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第66話 結婚式

「凪原様、お時間でございます。準備は、よろしいでしょうか」


 控え室の扉の向こうから、若い男性スタッフの丁寧な声が掛かった。


「はい」


 透は、短く返事をした。扉の前で、もう一度だけ姿見の中の自分を、ちらりと振り返る。


 タキシード姿の見慣れない自分が、こちらを見ていた。


 扉が開く。スタッフに導かれて、廊下へと足を踏み出した。控え室の外の廊下には、朝の光がまっすぐに差し込んでいる。


 別の若いスタッフが、透の側へ改めて寄ってきた。


「凪原様、改めまして、本日の進行を、簡単に確認させてくださいませ」


「はい、よろしくお願いします」


 スタッフは、手元のクリップボードを開いて、丁寧に項目を読み上げていった。


 新郎控え室から、新婦との顔合わせの段取りへ。式の直前に所定の場所で、短く、二人だけで立ち会う時間が用意されていること。


 それから、挙式会場への入場。誓いの場面、指輪の交換を行ってから退場、披露宴会場への移動——スタッフの説明は淡々と、それでいて一切の漏れがなかった。


 事前に一度説明は受けていたけれど、改めて透は、その一つひとつをしっかり頭に入れて、頷いていく。


「——以上が、本日の主な流れになります。何かご質問はございますか」


「いえ、大丈夫です」


 透は、短く返した。


「では、こちらへどうぞ。ファーストミート、この部屋の中で行ってもらいます」


 スタッフが、両開きの扉を丁寧に開いて、その中を示した。


 透は、軽く頷いて部屋の中に入る。


 絨毯の上の足音は、ほとんど立たない。靴は、これも今日のために誂えた、新しい一足。少しだけ硬い感触が、足の裏から、控えめに伝わってくる。


 廊下の突き当たりの窓から、白みかけた光が、静かに差し込んでいた。


「お時間になりましたら、奥のお部屋から、準備を済ませた新婦様がいらっしゃいます。凪原様は、こちらでお待ちいただけますでしょうか」


「わかりました」


 スタッフは、もう一度、丁寧に頭を下げてから、廊下の先へ戻っていった。


 透は、その背中を見送った。


 見送ってから、視線を、目の前の場所へ戻した。指示された通り、待機しておく。


 少しだけ広く取られた、控室。


 左右の壁際には、控えめな生花のスタンドが、対で置かれている。床には足音を吸う厚めの絨毯。天井からの照明は少し落とされているが、大きな窓から朝の光が入っているおかげで、自然の明るさがあった。


 窓の向こうには、中庭が見えている。


 手入れされた植え込みと、低い樹の枝が、朝の光に、葉先を光らせていた。


 奥にあるのは、白い、塗装の落ち着いた両開きの扉。


 手前には、ごく簡素な、けれど丁寧に整えられた、白い花のアーチが、低く渡してある。


 その奥の扉の向こうで、ごく控えめな衣擦れの音がした。


 続いて、足音が聞こえてくる。


 介添えのスタッフが、新婦の歩みを支えながら扉の前まで、案内してきているのだろう——透の気配察知と聴覚は、足音だけで、それを正しく認識した。


 扉の向こうで、足音が止まった。


 短い、ささやくような声のやり取りが薄く聞こえる。


 それから、扉に、軽く手が掛かる音。


 透は、姿勢を正した。


 扉が、ゆっくりと開いていく。


 扉の縁から、控えめに淡い白の生地の裾が滑り出してきた。


 絨毯の上を、滑るように広がっていく。


 透の視線は、その裾から、上へ上へと追っていった。


 絹のような滑らかな純白の生地。胸元から腰にかけての控えめな、けれども確かな曲線。肩のあたりで、生地がもう一段、繊細な織り模様に切り替わっていく。鎖骨のラインには、ごく細い、上品なレースの縁取り。


 その上に、首筋から肩、肩から腕の輪郭。


 そして、顔。


 ヴェールが、その顔の輪郭を、柔らかく覆っていた。


 髪は後ろで、丁寧に編み上げて、上の方でまとめて、その上にヴェールの留め具が、控えめに乗っている。耳元には、ごく小さな白い花を模した飾り。


 ヴェールの向こうから、日和がこちらを見た。


 介添えのスタッフが、ヴェールの位置を最後にもう一度だけ、丁寧に整え直して、それから、静かに半歩、下がる。


 日和が、その動作と一緒にこちら側へ、ほんの少し近づいてきた。


 絨毯の上を、滑るように進む。


 ドレスの裾が、彼女の動きに合わせて、淡い波のように、後ろへ続いていく。


 透の視界の中で、白い色と、朝の光と、彼女の輪郭が、ひとつに重なった。


 ——……綺麗だ。


 その一言が、自分の中の何かを、大きく揺れ動かしていた。


 ヴェールは薄い、けれどしっかりとした織りのもの。


 顔の輪郭を、はっきり見えるくらいの透け方で、けれど、その上にもう一枚、柔らかい光の膜を重ねるように、覆っている。


 いつもの日和の面影を、ちゃんと残しながら、けれど初めて見る彼女の姿だった。


 その目元は、嬉しそうに微笑んでいる。


 いつもの、日和の目元だった。


 透も、一歩踏み出した。


 ゆっくりと、部屋の中央へ。


 手を伸ばせば届きそうな、けれどまだ、少しだけ距離のある立ち位置で、二人は、自然に足を止めた。


 日和の髪に乗せられた小さな花飾りも、近くで見ると、本物の花のような瑞々しさを残していた。


 日和の頬は、いつもより、ほんの少しだけ紅潮しているように見える。化粧のせいではない、彼女自身が発する感情の温度のせい。


 透の喉の奥で、ようやく声が形になった。


「——綺麗だよ、日和」


 透の、心から出た言葉。


 短かったが、それで、十分だった。


 日和の目元が、ヴェールの向こうで、ふっと緩んだ。


「……っ」


 日和は、一度、声を詰まらせた。感極まったような、それでいて溢れそうな喜びを含んだ声を、なんとか整え直す。


「——ありがとう、ございます」


 ささやくような、けれど、ちゃんと、こちらの胸まで届く声で、返してきた。


 それから、もう一拍だけ間を置いて、彼女も透に言葉を投げる。


「透さんも、かっこいいです」


「ありがとう」


 口元を緩ませながら、感謝の言葉を短く返す。それからもう一度、彼女の顔を見た。


 しばらく二人は、ただ、向かい合っていた。視界に入る美しい景色を、大切な記憶として焼き付けるように。


 介添えのスタッフが、邪魔をしない位置で、静かに二人を見守っている。


 窓の外の朝の光は、もう一段、白に近い色になっていた。


 そこへ、控えめな声が、横から差し込まれた。


「——お二人とも、本当に素敵です。少しだけ、こちらでお写真を撮らせていただいてもよろしいでしょうか」


 部屋の隅で、いつのまにか機材を構えていたカメラマンが、にこやかに声を掛けてきた。脇には、補助のスタッフがもう一人。手元には、白い小さなブーケが用意されている。


 日和が、ほんの少しだけ、透の方を見る。透は、軽く頷き返した。


「お願いします」


 日和の返事に、カメラマンが嬉しそうに頷いて、スタッフが、すっと近づいてきた。


「では、まずはお二人並んで、正面を向いていただけますか」


 言われるままに、透と日和は、半歩、距離を詰めて、正面を向く。


 その間に、補助のスタッフが、日和のドレスの裾を、丁寧に、丁寧に、整えていった。膝立ちになって、生地の流れを、絨毯の上に綺麗な弧を描くように広げ直す。ヴェールの裾も、後ろへ均等に流して、左右のバランスを、指先で細かく直す。


「もう少し、寄っていただけますか。——はい、そのくらいで」


 カメラのシャッターが、軽く、何度か切られた。


「ありがとうございます。次は、お顔を見合わせる形で」


 透は、半身だけ、日和の方へ向き直した。日和も、こちらへ顔を向けてくる。


 至近距離。


 ヴェール越しに、彼女の目元が、ふっと笑った。


 透も、つられて、ほんの一段、口元を緩める。


「いいですね、そのお顔のままで」


 シャッターが、続けて切られていく。


「次は、手を重ねていただいてもよろしいですか。新郎様が、新婦様の手を、そっと包む形で」


 透は、日和の左手を、自分の両手の中に包んだ。指輪はまだ嵌まっていない、化粧の上だけは整えられた、彼女の手。


「もう少しだけ、お手元をこちらへ。はい、そのままで」


 カシャ、カシャ、と、軽い音が、何度か続く。


 間に、補助のスタッフが、また日和のドレスの裾を整え直す。一度動くたびに、生地が、わずかに乱れる。それを、毎回、ほとんど祈るような丁寧さで、直していく。


「次に、ブーケをお持ちいただきます。新婦様、こちらをどうぞ」


 差し出された白いブーケを、日和が、両手で、そっと受け取った。


 白い花を中心にまとめた、小さくて品の良い一束。彼女の胸の前に、淡く、収まる。


「新郎様は、新婦様の少し後ろから、肩を、軽く支える形で。はい、そうです」


 透は、日和の左肩のすぐ後ろに、てのひらを添えた。触れるか触れないかの加減。それでも、ヴェール越しに、彼女の体温が、ほんのり伝わってくる。


「目線は、カメラの方へ。ありがとうございます」


 シャッター音が、また、続く。


「次は、新郎様にエスコートしていただく形で、少しだけ歩いていただけますか」


 透は、日和の左手を、自分の腕に取った。


 日和が、ごく自然に、彼の肘の内側に、てのひらを添えてくる。慣れない動きのはずなのに、その仕草には、迷いがなかった。


 二人で絨毯の上を、半歩、また半歩。


 歩くたびに、ドレスの裾が、後ろへ滑っていく。


 補助のスタッフが、息を合わせるように、横から、しゃがんで裾を直し、ヴェールを流し直し、また半歩離れて、二人を見送る。


「素敵です。もう一度、こちらを向いていただけますか」


 その繰り返し。


 最後に、カメラマンが、もう一段、声を柔らかくして、


「ヴェールを、少しだけ整えさせていただいてもよろしいでしょうか」


 補助のスタッフが、日和の前に、そっと立つ。手袋越しに、ヴェールの縁を、ごく軽く持ち上げて、肩の位置を直し、頭の留め具のあたりを、指先で、確かめるように整えていく。


 日和は、その間、ほとんど呼吸を止めるようにして、じっとしていた。


 整え直されたヴェールが、もう一度、ふわりと、彼女の輪郭を包む。


「——はい、完璧です」


 最後に、もう一度だけ、シャッターが、切られた。


 控えめだけれど、確かな、その一枚。


 たぶん、この一枚が、いつか額に入って、二人の家のどこかに飾られることになるのだろう。透は、ふと、そんなことを思った。


「お疲れさまでした。本当に、ありがとうございます」


 カメラマンが、丁寧に頭を下げ、補助のスタッフと一緒に、控えめに、半歩下がる。


 日和は、ふう、と、小さく息を吐いた。


 透も、つられて、ほんの少しだけ、肩の力を抜く。


 窓の外の朝の光は、その間に、もう一段、白に近い色へと進んでいた。


「——それでは、お時間でございます。挙式会場の方へ、ご案内させていただきますね」


 申し訳なさそうに、スタッフが口を挟む。予定の時間があるから仕方のないこと。


「凪原様には、先にこちらへ。朝倉様は——別のスタッフがご案内させていただきます」


 別の方向から、もう一人の介添えスタッフが日和の方へ寄ってきた。


 予定では、日和は母親と一緒に入場することになっていた。


 父親が交通事故で亡くなってから、母一人子一人で歩いてきた二人。その母と、最後に手を繋いで歩きたい。日和のその希望に、透もすぐに頷いた。そうあるべきだと、迷いはなかった。


 日和と一旦別れてから、透はスタッフに案内され、白い花のアーチを抜けて、挙式会場へ続く廊下を進んだ。



***



 挙式会場の扉が開いた。


 奥行きの浅い、けれど天井の高い、明るい部屋だった。


 正面には、低い段が一段あり、その上に、淡い花をあしらった簡素なアーチと、司式者の立つ位置を示す台。左右にそれぞれ数列ずつ、参列者のための椅子。床は、入口から正面まで、白い布が、まっすぐに敷かれている。


 二人が選んだ「身内と大切な人だけ」を招待するための、ちょうど良い大きさの、人前式の会場。


 透が先に扉をくぐり、段の前の位置に立つと、すでに着席していた参列者の何人かが気づいて、こちらへ視線を向けた。


 一人、また一人と、視線が集まってくる。


 透は両親の方を、ちらりと確かめた。


 父親は、いつも通りの濃紺のスーツ姿で、まっすぐにこちらを見ていた。


 その隣で、母親が、すでに目元にハンカチを当てている。それでも目線だけは、こちらから外していない。誇らしさと、感慨と、それを抑えようとして抑えきれない感情が、その目元に滲んでいた。


 日和のパーティーメンバーの方へ、視線を移す。


 透も、学校で指導を行ったことで面識がある彼ら。東郷、神崎、伊吹の並び。男子三人は、揃って、慣れていない感じのスーツに身を包んでいる。とくに伊吹は、ネクタイの結び方を、明らかに他の誰かに直してもらった跡があり、慣れていない様子。それでも本人は、わりと堂々としていた。


 その横に、美月。落ち着いた色のワンピース姿で、ごく短く、口元を、緩めていた。


 その隣に、すずな。少し緊張気味に、けれど目はしっかりとこちらに向けて、両手を膝の上で、きちんと組んでいる。


 後列に、渡辺。仕事での付き合いが多くなった彼も招待していた。いつもよりもう一段、丁寧に整えられたスーツを着ていて、姿勢を正している。


 さらに奥、窓際の席に藤林。透が初めて探索士の協会でパーティーを組んだときに親しくなった彼が、膝の上に両手を軽く置いて、こちらをゆったりと眺めていた。


 ほかにも、アパートの住人を代表して来てくれた何人か。地方を巡業したときに親しくなった探索士たち、日和の学校の後輩だという顔も、数名見える。


 それぞれの席で、それぞれの形で、こちらを見守ってくれている。


 数年前まで、一人で生きていこうと考えていた自分。今では、信じられないような関係を、これだけの人と築けていた。


 会場の空気が、少しずつ静まっていく。


 参列者が揃って着席し、会場の照明が、ほんの一段だけ落とされた。


 司式者が前に立ち、軽く礼をする。


 いよいよ始まる。会場全体の緊張と期待が、ほんのわずかに形を変えた。


 会場の奥から、ごく控えめな、けれど澄んだ楽器の音が流れ始めた。


 参列者が、一斉に、入口の方へ、振り返る。


 司式者が「ご起立ください」と声を掛け、それに従って、参列者たちが一斉に立ち上がる。入口の方へ、皆が振り返った。


 扉が、ゆっくりと開いていく。



***



 日和が、いた。


 純白のドレス。ヴェールが、顔の輪郭を柔らかく覆っている。会場中の視線が、その姿に吸い寄せられた。


 その横に立つ陽子の姿も見える。


 二人は、手を繋いでいた。


 陽子の手と、日和の手が、白い生地の脇で絡み合っている。


 母娘が並んで、白い布の上を、こちらへ歩いてくる。


 会場が、しんと静まった。


 参列者の誰もが、その光景を、ただ見守っていた。


 陽子の目元が、歩くたびに滲んでいく。それでも、視線を前へ、まっすぐに向け続けている。母親としての姿勢を、最後まで保とうとしている、その強い意志が、見ているこちらにまで伝わってきた。


 日和は、陽子の歩みに合わせながら、こちらへ近づいてくる。


 ヴェールの向こうの真剣な表情が、透の姿を捉えた瞬間、ほんの少しだけ緩んだ。


 白い布の上を、一歩、また一歩。


 陽子が、足を止めた。


 日和も、一緒に止まる。


 陽子は、繋いでいた手を、そっと離した。日和の手が、ゆっくりと、透の方へ差し出される。


 透は、その手を、そっと受け取った。日和の指先の温度が、てのひらに、静かに、伝わってきた。


 その姿を見届けた陽子が、下がった。


 それから、自分の席の方へ向かった。


 二人になった透と日和。ヴェールの向こうの目元が、うっすらと潤んでいる。けれど、いつもの日和の冷静な目も、ちゃんとあった。


 透は、ごく短く、口元を一段だけ緩めた。日和の目尻も、それに、ほんの少し応える。


 会場の空気が、一段と静まる。式は、いよいよメインへ。



***



 司式者が姿勢を正し、こちらへ一度、視線を向けた。


「——新郎、透さん」


 名前を呼ばれた。


 透は、頷いた。


「あなたは、本日ここに、新婦である日和さんを妻とし、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、その生涯にわたって、共に歩み、支え、慈しむことを——」


 司式者の声が、丁寧に節を踏んで進んでいく。


 丁寧な言葉のひとつひとつが、透の中に、順番に入り込んでくる。


「——誓いますか?」


 最後の一語が、置かれた。


 透は間を置かず、はっきりと答える。


「誓います」


 司式者はその答えを確認し、深く一度頷いてから、視線を隣へ移した。


「——新婦、日和さん」


「はい」


 日和の返事は、いつもの彼女の温度のまま、まっすぐに返った。


「あなたは、本日ここに、新郎である透さんを夫とし、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、その生涯にわたって、共に歩み、支え、慈しむことを——」


 司式者の声が、もう一度、同じ節で、ゆっくりと進む。


 日和の横顔は、ヴェール越しに、まっすぐ司式者の方を見ていた。


 その横顔に、透は視界の端だけで目を留めた。


「——誓いますか?」


 同じく日和も、力強く返事する。


「誓います」


 続けて、指輪の交換へと進行していく。


 介添えのスタッフが、小さなクッションに乗せた、銀色の対の指輪を、丁寧に運んできた。


 日和の方を向く。


 日和も、こちらを向いた。


 ヴェールの向こうの目元と、しっかりと視線が交わった。


 透は、クッションから、小さい方の指輪を取った。


 日和が、素手となった左手を、こちらへ差し出してくる。


 白い手袋は、すでに、介添えのスタッフが左手だけ外してくれていた。


 細い指。


 訓練で、剣を握り続けてきた指でもある。


 その薬指に、透は指輪を滑らせた。


 指輪は、迷いなく、根元まで収まった。


 次に日和が、大きい方の指輪を取る。


 透も、左手を彼女の前に差し出した。


 彼女は、透の薬指に、指輪を通した。


 お互いの指輪を通し終わった瞬間、日和は、もう一度、ヴェールの向こうから、こちらを見上げてきた。


 透は、その目を真っ直ぐに見つめて、頷きを返した。


 やがて司式者が、最後の節へと進む。


「——では、誓いの口づけを」


 透は、日和のヴェールを指先で摘む。


 そしてヴェールが丁寧に、彼女の額の方へ、めくり上げられていく。


 その下から、日和の素の顔が、はっきりと現れた。


 唇は、薄く、引き結ばれている。


 その表情で、彼女は、まっすぐにこちらを見ていた。


 透は、半歩、前に出る。


 日和も、ほんの少しだけ、こちらへ顎を上げた。


 短く、控えめに。奥ゆかしい仕草で。


 透は上体を傾けて、軽く唇を寄せた。


 触れ合う唇。その一瞬の中に、彼女の体温の柔らかさだけが、薄く伝わってくる。


 離れる。


 会場の空気が、ほんの少しだけ、暖かくなった気がした。


 日和の頬の温度が、もう一段上がっているのが、近距離で、はっきりと見えた。


 彼女は、ヴェールが上がったままの状態で、こちらを見ていた。


 ただ、その目元だけで、ありがとう、と、確かに伝えてくる。


 透も、目元だけで、それを受け取った。


 二人は、改めて、参列者の方へ身体を向け直した。


 司式者が、両手を、軽く広げる。


 会場全体に向けて、声を響かせた。


「——只今をもちまして、お二人は、夫婦となられました。皆様、どうぞ、お二人の門出に、お祝いの拍手を」


 最後の一語が、響き終わるのを待たずに、会場が一斉に拍手で包まれた。


 大きすぎず、けれど、暖かい拍手だった。


 新婦側の最前列の席で、陽子は、もう完全に泣いていた。


 ハンカチを目元に強く押し当てながら、肩を、小刻みに震わせている。


 新郎側の最前列では、透の母親が、同じく嬉しそうに涙を流していた。


 その隣で、父親が、無言で、自分のハンカチを、母親の方へ、ふっと差し出す。


 パーティーメンバーの方は。


 美月が、ごく静かに微笑んでいた。拍手の音は、彼女の方からも、確かに響いている。


 その隣で、伊吹が、なぜか、ほかの誰よりも、一段大きく、両手を打っていた。


 神崎が、その隣で、半ば呆れたような視線を伊吹にちらりと送る。けれども、神崎自身も腕を組んで、深く何度か頷いていた。


 東郷は、東郷らしく穏やかに、ただ、こちらを見守っていた。


 すずなは、目尻を、すっと、細めて、ごく小さく、何度も頷いている。とても嬉しそうに。


 もう一段、後ろの席。


 渡辺は、深く、何度か、頷いていた。


 拍手をしながら、けれど、視線はこちらから、ほとんど離さない。何か、こみ上げてきたものを、業務上の関係を超えた態度で、喜んでくれている。


 窓際の席の藤林も同じように。そして、その他のみんなも、それぞれの形で祝福してくれている。


 ——変わったから、こんなにも豊かなものを得られたのだろう。


 透は、そう思う。


 この幸せを失わないように、これからも大切に生きていきたい。日和との時間はもちろん、ここに集まってくれた人たちとの関係も、ずっと大事にしていこう——透は静かに、心の中で、そう誓った。

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