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 この日、マガリテの首都から東の街道で、奇妙な光景を目撃した者は少なくない。

「木が動いていた」と、控えめに証言した者もいれば「大きな木が空を飛んだ」「巨大な木が走り去った」と興奮が収まらない様子の者もいた。そのどれもが、間違いではなかった。

アリスンたちを乗せた樹々は、王城まで全速力で駆け抜けたからだ。

 森を抜けてマガリテの街道に入ったところで、道行く人々が驚きのあまり声を上げ、指を指した。

「ママ、木が走ってるよ!」

「こんなことありえない、あれはガレスの新型兵器なんじゃないのか⁉」

 混乱するマガリテの人々を尻目に、樹々は街道沿いを驚くほど軽やかに走り抜けていく。普通であれば、何本もの巨木が大地を駆けるとなると轟音が響き渡ってもおかしくない。だが、奇妙なことに騒いでいるのは人間だけで、走る樹々は静かなのだ。

 首都ダミナイに入ったところで、必死で枝につかまっているリリアが叫んだ。

「アリスン! このままいくと星型要塞の大砲に狙い撃ちにされるわよ、どうするの?」

「それは問題ない」

 その言葉通り、要塞の大砲はぴくりとも動かなかった。アリスンのマントの胸元からライリーが顔を出して「チッチッ……」と鳴く。

 どうやら、()()()が良くやってくれているようだ。

ヨンジャとアリスンは派手に国境沿いに姿を現したが、サンカルの部下たちとベイザは先に王城へと転移していた。王城内にいるサンカルと親しい家臣や兵士たちに声をかけ、彼らが要塞の機能を無力化することに成功したのだ。王太后ローザの専横に不満を持つ者は、こちらが想定する以上に膨れ上がっていた。

落ち着き払った妹を、リリアは奇妙な目で見ている。妹はこんな子だったろうか。もはや、半年前に別れた時とはお互いに別人の様だった。

 アリスンとリリアが乗った樹々は要塞の壁に張りつくと、そこを垂直に登り始める。要塞の警備兵たちが、こちらを見ながら何やら叫んでいるが、手出しをしてくる兆しはなかった。アリスンたちは、振り落とされないよう両手で枝につかまる。必死で枝に掴まっているリリアが声を張り上げた。

「あんた、王太后が今どこにいるかわかってんの⁉」

「リリアは? わかる?」

 二人の姉妹は、顔を見合わせて同じことを考えていた。

 玉座の間に違いないだろうと。


 その女が、どのようにしてマガリテの王子に見初められたのか。真実は限られた人間しか知らないことだ。

女は妾腹の娘と蔑まれ、最低限の教育は受けられたものの、娘盛りを過ぎてもいい縁談を授かることはなかった。そんな生活で、彼女に許されていた数少ない娯楽は、街中にあるマガリテ国教の礼拝堂で行われる説教の時間だった。息苦しく、将来の展望もない虚しい生活を送るしかない年頃の娘にとって、神を信じることによって最上の世界へと旅立つことができると説く国教の教えは、救い以外のなにものでもなかった。

 毎日のように行われる説教では、若い聖職者たちも駆り出されることがある。そこで、偶然女が言葉を交わすようになったのは、パヤームという青年司祭だった。パヤームは女の境遇を知ると、こう言った。

女性であっても身を清めて財産を捨て、神への愛を誓うことで、(イエ)を捨てて国教の信徒として生きていくことができると。女の生みの母は既にこの世を去っており、その墓標には名前すら刻まれていなかった。妾の子ということで私有財産もないに等しかったから、家を捨てることなど造作もなかった。

世を捨てて、国教の信徒として生きたいと言った女の手を、パヤームは取った。彼の熱い潤んだ瞳は、若く情熱を帯びていた。マガリテ国教の聖職者は妻帯は許されている。

「いずれ私と一緒になって欲しい」

 そう言われた女は、なかなか現実を受け入れられないようだった。「夢みたい」と言って、ぼんやりしていたので、熱病にかかって死も間近ではないかと、正室の子から言われたりもした。

 そんな二人が、逢瀬の場として選んだのは礼拝堂近くの市場(バザー)だった。一日中、人の流れが途切れず人の目を気にする必要のない場所。家族から捨て置かれていた女は、誰にも見咎められることもなくパヤームとの愛を育んでいた。

「もうすぐ世継ぎの王子の生誕祝いですから、その日は国中をあげての大騒ぎです。その隙に、身の周りの少しの荷物だけを持って家を出たいと思います」

 女の言葉にパヤームは頷く。二人は口づけすら交わさず、互いの身体に触れあったことすらなかった。運命の日、大きな海に身を投げ出すようにして屋敷を飛び出した女は、一直線に市場へと駆け込んだ。はやる胸の内を抑えるのも難しく、上気した頬を美しく染めた女に、「もし……」と声をかけた男がいた。

 その男は女よりも少し年嵩のようで、簡素ではあるが仕立ての良い衣服に身を包んでいた。

「あなたは、いつもここにいますね、ローザ」

 女は動揺した。

咄嗟に、パヤームの姿を群衆の中に探したが、彼はいなかった。

「あなたは、誰?」

 男は深く頷く。この日は男の誕生日で、彼のやんごとなき両親は可愛い息子の願いを何でも聞いてくれる日なのだという。彼はビー玉のような目をしていて、その瞳にはちっぽけな女の顔が映し出されている。

 男はよく城を抜け出し、お忍びで市場をうろついていた。そこで、粗末な服を纏ってはいるものの、美しい容姿を隠せない一人女を見初めた。まいにち、まいにち、まいにち、同じ時間に女は市場にいた。女の身元を探らせると、どうやら不遇な身の上の女らしい。

「わたしと出会うために、かわいそうなローザはここにいたのだ」

 女は身を捻って逃げようとしたが、どこに逃げられるというのだろう。男と、男の家臣たちが女を取り囲み、その口を塞ぐ。手も足も出せないまま、女は馬車に押し込まれていた。

 そうして、女は新しい身分を得た。

正室の娘であると記録され、生母の名もない墓は撤去され、貴族の養子にされ、マガリテの王子に輿入れした。すべてが、あっという間のことだった。女の父は新しい屋敷を王子から下賜され、なんと親孝行な娘かと咽び泣いたらしい。

「あなたは本当に幸福な女人だ」と、王子は女に言った。女は、「わたしは幸福ではありません」と答えた。

「あなたのような奥ゆかしい妃には、わたしは何だってしてあげたくなるのですよ」

 王子が見ているのは、ローザのかたちをした別のもののようだった。ローザの言葉はひとつとして王子には届かない。苦しくて叫ぼうとも、悲しくて泣こうとも、ローザは王子の掌中の珠だった。それは、王子がマガリテの王に即位しても変わることはなかった。

少しも嬉しくない一度目の懐妊、絶望のうちに迎えた二度目の懐妊、まるで罰を受けるように夫に抱かれ、三度(みたび)懐妊した時には、すっかり心は冷え切り、乾ききっていた。生まれた子の存在は疎ましく、己に押しつけられた重たすぎる荷だった。王から贈られる金糸のドレスとコルセットに締め付けられ、溺れ死にそうになりながらも、かろうじて息だけはしていた。

 そんな時だった。

 あの人が、パヤームが、ローザの前に再び現れたのは。


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