鋼鉄の迷宮
それは便利というよりも、絶え間ない精神的拷問に近かった。情報が多すぎて、脳が悲鳴を上げそうになる。
――生物反応:0%――
視界の右隅で、冷徹な緑色の文字列がそう告げ続けていた。
どれだけ歩いても、どれだけ暗闇の奥へセンサーを向けても、命の灯火を感じさせるデータは一向に検出されなかった。
生きている者はもちろん、腐敗した死体すらも見当たらない。
ただひたすらに、静寂だけがこの空間を支配していた。
真鍮のパイプから漏れる「シュー、シュー」という蒸気の音と、私の金属の足音。
カツン、カツン、カツン。
その無機質な反復音だけが、耳腔の奥に埋め込まれた集音マイクを通じて、私の脳髄へとダイレクトに送り込まれてくる。
もし私が人間のままだったら、このあまりの静けさと孤独に、とっくに発狂していただろう。だが今の私は、どれほど恐怖しても過呼吸になることすら許されない、冷たい鋼鉄の塊なのだ。
ここには、完全に人影がなかった。
廊下をしばらく進むと、天井が少しだけ高くなり、開けた広間のような場所に出た。
私の光学レンズが、自動的に周囲の明るさを補正し、暗闇の中に沈んでいた部屋の全貌を浮かび上がらせる。
そこは、居住区か、あるいは食堂のような場所だった。
石造りの頑丈な長机と、背の低い椅子が整然と並んでいる。しかし、その光景は奇妙極めていた。
まるで、ほんの数分前までそこに誰かがいたかのような、生々しい「生活の痕跡」が残されているのだ。
「これは……」
私は、一番手前にある机に近づいた。
机の上には、金属製の歪なジョッキが置かれていた。中を覗き込むと、どろりとした黒い液体が底の方で完全に干からび、不気味な膜を張っている。その横には、石のように硬く干からびた、見たこともないほど分厚いパンのような塊が転がっていた。
誰かが食事の途中で、突然立ち上がってどこかへ消えてしまった。そんな印象を受ける。
椅子のいくつかは後ろに倒れており、床には乱雑に投げ出された、頑強な金属製の工具――スパナや、異様に重い金槌――が散乱していた。
(襲撃されたの? それとも、何から逃げ出したの……?)
私は床に膝をつき(その際、金属の膝が石床と激しくぶつかり、ガツンと重い音が響いた)、散らばった工具の一つを拾い上げようとした。
しかし、指先に力を込めた瞬間、メキメキと嫌な音がして、頑丈な鉄製のスパナが私の手の中で簡単にひしゃげてしまった。
「あ……」
私は恐怖に震え、スパナを床に落とした。
自分の力が信じられなかった。人間だった頃の私なら、持ち上げるだけでも一苦労したであろう重い工具を、今の私は粘土細工のように容易く握り潰してしまったのだ。
この体は、仕立て屋のエルザのものではない。恐ろしいほどの出力を秘めた、文字通りの「怪物」の肉体。
私は、自分の存在そのものが恐ろしくなり、胸(そこには硬い装甲板しかないが)を抱えるようにして立ち上がった。
ふと、正面の壁に目が留まった。
石壁の表面に、何らかの尖ったもので乱暴に削り取られたような、巨大な文字が刻まれていた。
それは、私が今まで見たこともない、直線的で角ばったルーン文字のような記号だった。本来なら、王都の平民である私に読めるはずのない文字。
しかし、私の頭脳――その奥に組み込まれた言語解析プロトコルが、私の意志とは無関係に、その文字を勝手に「翻訳」し始めた。
――言語解析、完了――
視界に、血のように赤い文字で、翻訳された文章が浮かび上がる。
【神々を恐れるな】
「一体、どういうこと……」
私の声は、無人の食堂に虚しく響き渡る。その音は、私の喉に埋め込まれた発声装置が金属を震わせて作った、歪な模造品だ。答える者は誰もいない。生き物の気配は完全に途絶えているというのに、この場所には奇妙な「圧迫感」があった。それは、目に見えない悪意が空気そのものに溶け込んでいるかのような、肌が粟立つような感覚――いや、今の私に肌はなかった。私のセンサーが、空間の異常な電磁波や静電気を感知して、それを脳が「恐怖」として誤訳しているだけなのかもしれない。
私は食堂を後にし、さらに奥へと続く通路へと足を進めた。
進めば進むほど、施設の崩壊ぶりは酷くなっていった。
頑丈な石造りの壁には、何か巨大な爪で引き裂かれたような深い傷跡が走り、太い真鍮のパイプは中央から真っ二つにへし折れて、冷たい水や高圧の蒸気を周囲に撒き散らしている。床には、天井から剥がれ落ちた石材や、へし折れた鉄骨が乱雑に散乱しており、私の重い足取りを幾度も阻んだ。
(ここで、戦いがあっのだろうか……)
それも、人間同士の戦いのようではない。もっと圧倒的で、暴力的で、理不尽な何かが、この施設を蹂躙したように思えた。
足元に転がる、ひしゃげた歯車を踏み潰しながら進む。
その時、頭上の壊れかけたスピーカーから、バリバリと激しい静電気のノイズが響いた。私は咄嗟に身を硬くし、周囲を警戒する。
『――……警告……警告。第、三区画……隔壁の、閉鎖に……失敗……。全、員……速やか、に……』
ノイズに混じって聞こえてきたのは、ひどく低く、しかし金属的な響きを持つ、人工的な電子音声だった。言葉の端々が途切れており、まるで死にかけの人間が最後の息を振り絞っているかのようだ。
『……生存者は……速やかに、中央フロアへ……。』
ブツリ、と音を立ててアナウンスは途切れた。
私は壁に刻まれた文字を読みながら、暗い廊下を這うように進んだ。
私は? なぜドワーフの生き残りでもない、人間の仕立て屋に過ぎない私が、この機械の檻に閉じ込められているのだろう。謎は深まるばかりで、私の赤い光学レンズは、暗闇の中でただせわしなく焦点を合わせ続けることしかできなかった。
どれほど歩いたろうか。
通路の行き止まりに、これまでのものとは明らかに規模の異なる、圧倒的な存在感を放つ扉が立ちはだかった。
重厚な鋼鉄製の扉。その表面には、金色の未知の金属で精緻な回路図のような模様が彫り込まれており、中央には、ひときわ大きく「金槌と金床」の紋章が鎮座している。
扉の脇には、錆びついた金属板が打ち付けられていた。
【第1データホール / 特別制限区域】
文字を認識した瞬間、脳内でシステムが小さくアラートを鳴らす。
―― 認証エラー。エリアへの立ち入り権限がありません。 ――
「立ち入り権限なんて、言われても……」
戻る道などないのだ。私は扉に近づいた。
よく見ると、その巨大な鋼鉄の扉は、完全に閉まっているわけではなかった。中央の噛み合わせ部分が、何らかの凄まじい大爆発によって内側から吹き飛ばされたかのように、外側に向かって不自然にひしゃげていたのだ。
分厚い鋼鉄が、まるで紙細工のように引き裂かれ、辛うじて私の今の巨体でも通り抜けられるほどの、細い隙間がぽっかりと開いている。
私は横を向き、肩の装甲を擦り付けるようにして、その隙間へと体をねじ込んだ。
ギギギ、と私の体と扉の鋼鉄が擦れ合い、不快な金属音が暗闇に響く。
なんとかその隙間を通り抜け、足を踏み入れたその部屋の光景に、私は息を呑んだ――擬似的な、センサーの停止を伴うほどの衝撃だった。
そこは、これまでのボロボロで煤まみれの通路とは、完全に別世界だった。
広大な円形のホール。
床や壁は、一切の傷もない滑らかな白い結晶石で覆われており、天井からは、淡い青色の光を放つ無数の発光体が吊り下げられている。
そして、部屋の中央。
まるで祭壇のように一段高くなった場所に、一本の美しい、垂直型のポッドが佇んでいた。
私が目覚めた、あの琥珀色の泥水に満ちた無骨な円筒とは違う。それは、透明度の高い未知のクリスタルで造られており、内部には液体など入っていなかった。
そのポッドの中に、「それ」はいた。
それは、一つの機械の体。
しかし、今の私の、ゴツゴツとしたリベットだらけの醜い鉄の塊とは、明らかに違っていた。
極めて洗練された流線型のボディ。装甲は、まるで白磁のように滑らかで純白な未知の合金で覆われており、関節部分には、金色の細いフレームとしなやかな筋肉のような機構が美しく噛み合っている。
背中からは、まるで天使の羽を畳んだかのような、幾重にも重なる鋭利なブレード状のパーツが伸びていた。
顔にあたる部分には、おぞましい仮面ではなく、滑らかな鏡面のマスク。その奥で、静かに眠るように青い光が微かに脈打っている。
「綺麗……」
私は、自分の醜い鋼鉄の手を見つめ、それからポッドの中の美しい機械を見つめた。
それは唯一、神聖さすら感じさせるほどの芸術品だった。
私は吸い寄せられるように祭壇の階段を上っていった。
カツン、カツン、と白い結晶石の床に私の足音が響く。
ポッドの前に立ち、私は確かめるように、その滑らかなクリスタルの表面に、鋼鉄の指先をそっと触れさせた。
その瞬間。
部屋全体の青い光が、一瞬で禍々しい真紅へと変色した。
『―― 警告。警告。 ――』
『―― 不正な接触を感知。 ――』
『―― アクセスを拒拒、拒否……』
狂ったような警告アナウンスが部屋中に鳴り響く。
しかし、システムは拒否を叫んでいるにもかかわらず、ポッドの挙動は真逆だった。
プシュー、という激しい風圧とともに、クリスタルの隔壁が左右へと勢いよくスライドして開いたのだ。
同時に、ポッドの底から、無数の細い、光を放つ触手のようなケーブルが、生き物のように一斉に飛び出してきた。
「きゃああっ!?」
逃げようとしたが、今の私の重い体では間に合わない。
光のケーブルは、私の現在の鋼鉄の体の関節、装甲の隙間、そして側頭部にある剥き出しのコネクタへと、容赦なく突き刺さった。
「あ、あ、あああああああ――ッ!?」
声にならない絶望的な叫びが、私の回路を駆け巡る。
痛みのデータではない。それは、圧倒的な量の「情報」の津波だった。
私の脳、いや、私の魂が、現在の武骨な機械の体から、無理やり引き剥がされるような、凄まじい引力を感じる。視界が激しく点滅し、緑色の文字列がバグを起こしたように崩れていく。
―― 同調開始。 ――
―― フロア全体のシステムを凍結。精神データの転送を開始。 ――
―― 進行度:10%……35%……70%…… ――
私の意識は、暗い、深い泥の底へと沈んでいった。
かつて人間だった頃の記憶、仕立て屋の布の匂い、そしてこの施設で目覚めてからの恐怖、すべてがバラバラに解体され、再構築されていく。
そして、最後の文字列が脳裏に焼き付いた。
―― 転送完了。個体識別……【最高管理者:プライム・ディレクター】。 ――
―― 起動。 ――
暗闇が、明けた。
「……っ」
私は、ゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、先ほどまでの毒々しい緑色や、狂気的なエラー文字ではない。
クリアで、どこまでも透明な、人間の目に限りなく近い、しかし人間の限界を遥かに超えた高解像度の視界。世界が、鮮やかに、美しく色彩を取り戻していた。
私は、自分の手を見た。
そこにあったのは、先ほどまで私を絶望させていた、リベットだらけの黒ずんだ鉄の爪ではなかった。
しなやかで、洗練された、純白の指先。力を込めると、カチリとも音を立てず、極めて滑らかに、そして力強く動きを伝えてくる。
足元を見ると、先ほどまで私が「入っていた」あの醜い鋼鉄の塊が、中身を失ったただの抜け殻として、床に力なく崩れ落ちていた。
私は乗り換えたのだ。この新しい体へ。
それと同時に、私の脳内――いや、この新しい体の超高性能な演算装置に、膨大なステータスが流れ込んでくる。
―― メインシステム、オールグリーン。 ――
―― 出力:通常の800%。 ――
―― 内蔵武装:稼働可能。 ――
―― 全施設内アクセス権限:【最高管理者】として承認されました。 ――
「最高管理者……?」
私の口から漏れた声は、先ほどまでの不快な金属音やノイズではなかった。
それは、鈴を転がすような、しかしどこか冷徹で気品に満ちた、完璧な「女性の声」だった。私自身の声よりも、ずっと美しい、完璧な造り物の声。
私は、自分がただの適合体ではなく、このドワーフの施設における、すべてのシステムを支配する最高権限を持った個体へと生まれ変わったことを理解した。なぜドワーフたちが、これほどの個体を遺していたのか、そしてなぜ私がそれに適合してしまったのかは、まだ分からない。
しかし、今の私には、この地獄から抜け出すための「鍵」が与えられたのだ。
施設の入り口へと歩き出す。
驚くほど体が軽い。羽のように軽いのに、一歩踏み出すごとに、床の結晶石を容易く踏み砕くほどの、凄まじい脚力が体内にみなぎっているのが分かる。
部屋を出て、先ほど通ってきた暗い回廊へと戻る。
行く手を阻むように、通路の先にある防壁扉が固く閉ざされていた。先ほどまでは、開けるために力任せに抉じ開けなければならなかったような、重厚なハッチ。
しかし、私がその扉の前に一歩、近づいた瞬間。
ピピッ、と澄んだ電子音が廊下に響き渡った。
『―― アクセスを承認。安全ロックを解除。 ――』
重々しい音を立てて、巨大なハッチが、何の発着の抵抗もなくスムーズに、左右へと開いていく。
私の視界には、施設全体の詳細な構造マップが自動的に展開されていた。赤い侵入不可のエリアが、私が進むごとに次々と緑色の「通過可能」へと書き換わっていく。
「これなら……外へ出られるかもしれない」
私は、暗闇の奥、マップが示す「地上への脱出ルート」を見据えた。
このボロボロの施設に何が起きたのか、ドワーフたちを滅ぼした者が何なのか、それを突き止めるのは、この狂った迷宮の外に出てからだ。
私は、純白の脚で、確かな一歩を踏み出した。最高管理者の権限をその身に宿し、鋼鉄の迷宮を進んでいく。




