第63話 卒業式の朝※日和視点
目を覚ました瞬間から、今日はいつもの朝とは少しだけ空気が違う気がした。
カーテンの隙間から差し込む光は、まだ淡い。窓の外は、ようやく薄明るくなり始めたところだった。アラームが鳴る前に止めた、枕元に置いてある目覚ましで時間を確認してから、日和はしばらく天井を眺めていた。
そう、今日は卒業式だ。
三年間、探索士の資格を取得するために通った学校。
日和の人生の中で三年という月日は数字で見ると長いけれど、実感としては短い。振り返るとあっという間だった。初めて校門をくぐった春の朝、初めて仲間と組んで挑戦したダンジョン、その危機に駆けつけてくれた謎の人物、実は普通の管理人さんだと思っていた透の本当の正体を教えてもらった日——他にも、色々あった。
ベッドから降りて、寝間着のまま部屋を出る。すると、キッチンから味噌の匂いが漂ってきた。
「おはよう、お母さん」
「あら、もう起きてたの。早いわね」
キッチンに立っていた陽子が、振り返って微笑む。
「今日は、ご飯の量、多くしておいたからね」
「うん、ありがとう」
「忙しくなりそうだから、ちゃんと食べていきなさい」
「わかった」
日和は素直に頷きながら、キッチンの端へ目をやる。
ガス台の横、卵焼き器の脇、まな板の向こう。陽子の動線のあちこちに、小皿や調味料の瓶が、必要以上にきれいに整列していた。
日和は洗面台に移動すると顔を洗って、髪を整えてから、自室に戻る。
ハンガーに掛けたままの制服が、静かに揺れていた。今日でこれも、着納めということになるのだろう。
ブラウスのボタンを留めながら、日和は短く息を整えた。スカートを履いて、リボンを軽く結ぶ。鏡の前で姿勢を直す。袖口を引っ張る癖は、入学当初からのものだ。指がそれを覚えている。
着替えを終えて居間へ戻ると、食卓には既に朝食が並んでいた。
白米、味噌汁、卵焼き、焼鮭、ほうれん草の和え物、小鉢に切られた漬物。日常の朝食より明らかに品数が多い。
「いただきます」
日和は箸を伸ばした。
いつもより少しだけ濃いめの出汁が、寝起きの胃にゆっくり染みていく。卵焼きは焼き加減が完璧で、焼鮭はちゃんと熱が通っていて、和え物の塩加減も日和の好きな薄味だった。気合の入った献立——そう感じる。一品一品が、いつもより丁寧に作られている。
「美味しい」
「そう?」
「うん。卵焼き、美味しい」
食卓を挟んで、二人で食事を続ける。
会話は、ぽつぽつとしか続かない。気まずい雰囲気ではなく、自然な感じで食事が進んだ。何か、特別なことを言い合うような朝ではなかった。
代わりに、陽子は何度も時計に目をやった。
壁掛けの時計、テーブルに置いたスマートフォン、それから、台所の換気扇の上に置いてある小型の置時計。三つを順番に確認して、それから「まだ余裕あるわね」と一人で頷く。数分ほど経つと、また同じ順番で時計を確認している。とにかく遅刻はしないように、という気遣いがあった。
日和は食事を終えて、食器を流しへ運ぶ。洗おうとした日和の手を、陽子がやんわりと止めた。
「いいから、いいから。今日は私がやるから」
「でも」
「いいの。日和は卒業式に向けて、準備しなさい」
「わかった。じゃあ、任せるね」
昨晩のうちに用意していた鞄を肩に提げて居間へ戻ると、陽子はエプロンを外していた。手を腰の前で組んで、玄関の方を一度見て、それから日和の方を見て——その瞬間、ふと、視線が止まった。
ほんの一拍。感慨深そうに、日和の制服姿を目に焼き付けるように見ていた。
「じゃあ、行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
いつもの朝のやり取り。
「式には間に合うように行くからね」
「うん。また、あとで」
***
玄関の扉を開けると、春先の空気が、冷たくも温くもない温度で頬に触れた。外廊下の手すりが朝の光を受けて、ほんの少しだけ白く光っている。
日和は一度、深く息を吸い込んだ。胃の底にまで朝の空気が届く感覚で、今日へと意識が切り替わっていく。
それから顔を上げて、いつもの癖で管理人室の方を見る。
扉は、閉まっていた。部屋の中にも、いつもの気配はない。
今朝、透はいない。先に行っているようだ。
昨夜届いたメッセージを、日和は頭の中で短く反芻した。
——来賓の集合時間が早いから、先に学校に行ってる。式で会おう。
短い文面。いつもの透らしい簡潔さ。
来賓、か。
日和は階段を下りて、閉ざされた管理人室の扉を一度だけ振り返る。
アパートの管理人さんや、指導してくれる「師匠」じゃなくて。探索士の凪原透として、あの人が学校の卒業式に参加してくれる。
式場で会える。
日和は、管理人室の扉から目を戻した。
アパートの敷地を出て、いつもの通学路へ足を向ける。三年間、ほぼ毎日通った道。
今日が、最後の通学になるのだろう。
声には出さず、内側でそう確かめてみる。明日から、この時刻にこの道を歩く理由はもうない。別の用事で歩くことはあるかもしれないけれど、学校へ行くという意味では、今日が最後となる。
なんだか、不思議な気分だった。
***
学校に近づいてくると、空気が一段変わった。
車の音、信号機の電子音、行き交う人の足音、朝の街のざわめきが、明らかにいつもより大きい。卒業式の朝だから、というだけでもなさそうだった。普段の通勤客や通学客に紛れて、見慣れない服装の大人たちがいる。
スーツ、和装、きちんとしたコート、そういう装いの人たちが、いつもよりずっと多く校門前に集まっている。
日和も、その流れに混じって歩く。
次の角を曲がれば、もう校門の手前の坂が見えるはず。坂の上に、見慣れた校舎の屋根が見えてくるだろう。
歩を進めるうちに、人の密度がもう一段上がる。卒業生らしい同世代の姿。後輩らしい少し若い顔。保護者らしい大人たち。
日和は、目を細めた。
校門の方向に人の塊が、明らかにいつもと違う形で出来上がっていた。在校生、保護者、卒業生だけの人だかりではない。
マイクに、カメラの脚。肩から提げた大型のテレビカメラ。三脚に据えられた業務用機材。ハンドマイクを構えたレポーターたちに、首から下げた一眼レフを胸の前に抱えた新聞記者。腕に報道と書かれた腕章。ロゴ入りの中継車が、校門から少し離れた路肩に何台か停まっている。
それ自体は、別に初めて見る光景ではなかった。
去年も、一昨年も、卒業式の朝には同じような顔ぶれが校門前に陣取っていた。
探索士の資格を取得し、晴れて正式デビューする日。探索士という職業そのものが世間の注目を集めるものである以上、その瞬間をカメラに収めようとメディアが集まってくるのは、この学校の卒業式における、ちょっとした恒例行事のようなものだった。
だが、今年は明らかに違う。
ぱっと見ただけでも、十は超えていそうだ。マイクの色、社のロゴ、レポーターの服装。どれも違う。同業の取材合戦になっているらしく、入口寄りの良い位置を巡って、互いに微妙に肩を入れ合っているのまで見える。例年であれば、せいぜい数社が控えめに立っている程度。今日のこの密度は、もう完全に別物だった。
校門前は、もはや、ほぼメディア取材会場の様相だった。
たぶん、自分たちが話題になっているから。
少し前に、担任から事務的な伝達を受けていた。日和たちのパーティーへの取材申込みが各社から殺到していて、卒業式が終わったあと、学校が用意した場でまとめて対応してもらう——という段取りらしい。朝の段階で校門前に捕まらないように、と、ご丁寧な注意まで添えられていた。もし捕まったら、卒業式が始まる時間ギリギリまで離してもらえないかもしれないから、と。
確かにアレは、見つかると面倒そう。
日和は前を見たまま、歩幅を一定に保った。
この距離なら、まだ気づかれていないだろう。
レポーターたちの注意は、すでに校門を通る生徒たちに向いている。校門の内側、関係者誘導の動線の手前あたり。そこで何組かが軽い質問を受けている。マイクを向けられて、戸惑い気味の卒業生もいれば、満更でもなさそうに答えている卒業生もいる。報道陣の関心は、今のところそちらに集中していて、こちらまでは流れてきていない。
今のうちなら、騒ぎにならずに抜けられる。
日和は短く、呼吸を整えた。
その呼吸の流れに合わせて、自分の中の何かを一段下げる。気配の薄さ。存在感の輪郭。視線を吸い寄せる温度。魔物に悟られないために、訓練で何度も繰り返してきた感覚。透に最初に教わったのは、確か入門の頃だった。気配は、消そうとすると逆に立つ。あるものを薄める、と思え。そう習った。
こんな日常の場面で役立つとは思っていなかった。
通学路で、卒業式の朝、報道陣の前を素通りしていく。
頭のどこかで小さく苦笑しつつ、日和は身体の方は静かに調整を続ける。
視線を引かない歩幅。
注意を集めない呼吸。
誰も振り返らない。
誰の視線も、止まらない。
よし。捕まらずに済んだ、かな。
校内に入って、もう数歩進んだところで、ようやく呼吸の調整を解いた。気配の薄さを普段通りに戻す。普通の卒業生としての存在感に。
ほっと、息を吐く。
教室に入ると、日和の姿に最初に気づいたのは、美月だった。
「あ、日和——!」
その声で、他の四人も振り返る。
伊吹が手をひと振り上げて、神崎が顎を引くようにして、東郷が穏やかに頷いて、すずなが小さくお辞儀をして——五人が五人とも、ほっとしたような、嬉しそうな、ちょっと安心したような顔をした。日和も、彼らの姿を見て自然と自分の頬が緩むのを感じる。
歩み寄ると、美月が真っ先に近くまで来た。
「日和、おはよう! もう、すごい人だね、外」
「うん、おはよう。びっくりした、本当に」
「ね。私も校門の前で一回足止まっちゃった。気づかれないように気配を消して、通り抜けたけど」
美月は苦笑しながら、窓の外の方を一度振り返る。校内からでも、報道陣のざわめきは、遠い背景音として聞こえてくる。
彼女もまた、これまで鍛えてきた気配制御をしれっと応用して、切り抜けたらしい。
すぐ後ろから、神崎が一歩前に出た。手元のスマートフォンに何か視線を落として、それから、相変わらず温度の低い声で短く言う。
「事前の情報では、十社程度と聞いていたが」
神崎はそこで一拍、視線を上げる。視線の先に窓、その外に集まっている報道陣を見ながら言った。
「実際は、倍近く集まっているぞ」
「倍かぁ」
「ロゴで確認できた範囲で十七社。確認しきれなかった分を含めれば、二十に届く可能性もある」
その隣で、伊吹が見てきた情報を披露する。
「俺、最初通るとき、軽くインタビューされそうになった」
「お前、勝手に喋るなよ。面倒になるから」
東郷が即座に被せた。落ち着いた、しかし有無を言わせない声音。チームの司令塔として、伊吹のうっかり発言を未然に抑え込みにかかる動きが完全に板についている。
「いや、答えてないって。マイク向けられて、にっこりして通過した」
「笑顔か。写真、撮られてるな」
「それも駄目?」
「記事に使われるかもな」
伊吹の口調はニッコリ顔のわりに不満そうだった。神崎が、そんな伊吹を横目で見て、感情を一切混ぜずに付け足した一言が、それである。
日和は、ぐるりと校門の方を一度見やる。
その向こうにはまだ報道陣の塊があって、別の卒業生が立ち止まって何か答えている様子も見える。たぶん、式の前と後で、何度かまた波が来る。今日の長い一日が、これからまだ続いていく。
それから、日和は、もう一方へ意識が吸い寄せられた。体育館の側。来賓席のある建物の方。
窓越しには中の様子は見えない。けれど、もう来賓の入場は始まっている時刻のはずだった。透は、もうあの中のどこかにいるのかな。
スーツ姿、見られるかな。式で会えるのが楽しみだ。
ちらりと視線をそちらに向けたまま、しばらく動かないでいると、隣で美月が、ふっと笑った気配がした。日和は慌てて視線を戻す。
「ん? 何?」
「ううん、別に」
美月の目は、明らかに何かを察していた。
日和は、わざとらしく咳払いをした。




