22
アリスンは自室の寝台の上に寝ていた。
鼻の奥に、ツーンとした消毒液のような不思議な香りがする。パティにヨンジャ、グラスにベイザがアリスンの顔を同時に覗き込む。
「おい、アリー! 大丈夫か?」
一番に声を掛けてきたのはグラスだった。きつく、アリスンの右手を両手で握っている。
大丈夫だよ、と声を出そうとしたが「だい……ぶ」としか声が出てこない。喉が嗄れているようだった。
「三日も寝ていたのだから、仕方ないよ。無理して喋らないで、まずは温かい白湯で喉を潤しなさい。ベイザ、気分が落ち着く香を焚いて白湯を用意してくれるかい」
ヨンジャがベイザに声をかけると、ベイザがすぐに白湯の入ったマグを用意してくれた。パティはそのマグを受け取り、上半身をゆっくりと起こしたアリスンの口元にゆっくりと持ってきた。
「まずは唇を湿らせてください」
アリスンは、その通りにする。身体がぐったりと重く、関節が痛む。唇を湿らせてから、ゆっくりと白湯を飲んでみる。何も入っていないお湯のはずだが、少しの甘みを感じた。アリスンの横で、パティが涙目になっている。
「アリスン様、ずっとうなされていました……。意識が戻ってよかった」
「わたし、ねて……ゆめ……国境の……」
なんとか言葉を紡ごうとするが、まだ上手く声が出てこない。ヒュッと喉が締まるような音がして、アリスンは激しく咳き込んだ。そんなアリスンに、ヨンジャが言う。
「無理はしないで。あんたはユズリガの魔素と胞子を吸って、意識を侵されていたんだよ。あの首飾りがあるから、魔素への耐性があると思ってよくよく注意しなかった私が悪かった」
どうやら、あの首飾りには過去に一度マガリテで補修された跡があったらしい。そのさいに、特別な魔力を編み込んだ糸ではなく、マガリテの普通の糸で首飾りの玉を繋ぎ直したせいで、首飾りの力は十分に発揮されていなかったようだ。
「悪夢を見たんじゃないか? 人によっては、夢に引きずり込まれたまま戻ってこれなくなる者もいるのだよ」
心配気にこちらを覗き込むヨンジャに、アリスンはゆっくり返事をする。
「あれは、悪夢でしょうか。わたし、夢の中でマガリテとガレスの国境沿いに……いました。姉に会いました」
いや。会った、わけではない。垣間見た、と言えばいいのだろうか。それに、あれは魔素がアリスンに見せた架空の夢かもしれない。あんなことが、本当に起こったと思いたくはなかった。パティとグラスが、アリスンを励ますように、両側からその手を握る。
「夢で見たことが真実かどうか、確認する必要があります。もし、サンカル将軍の意識が戻っているのなら、わたしと話をさせていただけませんか」
ヨンジャが、ふうと息を吐いた。
「あっちは、昨日から体調が安定して、ようやく重湯を取れるようになったところなんだよ。明日になったら、あんたと話ができるように調整するよ。今日は、ゆっくり休みなさい」
そう言ったヨンジャの肩には、ライリーが乗っている。ライリーは、何を考えているのかわからない黒い瞳でじっとアリスンを見つめると、さっとヨンジャの肩から飛び降り一匹で半開きだったドアから飛び出して行ってしまった。
あの子がいなかったら、ここに戻って来られなかったかもしれない。そう思って、アリスンは心の中でライリーに丁寧に礼を告げた。
翌日の昼前。
アリスンはパティを連れて、邸宅の三階の書斎のドアを開けた。そこには、すでにサンカルが到着していた。彼は憔悴はしているものの、自分の脚で立っていた。右肩にはギプスを付けている。サンカルはアリスンの顔を見て余程驚いたのか、その場で硬直してしまった。アリスンは彼の近くにまで寄ると、椅子に掛けるように促した。
「サンカル将軍、まだ辛いでしょう。椅子にかけてちょうだい。こちらに落ちてきた直後は、肩も脚もかなり悪かったように見えたのだけれど、回復したのですね。よかった」
「これは、アリスン様……。まさか、生きておられるとは。どのような不思議な魔術の仕業でしょうか」
サンカルは椅子に掛けたが、こちらを穴が開くほどじっと見つめて来る。アリスンは、父から授かった首飾りを、右の手で撫でた。
「そうね。わたしは国の神器を盗んだ罪で投獄されて、自死したことになっているのだものね。それは、全部嘘なんです。この首飾りは、生前に父から贈られたもの。母に殺されそうになったわたしとパティを、《秘密の森》の一族当主であるリュビサス様が助けて下さったのです」
「リュビサス……あの者は、あの者たちは一体何者なのですか? まさか、《秘密の森》が我々の住むマガリテの下に、このように広がっているなどと……。聞かされた時には本当に驚きました。失礼ながら、私は《秘密の森》というのは御伽話の類にすぎないと思っていたものですから」
「そう言われても、わたしも詳しくは知らないの。リュビサス様が《秘密の森》の当主で上の世界とここをつなぐことができる、ということだけは知っているけれど」
息子の話し相手になるのであれば、邸宅に置いてやると言われて、アリスンはリュビサスについて深く考えることはやめてしまった。
「悪い方ではないわよ。リュビサス様も、この邸宅の方たちも」
「命を救われたのですから、悪人だとは思いません。しかし」
サンカルは言い淀む。
「他国の王女を誘拐監禁しているわけですから……」
「監禁? やめてよ。わたしは、助けられてここにいるのよ。自分の意思でここに留まっているのだから、変なことは言わないで」
監禁という物々しい言葉に、隣に付いているパティも驚き笑っている。
「しかし、今マガリテは大変なことになっているのです。このままでは内紛は激化し、民が犠牲になります。それを防ぐために、何ができるのか考えねばなりません。アリスン様も、王族の一人として問題に対処していただきたい!」
話しているうちに、サンカルの言葉に熱がこもってきた。
「そうね。ごめんなさい、笑ったりして。そのことで、あなたに確認したいことがあるのだけれど、いいかな」
「なんでしょうか」
アリスンは夢で見たことを、掻い摘んでサンカルに問う。
「お母様から国境沿いに行くように言われたのよね。その時、何があったのか憶えている?」
「もちろん覚えています。我々は精鋭三百騎を連れて、国境沿いへと向かっていました。というのも、ガレスが急に相互間協定を見直したいと通達してきたからです。我が国の先王がなくなり、新王が選ばれた経緯が著しく不透明であることから、ガレス側は新王の即位に疑念を持っています。後継として、先王の第一王女であるリリア様が相応しいのではないか、とガレス側は主張し、それが受け入れられないのであればマガリテに攻め入ると、再度通達がありました」
「あなたは、姉を担いで反乱を起こすという密告をされ、国境警備の任を一度は解かれていますよね」
サンカルは、「ありえない!」と顔を歪めた。
「まったくのデマに過ぎない。そもそも、ブラゴジ王が倒れてからというもの、私は登城
をほぼ許されず、王族の方と対面することもできなかったのです。どうやって反乱など起こせましょう!」
サンカルの言葉に嘘はない気がした。本当にリリアを担いでクーデターを起こすような人間なら、このタイミングで母が再度国境に送り込むのは自殺行為だ。
「そうよね、ごめんなさい。では、どうしてあなた方が怪我を負ったのか教えてちょうだい」
「アリスン様、我々は仲間に嵌められたのですよ。あの日、我々は王太后の勅命により、イヴァン将軍のいる国境へと向かっていました。すると、三叉路前方からイヴァン将軍の使者が出迎えてくれたのです。前日までの長雨のせいで川が増水しているため、進路を変えた方がいいと言われた我々は、彼に案内され迂回路へと回りました」
そのまま森の中を突っ切っていくと、部隊は早々に異変に気がついた。地面に踏み荒らされたような跡があり、森の生き物たちの声がしないのだ。違和感を感じ、使者を問いただそうとしたところで、空から巨大な岩が突然降って来た。
「投石機による攻撃です。我々は一か所に固まっていましたから、集中攻撃を受け一網打尽にされてしまいました」
夢の中で降ってきた巨岩のことを思い出して、アリスンはぶるりと震える。
「ガレスの投石機だったのですか」
「いえ、我々を攻撃したのはガレスではなくマガリテの投石機です」
「そのような状況下で、どのように確認できたの?」
「投石機の射程距離ですよ。我々がいたあの場所に、あの大きさの岩を投石しようと思ったらマガリテの国境沿いギリギリに投石機を設置する必要があります。しかし、ガレスの軍が投石機を準備しているという情報は、斥候からも上がっていませんでした。そうなると、稼働したのは味方の投石機でしょう」
やはり、とアリスンはぐっと奥歯をかみしめる。
「その斥候の情報に間違いはないのですか? もし味方の投石機があなたたちを襲ったということであれば、これは軍の規律に反します。国に対しての大きな背反行為でもある」
「斥候は、私の実の弟です。身分を偽り、数年前からガレスの国境警備の任についています」
では、アリスンの見た夢は、正しく現実を映したものなのだろう。
「つまり、あなた方を襲ったのは味方であるイヴァン将軍だと? 彼は、あなた方が国境に到着次第、その任を解かれあなたの指揮下に入ることが決まっていましたね」
「ええ、そうです。平時ならともかく、ガレスから宣戦布告ともとれる声明が発表されましたからね。実際に、戦闘になってしまえばイヴァン将軍では太刀打ちできないと王太后は考えているようでした。そもそも、ガレスはここ数十年で何度か背後の秦蘭国とやりあっている。我々マガリテ軍も友軍として参加したことがありますが……、もしもガレス軍と正面からやりあうことになればマガリテに勝ち目はありませんよ」
「そう、そこまで戦力差があるの。わたし、本当に何も知らないのね……」
つまり、戦を何が何でも避けなければいけない。
「一度は救われた命ですが、ここに留まり続けるわけにはいきません。すぐにでも、あちらの世界に戻り、ガレスの軍を食い止める必要があります」
ガレスの軍だけではない。味方ですら味方とはいえない。この状態でサンカルが戻ったところで、一体何ができるだろう。いや、サンカルは一度死を覚悟したのだ。今になって、何を惜しむというのだ。




