暗黒の産声
それは、呼吸の拒絶から始まった。
溺れているのだと、直感的に思った。
肺腑を満たすのは、ひどく粘り気のある、そして鉄の臭いが鼻腔を突く液体だ。いや、「鼻腔を突く」という表現すら、その時の私には正確ではなかった。私は息を吸おうとした。しかし、胸が動かない。肋骨が上下し、横隔膜が下がり、新鮮な酸素を血液へと送り込む――あの、人間として生きていれば当然の、無意識の反復運動が、どうしても機能しなかった。
(息が、できない)
パニックが脳の奥底から噴出し、全身の神経を焼き尽くすような衝撃が走る。私は目を開けようとした。
瞼が重い。まるで凝固した鉛の塊が両目に張り付いているかのように、びくともしない。暗闇のなかで、私は狂ったように手足を動かそうとした。だが、自分の手足がどこにあるのかさえ分からなかった。感覚が、恐ろしいほどに「遠い」のだ。まるで、何枚もの厚い防護服越しに、見知らぬ他人の肉体を操ろうとしているかのような、凄まじい乖離感。
その時、頭蓋の奥で、聞いたこともない異音が鳴り響いた。
システム、起動。視覚、同調を開始。
鼓膜を震わせたのではない。脳髄に直接、冷徹な女の声が突き刺さったのだ。私以外の誰もいない、私の精神のテリトリーに、土足で踏み込んできたような不快な電子音。
直後、目の前の暗闇が唐突に弾けた。
「……あ……、っ……!」
悲鳴を上げたつもりだった。しかし、私の口から漏れ出たのは、甲高い金属の摩擦音と、電子的なノイズだけだった。
視界に飛び込んできたのは、狂気の色だった。
人間の目が見るような、滑らかで曖昧な色彩ではない。世界は一面、毒々しい蛍光の緑色に染まっていた。視界の隅には、見たこともない文字列や、激しく上下するグラフ、そして「ERROR」「WARNING」という赤い文字が絶え間なく明滅している。
私は、円筒形のガラス容器の中にいた。
周囲を満たしているのは、琥珀色の不透明な液体だ。その液体越しに、ぼやけた部屋の景色が見える。石造りの、ひどく古びた、しかしどこか近代的な機械が配された、矛盾に満ちた空間。
何より異常だったのは、私の「手」だった。
液体のなかに浮かぶ、二本の腕。それは、私がよく知る、白く、柔らかく、細い指先を持った女性の腕ではなかった。
鈍い光沢を放つ、黒ずんだ鋼鉄の肢体。
関節部分は複雑な歯車やシリンダーが剥き出しになっており、指先はまるで肉食獣の爪のように鋭く尖っている。皮膚などどこにもない。そこにあるのは、無骨なリベットで留められた、冷徹な装甲板だった。
「な……に、これ……。私は、だれ……?」
声を出そうとするたびに、喉の奥――いや、喉があるべき場所に埋め込まれた発声装置が、激しく振動して火花を散らすような感覚が伝わってくる。
私の名は、エルザ。そうだ、エルザ・マウアー。
二十四歳。王都の仕立て屋で働き、布の柔らかさや、針を通す瞬間の静けさを愛していた、ごく普通の人間だ。
昨夜は、激しい頭痛に襲われて、自分の部屋のベッドに横たわったはずだった。それなのに、なぜ。
なぜ、私の体は、こんな鉄の塊になっている?
恐怖が、私の回路を焼き切らんばかりに暴れ狂った。
この場所から出なければならない。この悪夢から目覚めなければならない。
私は狂乱のままに、鋼鉄の拳を目の前のガラスへと叩きつけた。
――ガギィィィン!!
鼓膜が裂けるほどの凄まじい衝撃音が響く。
ガラスには、白いひび割れが走った。それと同時に、私の拳――金属の指先から、激しい「振動のデータ」が脳に直接流れ込んでくる。痛みではない。しかし、衝撃の強さが数値として理解できるという、人間離れした、吐き気を催すような感覚。
「嫌だ! 出して! 出してよぉぉぉ!」
二度、三度、私は狂ったように拳を突き出した。
バキバキと音を立ててガラスの檻が崩壊していく。そして四度目の打撃で、厚いガラスは完全に粉砕された。
凄まじい量の琥珀色の液体が、濁流となって外へと流れ出す。
私もまた、その水圧に押し流されるようにして、勢いよく床へと這い出た。
「ガハッ……、ゴホッ……!」
条件反射で咳き込もうとするが、肺がない。気管がない。ただ、体内に残った液体が、口の形をしたスリットからドロドロと吐き出されるだけだ。
床に激突した瞬間、私は己の肉体の圧倒的な「重さ」に絶望した。
立ち上がろうとしたが、自分の体を支えることができない。ズシリ、と、地球の引力が何倍にもなったかのような重量が、私の全身にのしかかる。床は冷たい石畳だった。私のセンサーは、その温度が「摂氏五度」であることを正確に告げていた。冷たいという情緒的な感覚ではなく、ただの記号としての温度。それが、私から人間らしさをさらに剥ぎ取っていく。
私は、這いつくばったまま、流れ出た液体の水溜まりに目を落とした。
ガラスの破片と液体が混ざり合う水面。そこに、私の「顔」が映っていた。
「……あ……ああああ……」
絶叫。いや、それは金属の軋み声。
水面に映っていたのは、おぞましい鉄の仮面だった。
髪の毛は一本もない。頭部は滑らかな金属の球体で、側頭部からは何本かの太いケーブルが背中へと伸びている。
そして、目。そこには人間の優しい瞳などなかった。
赤く輝く、二つの大きな光学レンズ。私が恐怖で息を呑むと、そのレンズの絞りが「カチ、カチ」と機械音を立てて小さく狭まった。口元は、縦にいくつかのスリットが入っただけの、言葉を喋るためではなく、ただ音を排出するためだけの無機質な穴。
私は、怪物になっていた。
かつて愛した自分の顔も、なめらかな肌も、すべてが奪われ、代わりに冷酷な鉄の、兵器のような姿に変えられていた。
「だれが……こんなことを……。神様、お願い、嘘だと言って……」
私は鉄の爪で自分の顔をかきむしった。
ガリガリと金属同士が擦れ合う嫌な音が部屋に響き渡る。どれだけ強く引っ掻いても、血は出ない。痛くもない。ただ、装甲表面が削れる微小な振動が、私の脳に伝わるだけだ。
私は泣きたかった。涙を流して、この現実を洗い流したかった。
しかし、赤いレンズからは、一滴の涙もこぼれ落ちることはなかった。
しばらくの間、私は冷たい石の床で丸まっていた。
どれほどの時間が経ったのかは分からない。ただ、私の視界の隅にある内蔵時計が、規則正しく一秒一秒を刻み続けていることだけが、世界のすべてだった。
(このまま、ここで朽ち果てるのを待つなんて……)
そんな思考がよぎる。しかし、私の機械の体は、疲労を感じることも、飢えを感じることもなかった。ただ、エネルギーの残量が「92%」であるという表示が、不気味に明滅している。このまま何もしなければ、私はただ、この薄暗い部屋で、永遠に近い時間を生き恥をさらし続けることになるのだ。
私は、覚悟を決めるしかなかった。
何が起きたのかを知らなければならない。誰が私をこんな姿にしたのか、ここはどこなのか。もし、私を人間に戻す方法があるのだとすれば、それを探さなければならない。
「…………進むしかない」
擬似的なため息を一つ吐き、私はゆっくりと立ち上がった。
今度は、バランスを取るための制御プログラムが自動で働いたのか、先ほどよりもスムーズに二本足で立つことができた。
立ち上がると、視点が以前よりもずっと高いことに気づく。私の身長は、かつては小柄な部類だったはずだが、今の体は二メートル近くあるのではないだろうか。周囲の未知の設備が、妙に小さく見える。
私は改めて、自分が目覚めたフロアを見回した。
部屋は広大だった。天井は異常に高い。手を伸ばせば、鋼鉄の指先が天井の剥き出しの岩肌に届きそうなほどだ。いや、ただの単眼鏡のようなズームだった。
部屋のあちこちには、私がいたものと同じ円筒形のポッドが、何千基も立ち並んでいる。ケーブルが何百、何千と繋がっていた。
しかし、そのほとんどは機能停止しているように見えた。
あるポッドはガラスが完全に叩き割られ、中の液体が干からびて茶色いシミになっている。またあるポッドの中には、何かが入っていた。
私は、吸い寄せられるようにそのポッドの一つに近づいた。
赤いレンズの焦点を合わせる。ズーム機能が勝手に働き、ガラスの向こう側が鮮明に映し出された。
中に入っていたのは……「肉塊」だった。
いや、かつては人間、あるいはそれに類する生物だったものだ。
半ば機械化され、体中にボルトやチューブを叩き込まれた肉体が、どす黒く腐敗し、液体の中でドロドロに溶け落ちている。骨の一部が露出しており、その骨すらも、何らかの金属のフレームで補強されていた。
「ひっ……!」
私は思わず後ずさりした。
これは一体。私と同じように機械の体に改造されようとして、耐えきれずに死んでいった哀れな犠牲者たちのよう。
ということは、私は「成功例」ということになるのだろうか。この狂気的な実験の、唯一の生き残り。
足元に、何かが転がっているのに気づいた。
視線を落とすと、それは一つの頭蓋骨だった。
しかし、奇妙だった。その頭蓋骨は、人間のものではない。
全体の形状が異常に横に広く、顎の骨が信じられないほど頑丈で、分厚い。そして何より、額の中央に、何らかの紋章のようなものが深く刻み込まれていた。
それは、「巨大な金槌と、燃え盛るアンビル(金床)」のマーク。
「これは……どこかの国の紋章……?」
私の薄い記憶を探っても、王都や近隣の国々に、このような紋章を持つ一族や軍隊は存在しなかった。
ただ、その頭蓋骨の形状と、金槌のマークが、私の脳の底にある不穏な知識を刺激する。
人間よりも背が低く、頑強で、地底に住み、鉱石と鍛冶を愛する、頑固な種族。
古い童話や、冒険譚に登場する、異種族の姿。
(まさか……ドワーフ?)
そんな馬鹿な、と私は思考を否定した。
ドワーフは、数千年前の「大戦」の末に、地上の表舞台から完全に姿を消したはずだ。彼らは深く暗い地底へと引きこもり、人間との関わりを断絶した。と。今や、ただのおとぎ話の住人だ。
しかし、この異常に高い天井、頑丈すぎる石造りの建造物、そして剥き出しの歯車と蒸気のテクノロジー。
そのすべてが、おとぎ話の主たちの特徴と合致していた。
部屋の奥へと進むと、巨大な鉄製の扉が立ちはだかった。
扉には、先ほどの頭蓋骨にあったものと同じ、金槌と金床の紋章が、青銅のレリーフとして大々的に刻まれている。
私は扉に手をかけた。
人間だった頃なら、びくともしないであろう重厚な鋳鉄の扉。しかし、今の私の鋼鉄の腕が力を込めると、油の切れた不気味な悲鳴を上げながら、扉はゆっくりと奥へと開いていった。
扉の向こうは、果てしなく続く暗い廊下だった。
やはり天井は高く、壁は粗く削り出された岩肌が剥き出しになっている。壁のところどころには、太い真鍮製のパイプが這わされており、そこから「シュー、シュー」と、熱い蒸気が漏れ出る音が聞こえる。
空気はひどく乾燥しており、煤と、古い油と、そして何かが焦げたような嫌な臭いが充満していた。
一歩、踏み出す。
静寂に満ちた廊下に、私の足音が響く。
カツン。カツン。カツン。
金属の足が石の床を叩く音が、やけに大きく反響して、まるで見えない誰かに自分の居場所を知らせているかのような恐怖を煽る。
私は壁に沿って、慎重に歩みを進めた。
この施設には、誰もいないのだろうか。私をこんな姿にした「創造主」たちは、どこへ行ったのか。
歩きながら、私は自分の体に施された過酷な改造の痕跡を、嫌でも自覚させられた。
歩くたびに、背中のジェネレーターらしき部分から、かすかな駆動音が聞こえる。私の五感はすべて人工物へと置き換えられ、壁の微小なひび割れや、パイプを流れる液体の圧力までが、情報として脳内にポップアップしてくる。
それは便利というよりも、絶え間ない精神的拷問に近かった。情報が多すぎて、脳が悲鳴を上げそうになる。




