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第62話 二人のこれからの話

「お疲れさま」


「お疲れさまでした!」


 いつもの訓練場。透が特訓の終わりを告げると、日和の返事に、軽い張りがあった。納得のいく動きができた日の声色だ。


 休憩スペースに移ると、日和が慣れた手つきで茶を淹れてくれた。湯気が、訓練場のひんやりした空気の中で、ゆっくりと立ち上る。


「どうぞ」


「ありがとう」


 日和が、終盤の打ち合いを振り返って、「あの場面、もう半歩、奥まで踏み込めた気がします」と、自分の動きを冷静に評した。透は短く頷きながら、「重心の戻し方が間に合うようになってきたから、もう半歩は可能だったと思う」と返す。


 少し前までは、透が先に指摘していた内容だった。今では、日和の側から、自然に反省点が出てくる。


 それから話題は、するすると別へ移り変わっていった。


 アパートの修繕の話。二階の手すりの塗装が剥げてきていて、来週あたりに業者を入れる予定だと透が言う。


「あ、それ。私も気になっていました」


「そう。ついでに排気の点検もしてもらう」


「いいですね」


 アパートの管理業務として、日々のメンテナンスは欠かしていないつもりだけど、透だけではカバーしきれない、専門家の手助けが必要な部分もある。


 次の話題は、日和の手料理に関して。


 最近、日和は新しい煮物を試したらしい。レシピを少し変えてみたところ、いつもより味の沁み方が穏やかになって、これはこれで悪くないと思った、という報告だった。


「それは、良さそうだ。俺にも作ってくれるか?」


「はい。次の機会に出しますね」


 日和は小さく笑って、嬉しそうに頷いた。


 休日の予定の話も、自然に続いた。来週の日曜は、特に予定が入っていない。映画を観に行ってもいいし、家でゆっくりしてもいい。どちらでも、二人ともそれで構わない、という空気のまま話が進んでいく。


 湯呑みを両手で包んだ日和が、湯気越しに小さく微笑んだ。


 その表情を、透は横目で見ていた。ぽつりとこぼすように、彼女の名前を呼ぶ。


 「日和」


 「はい」


 「そろそろ、ちゃんとあの話をしておこうか」


 日和の表情が、ほんのわずかに止まった。


 止まったのは、戸惑ったからではない。何を話そうとしているのか理解している、という顔だった。二人にとって、とても大事な話。日和は、まっすぐに透を見ている。


「……はい」


 日和は、少し間を開けてから返した。それから、透の言葉を待つ。


 卓の上の湯気が、ゆっくりと、二人のあいだに昇った。


 話し合おうと切り出してみたものの、改めて、どこから話していくべきなのか――透は、内心で少しだけ迷った。順序立てた段取りを用意してきたわけではない。それでも、話すべきことの内容については、ずっと前から考えて準備してきた。


「まず」


 透は、湯呑みの縁に指を当てたまま、口を開いた。


「結婚すること自体は、もう、そういうことで、いいよな」


 言葉にしてしまえば、ずいぶんと、そっけない確認だった。たったそれだけのことが、思っていたよりも重く響いた。もっと気の利いた聞き方があったのかもしれないのだが、透はそう聞いてしまった。


「はい」


 日和は特に気にもせず、まっすぐに頷いた。続けて、言う。


「もちろんです」


「じゃあ、決めるのは、いつと、どんな形でか、だな」


「はい」


 卓を挟んで、二人の視線が噛み合った。剣を交える時の集中とは違う、けれども、それと同じくらい真っ直ぐに視線を合わせる。


「タイミングは、日和の卒業が無事に終わってから、で、いいかな」


 学校を最後まで、ちゃんと修めたい。探索士の資格も、卒業と同じ頃に受け取れる見込みだと、本人の口から聞いている。その二つの段取りが片付いたあとに結婚式を組む――というスケジュールを、透の中では考えていた。


「はい。卒業まで、ちゃんとやり切ってから、その後で」


「うん。そうしようか」


 それから話は、式の内容について深掘りしていく。


 あまり派手な式にはしない。身内と、親しい人だけを招いた、規模の小さい式にする。その代わり、披露宴で出す料理や引き出物は、来てくれた人へきちんと感謝を伝えられるよう、贅沢に整える――そういう方針が、二人の口から、自然と重なって出てきた。


 衣装の話にも、流れた。


 純白のウェディングドレスは、ちゃんと買う。レンタルが多いらしいけれど、ここは金に糸目をつけずに、と透が言った。


 理由は、いくつかある。


 記念として、ちゃんと残しておきたいと思った。


 それに、日和の身体は三年間の訓練でしっかり鍛えられている。肩から背中、脚にかけて、しっかりと鍛えられた筋肉がついている。既製のドレスだと、たぶん、ぴたりとは合わない。どこか余ったり、どこかが窮屈だったりして、不格好に見えてしまうかもしれない。それくらいなら、最初からオーダーメイドで、彼女の身体に合わせて仕立ててもらった方がいい。


 なにより――せっかくの結婚式だ。いちばん綺麗な姿で、美しく着飾っていてほしい。それは、透の中にある、素直な願望だった。


 日和も、湯呑みを両手で包んだまま、こくりと頷いた。それならと続けて、日和側からも提案を口にする。


「もちろん、透さんのタキシードもですよ」


「ん? そっちはレンタルじゃだめか?」


 他に着る機会もなさそうなので、新郎用のタキシードはレンタルでいいかと思っていたけれど、どうやら、それは駄目らしい。


「透さんも、けっこう、身体がガッチリしてますから」


 日和の視線が、ちらりと、透の肩のあたりへ向けられた。


「既製のものだと、たぶん、肩や袖の辺りが合わないと思いますよ。それなら、私と同じで、オーダーメイドの方が」


 言われてみれば、自分の体格も、長年の探索で出来上がった分厚い肩と背中を持っている。スーツのサイズ選びに、いつも少し苦労していたのを、透は思い出した。日和の言うことは、たぶん、正しい。


「それに」


 日和の声色が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「カッコいい姿で、隣に立ってほしいので」


 付け加えられた、それだけの一言。考えていることは同じらしい。


 はっきりそう言われてしまうと、こちらとしても、頷くしかない。


「……分かった。買おうか」


「はい。せっかくなので、ちゃんと、お揃いで」


 日和の表情が、ふっと和らいだ。


 そういう細かい段取りに関しては、日和の方が主導権を握ることが多かった。透は特に文句もなく、彼女の好きなように進めてもらえばいいと思っていた。結婚式は、日和のためにやる――その気持ちが、透の中で強くあったから。


 日和の卒業後の進路についても、改めて話を聞いた。


 卒業後も、仲間とそのままパーティーを組んで、活動を続けていくという。みんなで、ちゃんと話し合って決めたらしい。それなら、と透は安心して話を聞いていた。


 もうひとつ、資格取得のあとに二人でダンジョンへ挑戦する、という話も、改めて話題に上がった。


 「あの話、今も、有効ですか?」


 日和の問いに、透は迷わず頷いた。


 「もちろん」


 日和の口元が、楽しそうに緩んだ。


 日和が探索士を目指してから、三年。過ぎてみればあっという間だったが、人生がいろいろな方向に動いた三年でもあった。


 まさか自分が探索士になるとは思っていなかったし、ここまで成長できるとも思っていなかった――日和がそう言って、師匠との出会いが大きかったと振り返る。透は、日和自身の頑張りの結果だと、短く返した。


 それから、両家への挨拶の予定を詰める方向へ話題が移る。


 予定を確認し合って、なるべく早いうちに、ということで話はまとまった。



***



 予定のない週末は、よく晴れた日になった。


 透は日和を連れて、自分の実家へ戻ってきた。玄関先で並んで立つ。挨拶のための土産は、日和が用意してくれていた。透が着ている服も、日和が選んでくれたものだ。日和自身も、それに合わせる形で、きちんと整えた装いで隣に立っている。


 母親が玄関を開けた瞬間から、その目は、すでに少し潤んでいた。事前に今日の用件は伝えてある。それだけで、もう感極まっているらしい。


 居間に通され、出されたお茶と茶菓子を前に、最初の数分は当たり障りのない近況の話で繋いだ。


 頃合いを見て、透は姿勢を改めた。


 日和と、結婚することにしました。式は、日和の卒業後、タイミングを見て行う予定です。――それだけを、しっかり両親へ伝えた。


「そうか」


「おめでとう!」


 言葉こそ短いが、嬉しそうに口元を緩める父親と、はしゃいで喜ぶ母親。両親の反応は、それぞれらしい温度のものだった。


 その後は、母親が用意していた昼食を、四人で囲んだ。


 話題は、結婚そのものよりも日和の卒業や資格取得のこと、最近の学校での出来事に、自然と移っていった。両親が日和へ向ける質問の数が多めだった。日和は、そのひとつひとつに、丁寧に応じていた。


 長居になりすぎないうちに、と日和が頃合いを見計らって、午後には二人で帰ることにした。


 玄関で、家族と挨拶を交わす。両親が名残惜しそうに、外まで見送りに出てきた。


 日和の側に短く礼を述べたあと、父親が透の肩を、軽く、一度だけ叩いた。


 こうして透の両親への報告は、無事に終わった。


 次は、日和の母親である陽子のところだ。同じアパートに住んでいるから、足を運ぶ手間はほとんどない。それでも、心の準備は必要だった。


 数日後の夕方。その日が空いていると聞いて、透は管理人室を出た。日和は、すでに陽子のもとで待っている。


 チャイムを押すと、内側から聞こえてきたのは、いつもの陽子の足音だった。けれど扉を開けて出迎えに現れた陽子は、普段よりも、わずかに整えた装いをしていた。派手なものではない。普段着のもう一段だけ上の、落ち着いた色合いの服。耳元に、いつもは着けない控えめな飾りが、ひとつだけ揺れていた。


 事前に話があると伝えてあった。陽子の側でも、わざわざ準備をしてくれていたらしい。


「いらっしゃい」


 快く出迎えてくれた陽子の声は、いつもの陽子のそれだった。


 そして日和は、居間の隅で、母と並んでこちらを迎えた。


 透は、卓の前に正座した。陽子は、卓を挟んで向かい側に座る。すすっと、日和が透の隣に移動してきた。


 お茶は、すでに卓の上に用意されていた。最初のひと口に手を伸ばす前に、透は、湯呑みの縁の手前で、姿勢を改めた。


「日和さんと、結婚させてください」


 短く簡潔に、それだけ伝えた。付き合っていることは、これまでにも話してきた。けれど、陽子に向けて透が結婚について口にするのは、今回が初めてだった。


 陽子は、ひと呼吸、しばらく黙っていた。透の表情を、じっと見つめて。


 その一拍の静けさが、透の中では、思っていたよりも、ずいぶん長く感じられた。陽子は、ゆっくりと膝に手を置いて、見つめ続けた。


 透が顔を上げたとき、陽子の目の縁が、わずかに赤くなっていた。


 涙までは、こぼれなかった。でも、我慢するような表情。そしてようやく、陽子が口を開く。


 「よろしくお願いします」


 陽子は静かに、それだけ返した。


 ひと呼吸置いて、もうひとこと。


 「透くんに、お願いします。日和のこと」


 透は、もう一度深く頭を下げた。


 「精一杯、大事にします」


 長い言葉は必要ないと思った。短い一言に、ちゃんと重みを乗せて返す。それが、陽子に対する、いちばん誠実な返し方だろうと考えて。


 日和との結婚を、彼女の母親にも認めてもらえた。


 その後しばらく、日和と陽子の母娘は、結婚式のプランやウェディングドレスについて、楽しそうに語り合っていた。透は、その様子を温かく眺めていた。時折、日和から言葉を向けられて、意見を伝えたりしながら楽しい時間を過ごした。

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