぞ幸せに。アンリオン」
それだけ書いて、封筒に入れて、机の上に置いた。
屋敷を出る前に、もう一度だけ廊下を歩いた。
ローズの部屋の前を通った。扉の向こうは、静かだった。
さようなら、ローズ。
心の中でそう言って、アンリオンは屋敷を後にした。




