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第59話 奇跡の帰還

 透が提供した回復薬により、負傷者たちは回復していった。


 最初に立ち上がったのは、傷の浅い者だった。壁にもたれて呼吸を整えていた何人かが、瓶を空にして数分のうちに、自力で膝を立て直した。戦闘に参加するのはまだ危ういが、自分の足で歩けるまでは回復した。


 続いて、肩を貸せば歩ける、という段階の人間が顔を上げた。


 仲間に支えられる形で、それでも自分の足で広間の中央寄りまで進み出てくる。傷の深い数人は、まだ自立は難しい。けれど、もう倒れているだけの状態ではなくなっていた。


 全員、生きている。移動が可能なところまでは回復した。


 その状態を取り戻しただけで、彼らの空気は和らいだ。生き残れる可能性への希望が大きくなっていく。


 マーカスは、負傷者たちの容体を一人ずつ確認してから、透の方を振り向いた。


「We're ready. Let's get them out of here.(行ける。連れて行こう)」


 リーダーである彼が、自分の仲間たちに向けて力強く呼びかける。それに呼応する仲間たち。隊列が組まれた。


 先頭は、マーカス。


 中央には自力で歩ける者、肩を貸し合う者、サポートしてもらいながら辛うじて動けるようになった者たち。


 最後尾は、透が任されることになった。


 マーカスが視線で透の位置を確認し、透もそれを目で受けた。互いの背中を任せるべき位置に、互いの体が収まる。


 マーカスが先頭で戦意をみなぎらせながら、剣を抜き直して隊列を整える。


 最後尾にいる透の意識は、隊列の状況ではなく、その外側に向いていた。ダンジョン全体の気配を感じ取って、警戒を続ける。


 モンスターの位置を事前に察知して、速やかにマーカスへ知らせる。


 通路の安全な側、危険な側。透は一人で突入してきた時よりも、警戒する範囲を大きく広げた。


 分岐に差し掛かったところで、透は短く合図を送った。マーカスが、合図を受けて進むべき道を決める。


 マーカスは、透から受け取った情報を信じて、迷わず右へ折れた。


 左の通路の先で、モンスターが集結する気配を感じ取っていた。透だけが察知した予兆だった。右へ折れたことで、隊列はそれを完全にやり過ごす形になった。


 二つ目の分岐でも、同じやり取りが繰り返された。


 今度は、透の合図は「左」だった。


 マーカスの足は、また迷わず左へ向かう。


 三つ目を抜けた頃、マーカスが、初めて軽く肩を回した。途中で歩幅を緩めることなく、肩越しにこちらへ視線を投げてくる。


「Hey——how far can you sense?(君、どこまで察知できているんだ……?)」


 ここまで一度もモンスターと遭遇することなく進めている。それは幸運ではなく、透の情報があったからこそ。


 半ば、独り言に近い温度の問いかけでもあった。


 透は、最後尾の位置から簡潔に返した。


「I can sense things from pretty far away.(そこそこ遠くまで感知できるよ)」


 マーカスは、その短い答えを事実だと理解しつつ、しばらく咀嚼していた。隊列の歩幅は変えないまま、首をわずかに横に振る。


 それから、彼は肩を軽くすくめながら、一言だけ漏らした。


「You're unreal.(凄すぎるな)」


 低い、ぶっきらぼうな言い方だった。同行者たちも、化け物を見るような目を透に向けていた。



***



 帰路で、戦闘をすべて回避することは流石に難しかった。


 二度、三度、進む先でモンスターが姿を見せた。けれど、それらのモンスターは、すでに透の側から「いつ、どこに、何匹」現れるのか事前に読み切られていた。


 透の事前の報告に、マーカスは戦いに備えた。


 正面に立ちふさがる一匹をマーカスが一閃で抜き、透が最後尾から、隊列を回り込もうとしたもう一匹を、見逃さずに倒した。


 次は三匹ほど。隊列の中央の進行が一瞬だけ硬直したが、マーカスが前で二匹を立て続けに片付け、残る一匹を透が片手間に処理する。


 通路の天井裏から滑り落ちてくる種類の個体もいた。透が事前に潜んでいる位置を読んでいた。警戒を促して隊列の進行を、少し横にそらして奇襲に備えた。落下してきた個体は、天井から落ちて襲いかかろうとする瞬間に、マーカスの剣に貫かれていた。


 帰路の戦闘で、新たな負傷者は出なかった。負傷者を抱えた行軍にもかかわらず、追加で傷を負った者は一人もいなかった。


 マーカスの剣筋は、行軍が進むほどに鋭さを取り戻していった。広間で剣を地に突き立てていた頃の消耗が嘘のように、本来の動きを完全に取り戻していた。


 透は最後尾から敵の索敵と、必要なときに必要なだけ手を出した。それ以外には、モンスターの奇襲に注意して備えた。


 通路の傾斜が、緩やかに上り始めた。


 深層へ降りていくときの空気の重さが、徐々に抜けていく。発光体の数も、上層に近づくにつれて、岩肌から減っていった。


 入口の方角の気配が、ゆっくりと近づいてくる。外の、ベースキャンプに集まった人たちの気配の塊。


 乾いた空気の、わずかな匂い。


 隊列は、ゆっくりとだが、確実に上層へ進み続けていた。


 通路の先の、暗がりの遠くに——わずかに、外の明るさが滲み始めていた。


 光は最初、ほんの薄い橙色だった。


 通路の傾斜の先、視界の奥に、ぼんやりとした明るみが、ひと粒だけ滲んでいる。それが、進むにつれて少しずつ広がっていく。光の輪郭の中に、岩肌の縁取りが浮かび上がり、その向こうに明らかに「外」と分かる色の明るさが見え始めた。


 隊列の中央で、小さなざわめきが立ち上がった。


 誰かが、息を呑む音。


 別の誰かが、肩を貸している仲間の腕を強く握り直す動き。


 負傷者の中の一人が、半ば乾いた目元に、いつの間にか光るものを浮かべていた。彼は、それを拭うのも忘れて、ただ前を見つめていた。


 マーカスは隊列の先頭に立って、こちらへ振り向きはしなかった。


 ただ、視線を真っ直ぐに出口へ向けたまま、ほんの小さく頷いた。


 ——全員、生きて、外へ出る。


 その当たり前のはずの事実が、いま、ようやく現実の形を取った。隊列の動きが、ほんの少しだけ、軽くなった。


 透は、最後尾の位置で、最後の見回しをひとつ済ませた。


 背後の通路の奥に、追ってくる気配はなかった。


 隊列の周囲にも、モンスターの気配はない。


 もう大丈夫だろう、と判断した。


 マーカスの背中が、光の中へ突き進んでいく。


 続いて、中央の負傷者たちが前へ。


 最後に、透の足がダンジョンの出口を抜けた。


 外の光が、視界一面を真っ白に塗り潰した。


 強い日差し。乾燥した空気の匂い。背中側にあった岩のひんやりとした温度が、肌の表面から一気に剥がれていく。


 目が外の明るさに馴染むよりも先に、空気の方がぐらりと震えた。


 大歓声だった。


 とんでもない量の声が、入口前広場の一面から、いっせいに突き上がった。


「They're back——!!(戻ってきたぞ——!!)」


「Marcus——!!(マーカス——!!)」


「Oh my god——he's alive!!(嘘だろ、生きてるぞ!!)」


 悲鳴に近い叫び。歓喜の叫び。それから、もう言葉になっていない、純粋な声の塊。


 入口の手前の地面が、足の裏に伝わってくる振動まで含めて、ひと続きに揺れていた。


 待機していたアメリカ側のスタッフが、ロープの内側から駆け出した。


 医療班が、ストレッチャーを担いだまま全速力でこちらへ走ってくる。


 政府関係者らしいスーツの一団が、自分の襟元を直すのも忘れて、その場で立ち上がっている。


 通信機を握ったまま、しばらく固まっていた連絡員が意識を取り戻した瞬間、無線に向かって何かを早口で叫んでいた。


 外周のロープの向こう側——記者たちの一画——では、シャッター音が、いっせいに、間断なく鳴り始めていた。望遠レンズが何十本と、こちらの一点を狙っている。フラッシュが、乾いた日差しの中でなお、白い閃光を重ねている。


 空気の温度そのものが、爆発した。


 その熱の中心にいたのは、マーカスだった。


「Marcus is back——!(マーカスが帰ってきた——!)」


「A miracle——!!(奇跡だ——!!)」


「He's alive——he's actually alive——!(生きてる——本当に生きてる——!)」


 歓声が、彼の名前を何度も繰り返し叩き続けていた。


 その喧騒のなかで、透の耳には不思議とマーカスの呼吸だけが、一段静かに届いていた。


 マーカスは、入口を出てすぐの位置で、いったん立ち止まった。


 走り寄ってくる医療班に向かって、片手を上げて指示を出す。負傷者の容体の重い順、軽い順、自分の足で歩ける者。治療を優先するべきなのは誰かを。


 医療班が、即座に隊列の中央へ流れ込む。


 肩を借りていた仲間の腕が外され、代わりにストレッチャーが滑り込む。


 点滴のスタンドが、その場で組み上がる。


 マーカスは、引き渡しの一人一人を、自分の目で確認していた。誰がどの医療班に渡され、誰のところに先に医師が向かい、誰の搬送が先になるか。その全部を、指示を出した位置から、視線で追いかけている。


 最後の一人が引き渡されるのを見届けてから、彼はようやく、自分の肩から力を抜いた。


 その瞬間、周りのスタッフが歓声を上げながら彼に抱きついた。


 軍服に近い作業服の男たちが、何人もマーカスの背中を叩いている。叩く、と呼んでいいのか、もう殴る寸前の力強さだった。涙を浮かべた中年のスタッフが、何か早口の言葉を連ねながら、彼の名を連呼している。マーカスは、苦笑じみた表情でそれを受け止めながら、片手で軽く彼らの肩を叩き返していた。


 透は、その輪が組み上がっていくのを目の端で見届けてから、ほんの数歩、後ろへ下がった。少し距離を取って、落ち着いていた。


 乾いた風が、汗ばんだ髪をひとなで撫でていった。


 自分の仕事は、無事に完了した。


 あとは、彼らの時間だろう。


 歓声の波が、ようやくひと段落した頃だった。


 マーカスは、抱きついてきた仲間たちから、ひとり、ふたりと体を離していった。そして、こちらへ歩いてきた。


 透の正面で、マーカスは立ち止まった。


「It's all because of you. Truly.(君のおかげだ。本当に)」


 透は、軽く首を振った。


「Glad you're safe.(無事でよかった)」


 短く、それだけ返した。


 マーカスの口元が、何かを言いかけて、わずかに動いた。


 けれど、その言葉は、最後の一拍で飲み込まれた。


 言葉の代わりに、片手をこちらへ差し出してきた。


 握手だった。


 透は、それに応じた。


 差し出された手を、自然に、自分の手で受ける。


 手のひらは厚く、固かった。長く剣を握り続けてきた人間の、馴染んだ硬さ。透の側の手のひらに残るそれと、同じ種類の硬さだった。


 短い握りだった。


 マーカスは手を離してから、もう一度だけ、軽く頷いた。


 彼の背後から、また誰かがマーカスの名前を呼んだ。


 マーカスは、肩越しに振り返ってから、こちらへ視線を戻す。


 行かなければならない、という顔だった。


 透は、軽く頷き返した。


 マーカスは、もう一拍だけ、こちらの目を見てから踵を返した。


 彼の背中は、すぐに、また人の輪に包み込まれていった。


 その姿は、無事に帰還した彼にふさわしい光景に見えた。


 歓声の輪は、まだ続いていた。




 控えめな足音が、透の背後からひとつ近づいてきた。


 振り返るまでもなく、誰の足音か分かった。


 透が首だけを向けると、渡辺が、いつも通りの落ち着いた様子で歩いてきていた。


 ただ、その落ち着いた様子の中に、抑えきれない速さが、わずかに滲んでいた。


 透の前まで来て、渡辺はいったん立ち止まる。


 そして、深く、頭を下げた。


「お疲れ様でした」


 いつも通りの丁寧語だった。


「凪原さんなら、出来ると信じていました」


 透は、軽く首を振った。


「いえ、今回は彼が頑張ったから間に合っただけです」


 短く、それだけ返した。それが事実であると思って。マーカスが仲間を守りながら諦めずに戦い続けたからこそ、間に合った。


「無事に、帰ってきてくれて——本当に、安心しました」


 受け取って、軽く、けれど確かに、頷き返した。


「ご心配をおかけしましたね」


 それ以上、二人は余計な言葉は並べなかった。


 ふっ、と、透の目の前に冷えた瓶がひとつ差し出された。


 渡辺との会話のあいだ、少し離れた位置で気配を抑えていたらしい女性が、ちょうど良い間を見計らって、こちらへ寄ってきていた。現地の連絡係として、日米双方のあいだの通訳に終始立ち回っていた、アメリカ側のスタッフだった。両手に冷えたボトルを抱えている。


「For you. You earned it.(あなたへ。お疲れさまでした)」


 短い英語と、控えめな笑み。


 透は、軽く頭を下げて、それを受け取った。


 彼女は、渡辺にも同じ笑みで一本を差し出した。渡辺は恐縮した様子で受け取り、英語で短く礼を返している。


 冷たい瓶の表面に、薄く水滴が浮いている。手のひらに伝わる温度が気持ちよかった。


 キャップを捻って開ける。ひと口、飲む。


 乾いた喉を、冷たい液体が、まっすぐ通って降りていった。


 ——うん、うまい。


 心の中で、それだけ呟いた。


 隣では、渡辺も同じように一口だけ飲んで、それから、自分の役目に戻るというふうに、視線を控えめに広場の方へ戻していた。


 歓声が、広場を満たし続ける。


 マーカスの名前を呼ぶ声、奇跡を称える声、無事を喜ぶ声、その全部が一塊になって、乾いた空気の上に重なっていた。


 透は、その光景を静かに眺めていた。

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