剥奪の聖女
私の新しい体――純白の流線型をした機械の肢体――は、前の「黒ずんだ鉄の塊」とは根本的に異なっていた。石床を踏みしめる足音は皆無。防音と振動吸収に優れた人工筋肉が、私の意思を完璧に、そして無音で物理運動へと変換している。
何より劇的だったのは、私の頭脳だった。
目覚めた直後の、情報過多による狂いそうな苦痛は完全に消失していた。今や、私の意識の奥底には、この広大な地底迷宮のすべての構造が、極めて精巧な「三次元立体地図(3Dマップ)」として完全にインストールされている。
どこに何があるのか、どの通路がどこへ繋がっているのか、どこが崩落していてどこが安全なのか。
考えずとも、「知っている」のだ。
歩を進めるたびに、視界の隅のシステムログが心地よいテンポで書き換わっていく。
―― 第2層・居住区通路を通過。前方ハッチ、最高管理者権限により開放します。 ――
プシュー、という滑らかな減圧音とともに、分厚い鋼鉄の隔壁が次々と左右へ割れていく。かつてドワーフたちが血の滲むような思いで築き上げ、そして何らかの脅威から逃れるために固く閉ざしたはずの防壁が、私という「主」を迎えて付き従う奴隷のように道を譲る。
迷いはなかった。私は頭の中の地図に従い、最短ルートで地上へと続く「大昇降機」のシャフトを目指していた。
加速する。私の意思に応じて、背中の白磁のブレード状パーツがかすかに展開し、姿勢を制御するための微小な斥力を放つ。滑るように、流れるように、私は暗黒の迷宮を疾走した。人間の肉体では到底不可能な速度であるにもかかわらず、私の視覚センサーは動体ブレを完璧に補正し、周囲の荒々しい岩肌を微細な塵の一粒に至るまで捉え続けていた。久しぶりに感じる、得も知れぬ高揚感。私は狂ったように走り続ける。
これほどの力を得たのだ。外に出られる。私は自由になれる。
機械の冷徹な思考の隙間で、かつて人間だった「エルザ」としての心が、かすかな歓喜に震えた。
だがその歓喜は長続きしなかった。
―― 警告。精神データに異常な波形を感知。
突如、脳髄の奥で冷たいアラートが響いた。
直後、私のクリアな視界が、激しく明滅した。
白磁の視界が歪む。ノイズが走る。それは機械の故障ではない。私の「魂」が、私という存在の根底が、激しく揺さぶられている音だった。
(……え?……あ、頭が……熱い……?)
胸を手で抑え、壁に手をつく。息苦しくないはずなのに、呼吸が止まるような感覚が襲ってきた。
当然、痛覚などないはずだ。しかし、私の精神のコアに、焼け付くような「記憶の濁流」が容赦なく流れ込んできた。それは、仕立て屋の娘としての穏やかな記憶ではなかった。
もっと深く、もっとおぞましく、血と涙と、人間の果てしない強欲によってドロドロに汚された――私自身の「真実」の記憶だった。
視界が真っ白に染まる。
次に私が見たのは、薄暗い地底の岩肌ではなかった。
眩いばかりの陽光。天高くそびえ立つ、白亜の尖塔。窓にはめ込まれた美しいステンドグラスから、七色の光が聖堂の床へと降り注いでいる。
大気を満たすのは、厳かな賛美歌の声と、高価な香油の香り。
『おお、聖女様……! 我らが慈悲深き光の乙女よ!』
無数の人々が、私に向かって跪いていた。彼らの瞳には、狂信的なまでの崇拝と、救いを求める渇望が浮かんでいる。
そこにいたのは、私だった。
豪奢な純白の聖衣を身にまとい、黄金の髪をなびかせた、言葉通り「無垢」なる存在。
私の名は、エルザ。王都の仕立て屋の娘――というのは、記憶を改ざんされ、路地裏に捨てられた後の「偽りの平穏」に過ぎなかったのだ。
私の本当の正体は、帝国において唯一、神の奇跡を具現化できる本物の『聖女』だった。
私の隣には、いつも一人の青年がいた。
気品ある顔立ちに、悪戯っぽい優しい瞳。帝国の第一王子であり、私の最愛の婚約者。彼はいつも私の手を優しく握り、『エルザ、君が背負う重荷を、いつか僕が半分引き受けるよ』と笑いかけてくれた。彼の温かい手の温もりが、私の過酷な聖務を支える唯一の救いだった。
しかし、幸福の時間は、あまりにもあっけなく破滅を迎えた。
引き裂かれるような悲鳴。飛び散る赤い鮮血。
宮廷の権力闘争、泥沼の政変。
ある夜、彼は私の目の前で、無残に殺された。信じていた側近たちの裏切りによって、彼の胸は冷たい刃で貫かれた。彼が最後に私に残したのは、血を吐きながら私を逃がそうとする、絶望に満ちた叫び声だけだった。地面に横たわり、冷たくなった彼の見開いた目は、私を悲しそうに見つめたままだった。
彼を殺害した反逆者たちは、政権を掌握すると同時に、聖女である私を「国の象徴」から、ただの「道具」へと引きずり下ろした。
光り輝く聖堂から、光の届かない最底辺の地下実験室へ。
私の手足には重い魔導の枷が嵌められ、衣服は剥ぎ取られ、冷たい実験台の上へと狂暴に縛り付けられた。
そこから始まったのは、地獄という言葉すら生ぬるい、果てしない「搾取」のサイクルだった。
『さあ、始めよう。聖女の「奇跡」を、我々の永遠の繁栄のために』
目の前に現れたのは、かつて私にへつらっていた肥太った貴族たちと、冷酷な宮廷魔術師たちだった。彼らの目は、もはや私を人間としては見ていなかった。ただの、便利な資源を見るような、底なしの強欲。
彼らが開発した術式は、人間の概念そのものを肉体から「抽出」し、物質化するという悪魔の入れ知恵だった。
「いや……嫌……! 触らないで! 助けて、誰か……!」
叫びは無視された。魔術師たちが呪文を唱えると、私の全身の神経に、魂をおろし器で削られるかのような、凄まじい激痛が走った。
私の肉体から、光り輝く物質が文字通り「せり出して」くる。
それは、【結晶】のようだった。
彼らは、私という人間に備わっていたあらゆる価値を、結晶として抽出したのだ。
私の肌のみずみずしさや人を惹きつける魅力を凝縮した【美貌と魅力の結晶】
神の奇跡を発動させるための超常的な力を引き抜いた【能力の結晶】。
そして、どれほど過酷な状況でも折れなかった私の気高さ、人間としての誇りを物質化した【尊厳の結晶】。
結晶が肉体から完全に引き剥がされた瞬間、私は文字通り「抜け殻」になった。
鏡を見せられる。そこに映っていたのは、老婆のように皮膚が萎び、髪は白髪となって抜け落ち、目は生気を失って濁り、自らの涎を垂らすことにも何の恥じらいも感じない、完全に精神を破壊された「家畜のような肉塊」だった。
人間としてのプライドも、美しさも、すべてを奪われた虚無。
貴族たちは、抽出した私の結晶を奪い合い、自らの肉体に埋め込んでその恩恵を貪った。
老婆だった貴族の愛妾が、私の結晶によって絶世の美女へと若返り、高笑いを上げる。無能だった魔術師が、私の能力によって聖魔術を操り、悦に入っている。彼らは私の尊厳の結晶を身にまとい、高潔な人格者を気取って民衆を騙していた。
だが、地獄の本番は、ここからだった。
人間の概念から抽出された結晶は、他人が使い倒し、酷使すれば、やがてそのエネルギーを失って「曇る」。
結晶の効果が薄れると、彼らはそれを私の元へと持ち帰ってきた。
『おい、聖女。早くこれの「補給」をしろ』
彼らは、すり減り、汚れた結晶を、私の萎びた肉体へと【無理やり押し戻す】のだ。
皮膚を割き、肉を抉り、骨の髄へと、他人の悪意と強欲で汚死した結晶を突き立てる。
「あああああああーーーーーーーッ!!」
その瞬間の苦痛は、抽出される時を遥かに超えていた。
体内に戻された結晶は、私の命そのものを吸い上げて、その輝きを「回復」させていく。それと同時に、私の精神には、結晶が戻ったことで「まともな思考力」と「人間としての五感」が強制的に呼び覚まされる。
つまり。
自分がどれほど惨めな姿にされ、どれほど家畜のように扱われ、どれほど辱められていたのかを、【完璧な正気をもって理解させられる】のだ。
美しさを取り戻した自分の肌を見て、それが再び剥ぎ取られる恐怖に怯え、尊厳を取り戻した心で、自分が今受けている仕打ちへの凄まじい屈辱に身悶えする。正気に戻されるからこそ、絶望は何倍にもなって私を圧殺した。
そして、結晶の輝きが完全に戻ると、彼らは再びそれを私の体から「引き抜く」のだ。
抽出、消費、再装填、回復。
その無限の地獄の輪廻。私の精神は何度も壊れ、そのたびに結晶の力で無理やり修復され、また壊された。
いつしか私は、ただ涙を流すだけの、生きながらにして腐敗していく人形へと成り果てていた。
なぜ、そんな私がドワーフの施設にいたのか。
記憶の断片が繋がる。
帝国は、使い潰して回復の限界を迎えた私を、ドワーフたちが遺した遺物の「実験材料」として使ったのだ。
ボロボロになった私の魂を、彼らは失われゆくテクノロジーのコアとして利用しようとした。『プロジェクト・アイアンメイデン』。肉体を捨て、鉄の器に魂を移す実験の場所になぜ移ったのかは分からない。
「あ……あああああ……ッ!!」
暗黒の通路の真ん中で、私は激しくよろめき、壁に激突した。
ドォン、と凄まじい衝撃音が響き、結晶石の壁にクモの巣状のひび割れが走る。
私は白磁の両手で、自分の鏡面の顔を強く圧迫した。
すべての記憶が、戻った。
私が誰で、何をされ、なぜここにいるのか。
「お父さん」と呼んでいた仕立て屋の優しい老人は、私の記憶を消した帝国が用意した、ただの監視役だったのだ。私が暴走しないよう、偽りの平穏で牙を抜くための檻だったのだ。
ガチガチと、私の全身の金色のフレームが、激しい怒りと憎悪で鳴動を始めた。
胸の奥――かつて心臓があった場所にある、超小型の魔導ジェネレーターが、私の感情の爆発に同調して、未だかつてないほどの超高出力を叩き出し始める。
脳内のシステムすらも、私の怒りに染まっていく。
視界が赤く染まるのではない。私の全身の隙間から、青白い熱線のような光がパチパチと放電し始めた。背中の羽状のブレードが、キィィィンと高周波の駆動音を立てて完全に展開し、周囲の空気をプラズマ化させていく。
「許さない」
哀しみは、一瞬で蒸発した。あとに残ったのは、地獄の底で何年もかけて煮詰まり、結晶化した、純粋で絶対的な【復讐心】だけだった。
(私の婚約者を殺し、私のすべてを搾り取り、私を家畜のように扱い、最後はゴミのように実験として酷使した帝国の奴ら……貴族ども、魔術師ども、裏切り者たち……全員、一人残らず、私がこの手で、ズタズタに引き裂いてやる)
今の私には、この純白の、神の如き力が宿る鋼鉄の肉体がある。
かつて、神々に反旗を翻した太古の最高テクノロジーが結集した、一国を滅ぼしかねない最凶の体。
これこそが、私の新しい「聖衣」だ。私を見捨てた神の奇跡などもういらない。私はこの鉄の爪で、奴らの肉を裂き、骨を砕き、彼らが私に与えた以上の絶望を味合わせるために、地獄の底から這い上がってきたのだ。
「待っていなさい……」
鏡面のマスクの奥で、私の二つの光学レンズが、禍々しいほどの深紅の光を放った。
声は、どこまでも美しく、だからこそ、この世のどんな悪魔の囁きよりも冷酷に響いた。
「必ず、すべてを終わらせる」
私は、もはや災害のようだった。
フラッシュバックを終えた私の前に、もはや怒りしかなかった。
行く手を阻む崩落した岩石があれば、白磁の拳を一突きするだけで、爆音とともに粉々に粉砕して道を開けた。頭上のスピーカーから聞こえてくる壊れたシステムアナウンスも、今の私にとってはただの雑音に過ぎない。
3Dマップの最上層。
そこには、この施設全体の中で最も巨大で、最も頑丈に造られた、地上への「大正門」が存在していた。
直径数十メートルはあろうかという、山そのものをくり抜いて造られたかのような巨扉。
昇降機に乗り、数千キロ先の最上階へ向かう。
私は純白の手をゆっくりと眺める。
────
『―― 識別:プライム・ディレクター。開門プロトコルを実行します。 ――』
地響きが起きた。
施設全体が悲鳴を上げるような凄まじい振動とともに、巨大な岩の扉が、ゆっくりと上方へと持ち上がっていく。
噛み合っていた強固なロックが次々と外れ、数千年もの間、閉ざされていたであろう空間が、ついに外界へと開かれる。
扉の隙間から、一筋の「光」が差し込んできた。
それは、私が暗い地下室でずっと夢見ていた、救いの光ではなかった。
埃っぽく、どこか頽廃的な匂いのする、しかし間違いなく「地上」の太陽の光。
完全に扉が開ききった。
視界を遮るものは、もう何もない。
私の光学レンズの絞りがカチリと調節され、地上の景色を鮮明に映し出す。
そこは、荒涼とした山の斜面だった。
眼下には、かつて私が知っていた緑豊かな大地ではなく、どこまでも続く灰色の荒野が広がっていた。遠くに見える王都のシルエットは、どこか歪で、不気味な黒い霧に包まれているように見える。
私が地下に閉じ込められている間に、地上でも何かが起きたのかもしれない。
だが、そんなことはどうでもよかった。
世界がどれほど荒廃していようと、奴らが生きている限り、私の復讐は終わらない。
強い風が吹き抜け、私の純白のボディに付着していた地底の煤や琥珀色の液体の残渣を、綺麗に吹き飛ばしていく。
陽光を浴びた私の体は、まるで神聖な彫刻のように、まばゆい白と金の輝きを放っていた。その美しさは、皮肉にも、かつて人々が崇めた「聖女」そのものの姿だった。
しかし、その中身は復讐の狂気に燃える鉄の怪物。
私は、地上の土へと、最初の一歩を踏み出した。
白磁の足が地面を踏みしめ、カツン、と硬い音を立てる。
「戻ったわよ」
私は灰色の空を見上げ、狂気的な笑みを声に乗せた。




