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 邸宅に帰り着いた時、時間は十九の時を回っていた。

 別れ際に、グラスはアリスンに「明日は、朝食を持って俺の部屋に来いよ」と言うと、さっさと一人で自室へと戻っていく。

 一日中一緒にいたせいか、アリスンとグラスの仲はぐっと縮まっていた。女中扱いではなく、リュビサスから言われた「息子の話し相手」としての役割をアリスンは果たせそうだと感じていた。

 部屋に戻り湯を浴びたところに、寝間着姿のパティが隣の部屋から訪ねてきた。

「アリスン様、遅かったですね」

「パティ! お疲れ様」

 パティがゆっくりと、寝台に腰かけているアリスンの元にまで歩いてくる。

「髪を乾かして、整えましょう」

 マガリテにいた頃からの習慣だ。だが、アリスンは「今日はいいわ」と断った。

「あなたも疲れたんじゃない? パティ、あなたはもう私の侍女じゃないんだから、こういうことはしてくれなくてもいいんだよ」

 アリスンの言葉に、パティは返事をしない。

「グラス様もさ、わたしのことはアリスンじゃなくて『アリー』って呼ぶんだよね。使用人棟で話した女性たちもそうだったじゃない? だから、パティもわたしのことアリーって呼んでよ」

「私にとっては、アリスン様はアリスン様です。国を追われて、王女でなくなったとしても、死んだことにされてしまっても、それはどこまでも変わりません。ですが、そう呼ぶことをお望みなら、そうします」

「パティ?」

 パティがアリスンの両手を強く握りしめる。

「貴女はマガリテの王女アリスンなんです。どこにいても、変わりません。それを忘れないで下さい」

 そう、あの日幼かったパティを、光を知らなかったパティに光を与えてくれた存在がアリスンなのだ。アリスンの存在自体がパティの『光』で『生きる意味』になった。

「パティ? どうしたの?」

 涙をこらえるように唇をかんだパティを、アリスンは不思議そうに見上げる。

「泣かないで、パティ」

 アリスンは寝台から立ち上がり、一筋の涙をこぼした昔からの友人を抱きしめた。

 

翌朝、アリスンはパティと連れ立って使用人棟へ行くとホールで朝食を受け取り、邸宅のグラスの私室へと一人で向かった。

ハリカという年配の洗濯女からは「あの、坊ちゃんに気に入られるなんてねえ……」と驚かれたが、アリスンとしては気に入られたという感覚もない。今日も、パティはナスリと連れ立って邸宅内の仕事を手伝うらしい。昨晩のことがあって心配したが、パティは朝になるとすっかり落ち着いていた。

「就寝前に、部屋に行ってもいいですか」とパティに聞かれ、アリスンは「もちろん」と返事をした。

 この日、アリスンが朝食の総菜パンと牛乳を持ってグラスの部屋に入ると、彼はすでに起きていた。しかも、半裸でベッドルームの壁に設置してあるはしご状の(ろく)(ぼく)にぶら下がっている。

「な、何をしているの?」

 驚いて走り寄ったアリスンに、グラスはちらりと視線をやる。

「朝の運動」

 アリスンの背よりも高さのある肋木は、ぶら下がることで懸垂をして筋力を鍛えたり握力を上げることができる。姿勢を矯正することも可能だともいわれており、グラスは車椅子生活を健康的に続けるためにも、この訓練を欠かさないようにしているらしい。

「今日は、背中は痛まないの?」

「こうやって鍛えることで、筋肉がコルセット代わりになって背中の痛みの軽減につながるんだ。少し痛いくらいだったら、俺は毎日訓練をやることにしてる」

「そうなんだ」

「お前は? 何か、日課とかないのか」

 自分は何も知らないし、何もやってこなかったと突き付けられた気がした。母からは「王女らしくあれ」と言われたが、そうしてやってきたことは、王女らしく美しく優雅に着飾って暮らすことだった。王女でない今となっては、それには何の意味もないことのように思えた。

ふと、寝台の横のサイドテーブルの上にハサミが置かれているのを見て、アリスンはそれを手に取った。大ぶりな鉄のハサミだった。

「ねえ、グラス様。これ使ってもいいかな」

「え? いいけど」

 グラスは肋木で懸垂を続けながら、興味なさそうに返事をする。

アリスンはそのハサミを手に取り、ベッドルームの隣にある浴室に入っていった。浴室は白と青のタイルを基調にしたシンプルなデザインで、壁一面は鏡になっており、グラスが使いやすいように手すりと椅子も付いている。アリスンは鏡の前に立つと、頭の上にまとめていた髪をほどくと耳の下から()()()()とハサミを入れた。一度入れてしまうと、躊躇もなくざくざくとハサミを動かしていく。

 ずっと、こうしたかった。本当は、短い髪が好きだった。

 鏡の中の自分が、どんどんと生来の自分を取り戻していくのをアリスンは感じていた。あそこにいた自分は、自分のありたい姿ではなかった。あそこにいても、わたしはわたしたりえなかった。

「ふふっ、変なの」

 がたがたに切られた髪の少女が、鏡の中で泣き笑いをしている。似合っているかどうかわからなかったが、アリスンはそんな評価などは求めていなかった。

 床に散らばった髪をまとめて、浴室の掃除棚に入っていた(ごみ)袋に捨てた。

室内に戻ると、肋木にぶら下がっていたグラスが振り返ってこちらを見ている。

「髪、短いのも似合うじゃん」

 そっけない声を掛けてくれたグラスに、思わずアリスンは笑ってしまった。

「ありがとう」


 この日、グラスは一日中室内でダムの設計図と睨みあっていた。

 陽が沈みかけたところで、ナスリが部屋に訪ねて来て「アリスン、これをどうぞ」と、いくつかの新聞を手渡してきた。そのどれもが、マガリテとファライザの武力衝突を危惧する内容だった。後ろから覗いていたグラスが声を掛ける。

「そっちのファライザ語の新聞は俺が読んでやる。こっちに来い」

 アリスンはおとなしくファライザの新聞をグラスに渡す。

 その後、アリスンはマガリテの新聞に目を通した。


【昨晩八時頃、マガリテの漁業取締船がファライザ自治領の漁船をマガリテ近海で発見。こちらの停船命令に従わない自治領の漁船を拿捕(だほ)して、船長を現行犯逮捕した。現在も捜査を継続しているが、ただの密漁船ではない可能性も大きく、事実関係の把握に努める】

 

 マガリテとファライザ自治領の間に、きな臭い噂があることをホールで聞いたばかりだ。記事の最後に、ファライザ自治領の漁船が拿捕されるのは五年ぶりのことだとある。

 次に、グラスがファライザの新聞を読む。


【昨晩八時頃、ファライザ自治領の漁船が自治領近海で操業中に、マガリテの漁業取締船から銃撃・拿捕された。マガリテ側は、漁船から禁漁期間であるマダラガニが大量に見つかったとファライザに通告した】


 カニの密漁船が拿捕された、それだけの記事のようにも思えたがグラスもナスリも難しい顔をしている。

「これは、大変な事件なの?」

 グラスとナスリは、顔を見合わせる。

「自治領の漁船が密漁をやっていたというのは事実だろうが、マガリテ側はそれを利用して事を大きくするつもりだろうな。以前もこれと同じことがあった。百年ほど前のことだ。当時、マガリテの王位に就いたばかりだったイビという男が、国内の政情不安から国民の目を逸らすために、ファライザやガレス相手に言いがかりをつけて煙のないところに火を起こそうとした」

 グラスの言葉に、アリスンは考え込む。

二世紀ほど間に即位していたらしい「イビ王」については、数年で病に倒れたということくらいしか知らない。これといった功績もなく、王家の中でも触れられることのない人物だ。

「イビは、本来であれば幼い王の摂政として振舞わなければいけなかったが、そこから逸脱して王を監禁し自らが新王を名乗ったんだ。当時、宮廷はイビの専横で相当荒れたらしい。イビと寵臣たちは、国民の不満を自分たちから逸らせるために、この手の事件を作りあげ対立を煽った」

 グラスの言葉に、アリスンは戸惑う。

「そんな話、聞いたことがないけど」

「それはそうだろう。マガリテの正史には、記録されていないことだ。だがファライザ側が公式の記録に残しているし、当時の遺恨はまだ子孫たちに受け継がれている」

 ナスリが口を開いた。

「書斎や図書館に昔の新聞記事もありますから、時間のある時にアリスンも目を通してみてはどうです? ファライザ自治領がイビ率いるマガリテ軍に襲撃された事件は、あなたの立場からしても知っておかなければいけないことだと思いますよ」

(わたしって、本当に何も知らないんだ)

家庭教師について勉強はしていたし、歴史は得意中の得意だといっても過言ではなかった。それが、その歴史認識自体が間違いだったというのだ。

「親父、何か言ってる?」

 グラスがナスリを見上げて聞くと、ナスリは頷く。

「双方の緊張が高まっており、軍事衝突の恐れがあります。どうやら、今回マガリテ側が漁船を銃撃したさいに、漁師が一人亡くなっているらしいのです。ファライザ側は内々にその情報を手に入れ、遺体を返還するように求めています。これが、受け入れらない場合……」

「何かあったら、ここへ流れて来る民もまた増えるだろうな。食料や住まいの提供を滞りなく進められるように、一族の関係者に伝えておいてくれ」

「わかりました」

 ナスリはグラスに頭を下げると、去って行った。

 その後ろ姿を見送ると、グラスがアリスンに声を掛ける。

「お前さ、明日俺と図書館に行ってみるか?」

「え、いいの?」

「俺も用事があるから、ついでだよ」

「ありがとう! わたし、自分の生まれた国のことなのに、知らないことばかりで恥ずかしいと思って。だから、今さらかもしれないけど色々勉強してみたい」

 前向きな様子のアリスンに、グラスは「今さら、ってことはないと思うけどな」と笑った。

「何にも知らないって、バカにされるかと思った」

「知ろうとすることは、悪いことじゃないだろ」

 そう言われて、アリスンも少しだけ笑みを浮かべた。


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