第65話 二人の約束を果たすとき
春の終わりの、よく晴れた日だった。
日和は学校を卒業して、正式に探索士の資格を得た。
探索士の資格を取得したら、二人でダンジョンに挑もう。あのときの言葉を実行に移すときが来た。
透と日和はスケジュールを合わせ、準備を整えて現場へ向かう。
現場は、北の地方にある山中のダンジョン。
最寄りの集落から舗装路を一本入って、ほぼ未舗装の林道をさらに小一時間ほど。携帯電波はとっくに途切れていて、車窓の景色は、ずっと同じ針葉樹の壁が続いている。窓を半分だけ開けると、湿った土と樹皮の匂いが車内に流れ込んできた。
車は林道の終点で、ゆっくり停まった。
その先は、徒歩でしか入れない谷。二人は荷物を手に、車から降りた。
空気を一口、軽く吸った。山の奥の冷たさ。森の影が落とす湿度。そして——そのさらに奥から、薄く流れてくる、別の種類の気配。
ダンジョンの気配、と透は呼んでいるもの。入口を持つ場所には、共通の「空気のたわみ」が感じられる。各地方のダンジョンを巡った透にとっては、感じ慣れたものに近かった。それは、普段感じるものより、明らかに濃かった。立入禁止に指定されているのも、納得できる。
日和は動きやすい作業着に、薄手の外套。腰の左には、いつもの剣。背中側には、軽量の鞄。装備の重みを、ほとんど感じさせない立ち姿。
日和も透と同じように、軽く空気を吸い込んだ。
「……奥の方、ですね」
「うん。だな」
立入禁止のゾーンと、監視する装置が多数設置されている。中からモンスターが出てきたら、すぐ察知できるようにしているようだ。それと、誰かが勝手に侵入しないようにするために。
今日のために借りている鍵を使って、その中へ入っていく。
しばらく歩くと見えてきた。地形そのものは自然のものに近い。けれど、その円形の中央には、明らかに自然ではない裂け目があった。岩肌の一部が縦に割れて、内側の闇だけが、外光を一切跳ね返さずに、ただ、そこにある。
ダンジョンの入口。
典型的な、岩盤型の口。
透は、軽く息を整えた。
目を、半分だけ閉じる。
察知。
——広い。
多層構造。少なくとも、五層以上。資料で確認できた範囲は第三層まで。その上に、まだ数十層くらいの厚みがありそう。奥にも、推定よりずっと奥行きがある。
感じ取れるダンジョンの気配の総量は、かなり大きかった。
資料にあったモンスター情報「未確認・推定」の枠は、たぶん、これだ。ダンジョンの奥側に、連動して動いている巨大な気配の塊がある。
危険な気配が、複数。資料にあった撤退理由が、そのまま、自分の感覚の中で輪郭を持って立ち上がってくる。
普通の探索士パーティーには、無理だ。過去の調査隊が、撤退判断を下したのは正しい。
けれど。
自分たち二人なら、攻略が可能だろう。
しばらく察知を続けた。すぐ隣で日和が、こちらを見ていた。情報を整理して、こちらの呼吸が整うのを待ってくれていた。
「準備、大丈夫です」
日和の声が、いつもの落ち着いた音量で、入口前の空気に落ちた。
透は、軽く頷いた。
「うん。行こうか」
「はい、師匠」
今日は、訓練の場ではない。
現場の、正式な任務としてダンジョン攻略に挑む。
二人は、入口の方へ一歩、踏み出した。
岩盤の縦の裂け目が、視界の中で大きく開かれていく。内側の闇が、足元の影と、ゆっくりと繋がる。空気の温度が、入口の外と、わずかにずれ始める。
その瞬間、後方で、ふっと、空気の流れが止まった気配があった。
外光が、背中側に置き去りになる。
もう一歩、前へ。
空気の温度が、外と完全に切り替わる。湿った土と樹皮の匂いが、岩と、別の何かの匂いに置き換わる。視界の上方が、岩肌の天井で閉じ、足元の影が、内側の闇と、完全に繋がる。
もう一歩、前へ。
二人の背中は、ほとんどためらいなく、ダンジョンの闇に呑まれていった。
***
岩肌の通路。天井は思いのほか高く、足元の土はわずかに湿っている。視界は、入口から差し込むわずかな残光と、自分たちが持ち込んだ淡い照明の輪郭で、ぎりぎり保たれている程度。
足音とも息遣いともつかない振動が、岩壁の向こう側から迫ってくるのを感じた。一体、二体、三体——いや、もう少し多いか。
最初の角を曲がった先で、群れが、こちらに向かって走り出していた。
四つ脚の、ある程度大型の個体が、複数。
透は、右手で剣を抜きながら、左足を一歩、前に出した。先頭の一体が、こちらに飛びかかってきた瞬間に、剣先を、相手の重心の真下に滑り込ませる。
一体目が倒れる軌道を躱しながら、二体目を、すれ違いざまに斬る。
三体目は、振り返りもせずに、背中側で処理した。気配の輪郭が、剣の届く距離まで来た瞬間に、半歩だけ身体を回して、首の付け根の継ぎ目に一撃。
四体目、五体目——
最初の群れは、十秒もかからずに、通路の床に転がっていた。
透の呼吸は、ほとんど乱れていない。
派手な動きはひとつもなかった。ただ、必要な角度から、必要な力で、必要な部位を斬る——その繰り返し。
透が前を向き直したとき、後方からの足音は、もう自分のすぐ後ろまで来ていた。
「右、対処します」
「うん」
日和が、武器を構えて踏み出した。
岩の継ぎ目の影から、中型の一体が、こちらの側面に飛びかかってくる。日和の剣が、その軌道の途中に、すっと差し込まれる。鉤爪の伸びてくる手の根元を、横から押さえる。淀みのない動きで、首の側面に一閃。
一撃。
中型の個体は、横向きの勢いを保ったまま、岩壁にぶつかって落ちた。
二人は、次の区画へ抜けた。
次の区画は、地形が一段と複雑になった。
通路が短く分岐し、視界の端に岩柱が複数立ち、上下の段差が小刻みに変わっている。モンスターが集まってくる方向も、ひとつではなかった。複数の方角から、別々の種の足音が、ほぼ同時に集まってくる気配。
透は、走り込んできた中型の群れを正面から受け止め、まとめて引き受けた。
一体、二体、三体——剣先の軌道を、わずかにだけ広げる。範囲攻撃と呼ぶには控えめすぎる、しかし、扇形の届く範囲は、ちゃんと計算されている。
その扇形の外側、わずかな隙間。
そこに、別の方角から滑り込んできた個体が、二体。
日和の剣が、その隙間を、ぴたりと埋めた。
透が前線を片付け終えるのと、日和が二体を落とすのが、ほとんど同時。一拍だけ遅れて、岩柱の影から、もう一体。日和の視線が、すでにそちらへ移っていた。三体目も、間を置かずに片付く。
透は視線を、前へ伸ばした。
戦闘の間、一切のストレスがなかった。
これまで誰かと組んだ戦闘では、相手の動きを気にする分の意識を、必ず割いてきた。アメリカでマーカスと共に戦ったときも、それは確かに、少しあった。マーカスは規格外の戦士だったが、共闘する以上、相手の動きの予測幅を、自分の側でいくらか確保しておく必要があった。
日和の動きには、その意識を割く必要が、まったくない。
ほとんど毎日、鍛錬を重ねてきた三年間。透の動きの癖、判断の傾向、選ぶ間合い、踏み込みのタイミング——そうしたものが、日和の意識の中に、自然と刷り込まれてきた。だから、言葉もなくてもコンビネーションが噛み合う。
とてもやりやすい。
透は戦闘を続けながら、そう思った。
日和が共に立ってくれているという感覚が、意識に余裕を生んでいる。その余裕が、前方への集中を可能にする。誰かに背中を預けて戦うとは、こういうことか、と透は内心で思った。
地形は、ますます複雑になった。視界の悪い狭い通路、上下に段差を重ねる広間、複数方向からの湧き、トラップの古い痕跡——資料の情報がない場所へ踏み込み、警戒を強めながら奥へ進んでいく。
二人の動きは、攻略にのめり込んでいくうちに、さらに最適化されていった。
透が前へ出る場面では、日和は少し遅れて並走し、後方の処理に専念する。
透が広範囲の角度で剣を振る場面では、日和はその扇の外側の隙間を、ぴたりと埋める。
透が単体の強個体に意識を集中する場面では、日和は周囲の警戒を、ほとんど自動的に引き受ける。
呼吸のリズム、視線の方向、剣先の角度、足の踏み込みの音——その程度の情報だけで、お互いの動きが言葉もなく、ぴたりと共有されている。
***
通路の終わりに、ちょうど、息をつけるだけの空間があった。
岩壁が一段引っ込んで、足元の地面が少しだけ平らになっている、たまり場のような場所。湧き点の連動からは外れているらしく、気配がぴたりと薄い。
二人は、短い小休止を取ることにした。
大きく息を吸って、ゆっくり吐く。胸の奥の熱が、吐く息と一緒に、わずかずつ外へ流れていく。
透は、たまり場の少し奥、岩壁に背中をつけて立っていた。
目を半分閉じて、視線は近くを見ていない。次の区画までの安全確認に、意識をすうっと伸ばしている横顔。普段のアパートでも、訓練場でも、何度も見たその横顔が、ダンジョンの薄暗がりの中で、いつもより少しだけ、輪郭が鋭く見える。
日和は岩壁にもたれずに、自分の足で、ただ立っていた。そのまま、しばらく、二人は黙って時間を過ごした。
「行こうか」
透の声に、日和は頷いた。
「はい」
迷わずに、まっすぐに。
***
奥へ進むにつれて、ダンジョンの空気は、一段ずつ重さを増していった。
それでも、二人の動きは、ほとんど変わらなかった。
透が前へ。日和が半歩遅れて。お互いの次の動きは、言葉もなく共有される。複雑になった地形に対して、二人の連携の方も、自然に密度を上げて応えていた。
第四層、第五層、と進んでいく。新たに得た情報を記録して、持ち帰るために。
強個体の処理も、何度か挟んだ。いずれも、二人の役割分担の延長線上で、過不足なく処理できる範囲だった。
さらに奥へ踏み込むと、今までの層と比べて、空気の歪み方が明らかに違う場所に到達した。連動する強個体の塊、未知の挙動を取る個体の輪郭、地形そのものが含んでいるであろう不明要素——どれも、こちらの想定の上限に食い込んでいる。
だが、行けないことはない。
最深部の入り口までの最適経路、強個体群との戦闘ルート、戦闘の組み立ての見立て——全部、頭の中に、輪郭で並んでいる。技術的には、可能な範囲だ。
けれど。
透は、その並んだ輪郭を、もう一度、ゆっくり眺め直した。
今日の目的は、最深部の踏破ではない。
情報の持ち帰り。次に繋がる地形の把握。サンプルと記録。そのために、二人で来ている。最深部に踏み込めば、確かに、踏破はできるかもしれない。けれど、その分、消耗は確実に増える。日和の側にも、無理を強いる場面が出てくるかもしれない。
今日のラインは、ここだ。
半歩遅れた位置で、日和が、こちらを見ていた。
「日和」
「はい」
「十分な情報は、取れた。撤収しよう」
日和は、ほんの一拍だけ、視線を奥の方へ流した。
「はい。了解です」
返事は、即答だった。
判断の信頼、というやつだった。
透が、ここまでと決めれば、それが今日のライン。自分はそれに合わせる——その態度に、渋るような色は、まったく混じっていなかった。
二人は来た道を、新しく入手した情報を持って引き返し始めた。
帰路は、行きよりも、ずっとスムーズだった。
道の構造は、もう、頭の中の地図に丸ごと入っている。湧き点の位置、強個体の動き、トラップの痕跡——どこを通れば消耗を最小にできるかが、行きの段階で、ほぼ判明していた。透はその最適ルートを確実に選んで、戻っていく。
***
ダンジョン攻略を終えたあとは拠点に戻り、二人は持ち帰った情報を政府へ提出した。
透は、長机の手前側に、軽く腰を下ろした。
日和も、隣に、いつもの落ち着いた仕草で座った。
卓上には、透がダンジョン内で取った記録の束と、サンプル容器の入った金属ケースが、ふたつ。日和側のケースには、サンプル分類の手書きラベルが、几帳面に貼られている。記録束の方には、透の手で書かれた地図と、日和の手で書かれた採取記録が、それぞれの筆跡で分かれている。
透は、束の一番上の紙を、軽く卓上に滑らせた。
「では、報告を簡単に」
短い前置きで、そのまま始める。
最初に、ダンジョン全体の詳細マップ。
透が一枚ずつ、卓上に並べた。
第一層、第二層、第三層——層ごとの平面図と、それらを縦に繋いだ立体構造。透の気配察知と、日和の補助記録で、過去の調査隊が描けなかった範囲まで、一通りの情報が細かく書き込まれていた。最深部の入口付近まで続く範囲まで。
過去の調査隊が残した撤退時マップは、第三層までの内側半分。追記して描かれた情報の量は、桁が、明らかに違っていた。
その報告を聞いていた職員たちが、わずかに息を呑んだ気配があった。透は、特に説明を足さずに、次の束に移った。
生息するモンスターに関する調査報告。
種別、出現エリア、行動パターン、推定強度。日和の几帳面な筆跡で、表組にまとめられている。過去の調査隊の資料で「未確認・推定」とされていた個体について、種別と推定強度の欄も埋めて提出した。
更に、もう一枚。
トラップと地形の脅威リスト。
過去の調査隊の撤退の原因となった要素を、ほぼ全部、特定して並べてある。位置、種別、推定の作動条件、回避ルートの注釈——脇には、現場で気づいた追加の脅威も、いくつか書き足されていた。
それで終わりではなく、もう一枚。
最深部までの、推定ルート。
今日は手前で撤収したが、次回挑む場合の最適経路まで、輪郭で書かれている。所要時間の推定、想定戦闘の段取り、必要装備の追加メモまでが、控えめな筆跡で添えられていた。
報告会は、その後、もう少しの時間を要した。
白衣の職員が、二人の持ち帰った魔石について、いくつか確認を入れた。日和は、それに、自分の側の採取記録を見ながら丁寧に答えた。透はその間、地図の方の細目について、補足的な質問を受けた。
質問と回答が、いくつか卓上を行き来した。
その全部が終わって、最後に、職員たちが、両手を膝の上で揃え、深く頭を下げた。
「本日は、本当に、ありがとうございました」
「いえ」
「正式な報告書の整理と報酬に関する計算は、こちらでやります。お二人は、まずはお休みください」
「では、お願いします」
透は、短く頷いた。
日和も、隣で丁寧に頭を下げた。
外はもう、夕暮れに近かった。
***
帰りの車。日和は後部座席の窓側に、軽く身を寄せて座っていた。反対側の窓際には、透。
車内の空気は、静かだった。仕事が無事に終わった、という落ち着きが、二人の間にあった。
運転席との間には、簡易な仕切り。外の風の音と、舗装に変わった路面のタイヤの音だけが、薄く流れている。
日和は、窓の外を眺めていた。
眺めながら、内側で、ゆっくりと、ここまでの一日を、もう一度、巻き戻している。
職員の人たち、本当に、驚いていた。先ほどの報告会で、持ち帰った魔石に興味津々で身を乗り出した白衣の女性たち。「本当に、新人ですか」と聞いてきた男。「過去の全調査の総合計を、超えています」と絞り出すように言った職員。
全員、本気で驚いていた。
その驚きの正体は——透さんが単独で凄いから、ではなく、「二人で」やったことの結果、だった。
自分たちのコンビネーションが、これだけの結果を生んだ。
窓の外の樹々が、青みを一段、深めた。
日和は、ふっと、軽く息を吐いた。
ちらりと、隣の透の横顔を、視界の端に入れる。
透は、いつもの穏やかな横顔で、窓の外を眺めていた。
日和は、視線を、もう一度、自分の膝のあたりへ戻した。
戻しながら、ぽつりと、声に出した。
「透さん」
「ん?」
「また、こうやって一緒に、ダンジョンに行ってもいいですか?」
透は、半秒だけ、考えてから、軽く答えた。
「もちろん。今日は、俺も楽しかった」
その答えを聞いて、日和の口元が緩んだ。
「よかった」
短く、それだけ返す。
「次は、もっと、上手くやります」
透は、隣で笑顔を浮かべた。
軽く首を傾けて、こちらに視線を半分だけ寄越して、それから、いつもの音量で返した。
「——今日も、十分、上手かったよ」
「それでも、もっと」
「うん」
「もっと、上手くなれるように」
日和の声は、自分で意識していたよりも、少しだけ、まっすぐだった。
透は、軽く頷いて、また、窓の外へ視線を戻した。
車内に、再び穏やかな沈黙が流れた。
タイヤの音と、窓の向こうの樹々の影と、二人の呼吸の音だけが、薄く重なる時間。
二人の約束は、果たされた。
けれど、それは、今日で終わる種類のものではなかった。
果たされた約束の上に、これから新しい時間が増えていく。今日得た感触は、その始まりの一歩だった。
夕暮れの紫が、車窓の縁をゆっくりと、深い色に染めていった。




