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第60話 帰る場所

 無事に救出を終えた、その翌朝。空気は乾いていた。


 砂漠地帯特有の肌から水分を奪っていく朝の匂い。透は、用意された高級ホテルの一室で一夜を過ごしていた。


 昨夜のうちに、ダンジョンに挑んでいた全員が現地の医療班へ引き渡されている。念のためにマーカス・ヘイルもパーティーの仲間と共に病院併設の宿泊棟へ移った。


 救出はやり切った。連れて戻ってきた。求められていた役割は、過不足なく果たしたはずだった。


 あとは、帰るだけだと思っていたのだが、そう簡単には帰れないらしい。


 渡辺がやって来た。


 昨夜よりはだいぶ落ち着いた様子ではあったが、ジャケットの皺は変わらず深く、目元には疲労が残っている。書類を挟んだクリアファイルを脇に抱え、丁寧な労いの言葉のあと、渡辺はわずかに視線を泳がせた。


「これからしばらく、お時間をいただくことになりそうです」


 続いた説明によれば、何やら、色々とやらなければいけないことがあるらしい。



***



 結論から言えば、一週間ほどアメリカに滞在することになった。モンスターと戦闘するよりも疲れる一週間だった、と総括する程度には密度の高い七日間だった。


 ダンジョン内部で何が起きたのか、透がどのように行動したのかについて、報告書の作成を求められた。現地ダンジョン管理協会とのレビューも行われて、救援動線の検証や戦闘内容の確認、提出した報告書に関する質問が何度も繰り返された。透は、それに淡々と答え続けた。負傷者の容態確認への同席もあり、マーカスからも改めて短い礼の言葉が届いた。


 二日目以降、取材依頼が一気に集中し始めた。


 アメリカ国内の主要紙、テレビ局、ネットメディア、専門誌。各国メディア。「アメリカのナンバーワン探索士が実力を認めた日本人」というフレーズが、どこからともなく独り歩きを始めていた。透の名は、瞬く間に国境を越えて広がっていく。本人の関知しないところで。


 渡辺が整理してくれた後のインタビュー依頼に関する書類でさえ、卓の上にどさりと積み上がった。


 質問の内容は、マーカスをどう思うか、単独突入の心境は、世界最強は誰か、そのあたりに収束した。透の答えは大体決まっている。マーカスはすごかった。単独突入は普段通りです。世界最強は知らない。


 対応を続けるうちに、日が一つ、また一つと過ぎていく。


 透がダンジョン内で提供した回復薬に関する話し合いも行われた。


 回復薬の値段に関して、議論が白熱したらしい。利用者たちからの聞き取りで、それが非常に効果の高いものであると判明して、緊急事態だった状況も鑑みると、価値は計り知れない。それで、関係各位の協議は長引いた。


 最終的に、透にはかなりの大金が支払われる運びになった。あわせて、「もし残っているなら、サンプルを少量でいいので譲ってほしい」という依頼が書面で添えられていた。研究と備蓄、両面で必要だと懇願された。その分も含めた金額らしかった。


 提示された支払額の桁を見たとき、透の視線はわずかに宙へ流れた。


 ボックスに予備を何本か入れている、あの薬。今もアパートに保管している分まで含めれば、かなりの数が残っている。今まで使い道がなく放置していたそれが、これほどの金額になるなんて。


 透は、渡辺に事実を打ち明けた。とあるダンジョンで入手していたもので、たまたま持っていた分を渡した。まだ残っているものがある。扱いは任せたい――そう伝えると、渡辺は表情を少し引きつらせながらも対応してくれた。


 翌日から、ついでにと思って、保管している他のアイテムについて少しずつ渡辺へ開示することにした。


 異空間ダンジョン由来の高品質回復薬。同系統の解毒薬。詳細不明の特殊素材。色味が妙な未確認鉱物など。


 一人だったら途中で何かを諦めていただろうな、と透は思う。窓口を全面的に引き受けてくれている渡辺への、小さな感謝が芽吹いた。


 そんなことをしている間、マーカスからはスカウトされた。この一週間のあいだに数回、そのやり取りは繰り返された。


 アメリカに来てほしい。一緒に活動したい。リーダーの立場を君に譲ってもいい。チームも納得するだろう。報酬、待遇、市民権、君が必要なものは何でも揃えよう。そう言って誘ってくる口調は冗談のように聞こえたけれど、目の奥は本気だった。


 透の答えは毎回同じだった。日本での暮らしが大事なので、と返答する。そんな答えを聞いたマーカスは毎回、肩をすくめて少し残念そうに息を吐き、けれど直後には穏やかに頷いた。祖国が大事、それは当然だな。自分も同じ立場なら同じことを言うよ、と理解を示した。


 それでも彼は、透を諦めなかった。次に顔を合わせれば、別の角度から熱心に誘ってきた。


 透も、穏やかに断り続けた。冷たく拒絶するのではなく、相手の本気を受け止めたうえで、自分の答えを変える理由がない、というだけだ。


 マーカスは、良い男だった。本気で来てほしいと思ってくれていた。透も、それは率直に嬉しかった。けれど、自分の帰る場所は、もう決まっている。彼にも、それはちゃんと伝わっていたからこそ、それ以上の強引な誘いまでには至らなかった。


 ちなみに、アメリカに滞在している間も変わらず、別世界のダンジョンへ強制的に連れて行かれていた。毎晩、攻略を求められたので、いつも通りにクリアして元の世界に戻ってきていた。


 この変な現象も、場所なんて関係ないらしい。世界のどこにいても連れて行かれるのか、と透は苦笑した。



***



 こうして、色々と対応している間に一週間が過ぎていった。


 ようやく、透は帰国便に乗る日を迎えていた。本当に色々とあって、肩のあたりが強敵と戦闘した後よりも、ずっと重くなったような感じがした。疲労している。


 空港に到着する。


 復路は、普通の旅客便で帰ることになった。アメリカ政府の手配してくれた、ビジネスクラスの相当に良い座席らしい。


 離陸時の振動は、往路の政府専用機よりずっと穏やかだった。窓の外にはやがて太平洋が広がり、空はやけに広く見えた。雲の影が海面を滑り、白い航跡が下を流れていく。


 長い飛行時間が、ゆっくりと流れていった。


 窓の外の光が、夕方の色を経て、夜の青へ沈み、やがて再び朝の白が差し始めた頃に、機体は降下に入った。


 日本の空港に降り立ち、ボーディングブリッジを抜けたところで、透はわずかに足を止めた。


 帰ってきた、と実感した。


 湿度、気温、混ざっている空気の成分。乾いた砂漠の風ではなく、海と緑と人の暮らしの匂いが薄く溶けた、日本の空気を感じる。


 到着ロビーへ出ると、日本政府の手配した車がすでに待機していた。報道陣の姿はない。事前に動線が調整されていたのだろう。一週間近くメディア対応していたので、帰ってきた後も必要だと言われたら大変だし、面倒だった。回避できたのは大きい。


 渡辺との別れは、あっさりとしたものだった。互いに短く礼を言い、それで終い。どうやら彼は、この後も後処理の仕事があるようで大変そうだ。透は、一足先に休ませてもらうつもりで自宅に向かう。


 透の乗った車が走り出す。窓の外を、東京の景色が流れていく。


 空港から都心へ。都心から、見慣れた区へ。区から、いつもの通りへ。その通りの先に、あのアパートが見えてきた。


 窓の外には、もう、夕方の色が滲み始めていた。


 車がアパートの前で停まった。


 透は荷物を受け取り、運転手に短く礼を言ってから降りた。背中で、車のエンジン音が遠ざかっていく。透は目の前のアパートを見上げた。


 管理人室のドアの前まで来た、ちょうどそのときだった。


 ドアが、勢いよく開いた。


 立っていたのは、日和だった。


 一週間ぶりに見る日和は、制服ではなくラフなシャツ姿だった。


「おかえりなさい」


 彼女の声は、いつもより大きくて弾んでいた。


「ただいま」


 透の言葉を聞いて、日和の目元が緩んだ。それから、まっすぐ透を見る。


「報告とか、お話とか、たくさん聞きたいことはありますけど」


 この一週間、どうだったのか非常に興味がある。そう言いながら、日和は軽く首を振った。今は、そのことよりも。


「先に、休んでください。ご飯と、お風呂も用意してありますから」


 透は荷物を持ち直したまま、わずかに目を瞬かせた。


「ありがとう、助かる」


 日和の視線が、透の持っていた荷物に向けられた。少し膨らんだ部分に、英語ロゴの入った箱や色鮮やかな土産袋が、ちらりとのぞいていた。


「あの、もしかして……」


「ああ」


 透は、軽く荷物を持ち上げる。


「お土産、買ってきたよ。慌ただしかったから、そんなに数は揃えられなかったけど」


「えっ!? 本当ですか?」


 日和の目が、ぱっと明るくなる。


「嬉しいです、後で開けてもいいですか!」


「もちろん」


「アメリカのお土産って、凄そうです」


 はしゃぐ声には、ほんの少しだけ、年相応の温度が混ざる。地方どころか、国を越えて帰ってきたお土産。日和との約束を、透は今回も果たすことにした。彼女が喜んでくれたので、良かったと思う。


 透は微笑ましく、その様子を眺めながらもう一度「ただいま」と言ってから、玄関の段差を踏んで、靴を脱いだ。


 一週間ぶりの自宅の匂い。木の匂い、畳の匂い、台所のほうから漂ってくる出汁の匂い、それらが薄く混ざった、いつものこの部屋の空気。透は、落ち着いた気持ちになる。ようやく帰ってきた、という感じだった。


 風呂を済ませて、着慣れた部屋着に袖を通したところで、透は改めて帰ってきたと感じた。


 濡れた髪をタオルで軽く拭きながら、台所のほうへ向かう。


 卓の上には、夕食が用意されていた。


 出汁の効いた煮物。ふっくらと炊いた白米。茄子と油揚げの味噌汁。焼き魚。小鉢には漬物。デザートに、小さく切った冷えた果物まで用意してくれているらしい。


 全て、日和が用意してくれたもの。


「お風呂、ちょうどよかったみたいですね」


 日和が、湯気の立つ味噌汁を最後にひとつ運んできながら、こちらの様子を見て、ほっとしたように頷いた。


「一週間も洋食続きだったでしょうから」


 透はタオルを首にかけたまま、卓の前に腰を下ろしてから、問いかけた。


「これ、買い出し行ってくれたのか?」


「はい。夕方に。透さんが帰ってくる前に、時間があったので」


 日和は何でもないことのように答えながら、自分の席に着く。


「学校の帰りに、商店街のほうへ寄ってきました。透さん、戻ってすぐ夕飯を自分で用意するのは大変かなと思ったので」


「ありがとう、助かるよ」


 透は短く頭を下げる。日和は少し慌てた様子で手を振った。好きでやったことですから、と。


「あと、お留守の間も冷蔵庫のほうは何度か覗かせてもらってました。傷みそうな食材だけ、こちらで先にいただいたり、処分させていただいたり。勝手にすみません」


「いや。本当に、助かった」


 透はもう一度、同じ言葉を返した。


 助かった、では足りないくらいだった。一週間家を空ければ、冷蔵庫の中は何かが確実に駄目になっている。けれど、台所の流しにもコンロにも、生ゴミの匂いの欠片もない。おそらく日和がやってくれた。ずいぶんと丁寧に。


「いただきます」


「いただきます」


 二人、向かい合って食べ始める。


 最初の一口、味噌汁を含んだとき、透の口元が、自然にほどけた。出汁の塩気。味噌の角の取れた甘み。具材の柔らかさ。


「……美味い」


「よかった」


 日和は短く微笑む。


 食事の間、二人は他愛のない話をした。


 アメリカの天気はどうだったか。ホテルでの生活はどうだったか。アメリカで活動している探索士は、どんな感じなのか。空港は混んでいたか。機内食はどんな味だったか。透がアメリカでの一週間の様子を話すと、話を聞いた日和は本当に楽しそうに笑った。


 食事が終わると、日和は手早く食器を片づけて、食後のお茶を淹れてくれた。


 二人で、卓を挟んで向かい合う。湯呑みからは、お茶のいい匂いが立ち上っていた。



***



「では、私はそろそろ」


 日和がそう言って腰を上げたのは、茶を飲み終えた頃だった。


 明日も学校がある。透は玄関先まで送り、短く「おやすみ」と返す。日和は外廊下に出る前に、もう一度振り返ってから「おかえりなさい」と小さく言う。今夜、三度目だった。そうして、自分の部屋に帰っていった。


 ドアを閉めて、鍵をかける。部屋には、透ひとりが残った。


 台所の電気を落とし、卓の上の湯呑みを片づけてから、リビングの主照明も消して就寝に入る。


 目を半ば閉じて、眠る前に思考を整理していく。


 アメリカで最強と呼ばれていた、マーカス・ヘイルのこと。


 彼は強かった。


 それは間違いない。素直に言って、現代の人類で最高峰の一人だった。


 ダンジョンがこの世界に現れてから、まだ八年。その間に、あそこまで磨き上げた実力者は、地球上を探してもそう多くないはず。仲間を見捨てないという覚悟、最後の一瞬まで保ち続ける精神力は自分よりも優れているだろうと、透は思った。


 尊敬に値する全てが、彼にはそろっていた。


 あの広間の中央で、剣と盾を構えたまま、負傷者を背中に庇って立ち続けていた姿は、透も忘れないだろう。あの姿は、彼が「アメリカのナンバーワン」と呼ばれる理由を、過不足なく証明していた。


 けれど、それでも。彼は、俺と同じ場所には、立っていなかった。


 三十二年。


 眠るたびに異空間のダンジョンへ送られ、起きるたびに少しずつ何かが積み重なっていった、自分だけが過ごしてきた三十二年。マーカスがダンジョンと戦ってきた時間は、その四分の一だ。


 単純な計算でも、ちょうど四倍の差がある。


 マーカスが悪いわけではない。八年で彼が積み上げたものは、むしろ尋常ではない速度の成果と言っていい。同じ八年を費やしたとしても、彼ほどに研ぎ澄ますことができる人間は、他にいないかもしれない。


 ただ、透とマーカスの積み重ねてきた時間の絶対量が、違いすぎる。


 その差は、覚悟や努力では埋めようがない。


 並んで戦ったから、わかってしまった。


 あの瞬間、互いに背中を任せたあのダンジョンの中で、自分の感覚が、はっきりと事実を把握させてくれた。同じ床に立っているのに、立っている高さは違う、というあの感覚。


 悲しい話ではない。誰かを下に見る話でも、ない。


 ただ、そういう遠すぎる距離がそこにあった、という、それだけの話だ。


 日本全国を回って、見つからなかった自分と同じような存在。


 国内には、いない。


 今回、国際舞台のトップと並んでみても、いなかった。


 ということは、たぶん、この世界に自分以外ではいない。


 ――やはり、自分と同じ存在なんていないのだろう。国内にも、国外にも。


 ここまで来て、透は、長年うっすらと自分の中にあった問いに、改めて向き合うことになった。


 もし、同じような力を持つ者がいたのであれば。同じ景色を見てきて、同じ温度で話せる相手がいたら。


 それは、確かに求めていた存在。


 自覚は、薄かった。


 強いて意識したことはなかった。三十二年のあいだ、目の前のダンジョンを片づけることで毎日が回っていたし、誰にも明かせない以上、求めても仕方がないことだと最初から諦めていた、つもりだった。


 けれど、心のどこかでは、淡い期待があった。


 もしかしたら、いるかもしれない。


 どこかの国で、どこかの時間で、自分と同じものを背負った誰かが、ふとした拍子に並んで立ってくれる日が、あるかもしれない。


 それがいなかった、ということを認める。


 不思議と、寂しくなかった。


 いないと認めた瞬間、もしかしたら虚しさのような何かが押し寄せるかもしれないと、わずかに身構えていた。けれど、押し寄せたのは思っていたよりずっと穏やかな別のものだった。


 なぜか。


 考えるまでもなく、その理由を透は知っていた。


 日和がいてくれたから。


 彼女は同格ではない。同じ高みには立っていない。けれど、追いつこうとしてくれている。三十二年かけて自分が積んだものに、まっすぐ食らいついて、自分の足で歩いてきている。


 今の自分が求めているのは、同じ高みに立つ誰かではない。同じ道を、一緒に歩いてくれる誰かだった。


 そして、その存在はもう隣にいる。


 透は、色々とあったアメリカでの一週間の出来事や、久しぶりに日和と話したことなどを思い出しながら、ゆっくりと眠りに入っていった。


 とても心地よい眠りだった。

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