第58話 アメリカの剣
最初の一振りは、ほとんど音を立てなかった。
透は巨大なモンスターが持つ厚い装甲のようなものを、関節の継ぎ目を狙って正確に斬った。それが崩れ落ちるよりも先に、透のターゲットは次の一体へ向いていた。
二振り目、三振り目。
立て続けに三体のモンスターが魔石に変わっていた。透が広間へ踏み込んでから、まだ十秒も経っていない。
その間、アメリカ最強と謳われる長身の探索士は呼吸を整えながら、剣を握り直していた。
彼は、透の最初の一撃を視界の端で確認していた。それを見て戦い方を変える。それまでは、広間全体を一人で受け持つために、無理をしてでも守りを優先していた剣筋が一段、落ち着きを取り戻す。
わずかに回復する猶予が生まれて、その好機を逃さないように集中力を高めていく。とにかく今は彼に任せて回復に専念する、という宣言だった。
視線さえ交わされていなかった。透は彼に何も指示していないし、彼も透に何も問わなかった。それでも、二人の役割分担は、それぞれの動作だけで完全に成立していた。
負傷者たちに襲いかかるモンスターだけを、彼が撃ち落とす。
それ以外の、広間に集まってくるモンスターを透が対処する。
透は、その分担を了承して、自分の戦いを発揮した。
まず、大型のモンスターが密集している場所へ突撃する。岩肌の揺らぎがまだ続いている、広間の北側。次に、負傷者を狙って息を潜めつつタイミングを伺う敵たち。最後に、彼から遠い側——彼の死角に回り込もうとしている個体。
透は場の状況を瞬時に確認し、優先順位を確定させて、狙いを定めた敵に向かって走り出す。
軽く踏み込んで、刃を低い位置から振り上げる。
大型の一体が、上半身を半分だけ斬られて崩れた。傍に密集していた小型の二体は、その下敷きになるようにして地面に潰れる。透は、続けて足の運びを変えずに、一気に北側の岩肌へ向かった。
とにかく早く、間断なく斬る。いちばん攻撃が通りそうな柔らかそうな部分を狙って倒していく。
北側の処理を終えた透は、すぐに東側へ向かった。
負傷者を狙っていた敵が、透に気づく。慌てて大きな体を揺らして、剛腕を振り上げてくる。だが、透は踏み込みの角度を、ほんのわずかに変えただけで、その射程の内をくぐった。
一撃。潜り込んだと同時の一振りで、関節の継ぎ目を抜く。崩れる前に、もう次の方向を見ている。
派手な動きは、何ひとつなかった。
最短の移動と、必要最低限の攻撃。その繰り返しで、敵対するモンスターは順番に地面へ落ちていく。
広間の床に、大量の魔石が積もり始めた。
大型の魔石が崩れた個体の足元に転がり、その隣に小型のものが弾ける。透が東側を回り終えた頃には、北寄りの一画は、もう一面が魔石の光で薄く埋まっていた。歩くたびに、踏んでしまいそうなほど大量に。
透の意識は、終始、静かだった。
今やるべきこと——集まっている敵を蹴散らして、強力な個体を倒し、回復に専念している彼の負担を減らすために、敵の意識を自分へ向け続けるように動いた。
視界の隅で、男の動きも確認する。
彼が動き始めた。どうやら、回復が完了したらしい。意識を集中させて、先程よりも強い気配を発揮している。戦意は十分。傾きかけていた戦力差が、人間側へ変わっていた。
負傷者を襲おうと彼の射程に踏み込んできた一体を、必要最小限の歩幅で迎えに行き、必要最小限の太刀筋で落とす。彼の呼吸の荒さは、まだ消えてはいない。けれど、その荒さが剣筋に乗ることはなかった。
――なるほど。
彼の戦いを視界の隅で確認していた透の心の中で、そんな言葉が漏れ出た。
わずかな回復時間で、まだ消耗が残っている様子。けれども、彼の戦いには迷いがない。
トップに立つ理由が、その戦い方、剣筋から伝わってくる。
遠くで気配だけ捉えていたときよりも、近くで剣筋を見るほうが、その実力を感じ取れた。
透は、目の端でそれを認めて、また自分のターゲットの処理へ意識を戻した。
処理のリズムは加速していく。
広間の中央寄りに散らばっていた中型の三体を、十数秒で順に落とす。地面に転がる魔石の領域が、また一段と大きく広がる。
そんな彼らの戦いを、薄れる意識のなかで見ている目があった。
負傷者たちの中の、一人だった。
壁にもたれて座り込んだまま、頭を半分だけ起こしている。瞼は重そうで、視線も焦点が定まり切ってはいない。それでも、目の動きだけは、ゆっくりと透の方を追っていた。
乾いた唇が、わずかに開く。
ほとんど吐息のような、英語の呟きが、空中に細く浮いた。
「Who……is that guy.(誰だ……あの男は)」
答える者は、いなかった。
隣で倒れている負傷者は、目を閉じていた。その隣も、自分の傷の痛みに耐えるのに精一杯で、声を拾う余力はなさそうだった。
呟きは、広間の戦闘音の中へ薄く溶けていった。
実は、透の耳に届いていたけれど、特に反応せず。戦闘を続ける。
次の一体。
その次の一体。
敵の処理が、また続いていく。それだけ大量のモンスターが集まっていた。
だけど、戦い続けているうちに数を減らしていく。主に透が。それから、アメリカ最強の男も確実に敵を倒していく。とうとう、最後の一体が地面に沈んだ。
静かになった広間。透は周囲を確認したが、しばらくは大丈夫そうだと判断した。
近くに、これといった脅威の気配は立っていない。
ひと段落、ということだ。
戦闘音が消えると、岩肌に染み込んでいた発光体の光が、急に主役のようにせり出してくる。床に散らばった大量の魔石が、その光をうけて、薄く瞬いていた。光の粒の海、と言っていい量だった。
透は、ひとつ短く息を吐いた。
そして、男の方を見やる。
長身の男は、剣を地面に突き立てるようにして体を支えていた。両手で柄を握り、その上に額に近い位置で頭をわずかに預ける。装備に染みた汗が、発光体の光に薄く反射していた。
深い息が、その肩を何度か揺らした。
限界の一歩手前で、ようやく踏ん張っていた糸を半分だけ緩めた。そう感じさせる息の吐き方だった。
それから彼は、ゆっくりと顔を上げた。
まず、視線を向けたのは透ではなかった。背後の負傷者たちの方だった。一人ずつ順に確認していく。意識のある者、意識のない者、呼吸の浅い者。全員の状態を見ている。
仲間たちの状態の確認が終わると、男は立ち上がって、剣を一度地面から抜いた。そして、鞘へ静かに収めた。
それから、透に向かって歩いてきた。
正面、手前で男は立ち止まった。
間近で見ると、消耗の度合いは、遠目で見ていた以上だった。装備の傷の数、汗の張り付き方、目の下の濃い隈。それでも、目の奥の光だけが、まったく弱っていなかった。
彼は、口を開いた。
「Thank you. You really saved us.(ありがとう。本当に、助かった)」
疲労の滲んだ、低い声だった。
けれど、その短い一言の中に、軽くない重みが乗っていた。形だけ、礼儀としての謝意ではない。腹の底から押し出されてきた種類の、確かな「ありがとう」だった。
透は、ゆっくりと首を横に振った。
「I'm glad we could help.(助けられてよかったです)」
彼の感謝に対して透は短く答えてから、続けた。
「What's the situation?(現状を教えてくれますか?)」
余計な前置きはいらないだろうと思い、透は問いかける。長く会話をして、時間を無駄にするのはもったいない。
男も、それを察していた。短く頷いてから、説明を始めた。
彼の英語は、平易な単語を選んで会話してくれた。透がアジア人であることを把握したうえで、語彙の幅を意図的に絞ってくれているのが、口の動きから伝わってきた。早口でもなく、複雑な構文も避けている。
透は、そんな男から説明を受けて現状を把握していく。
攻略中に、先行部隊がトラップに引っかかった。
それを助けようとしたメンバーの何人かが、不運にも怪我を負った。トラップ起動と同時に、大量のモンスターを呼び寄せてしまった。
そこから、戦線がじりじりと押されていく状況になった。引き返そうにも、負傷者の数が多すぎる。動けない人間を抱えたまま、集まってしまったモンスターと不毛な戦闘を繰り返す形になった。
体力は順に削られた。
動ける人数も、順に減っていった。
気づけば、まともに前線で立てるのは、自分一人になっていた、と彼は語った。
声の温度は、不思議と平らだった。自分の手柄を語る色も、追い詰められた苦境を強調する色も、どちらもなかった。事実を、事実のまま話す、というだけの語り方。
ただ、その平らな声が、最後に一拍だけ、はっきりと別の色を帯びた。
「I couldn't leave them behind.(仲間を、見捨てるわけにはいかなかった)」
仲間たちは、彼に逃げろと言ったという。生き延びてくれ、と。だが、彼は拒否して戦い続けた。
救援が来ると確信していたから。自分が持ちこたえれば、必ず来るという確信があったらしい。
どうしてそう思えたのか、その根拠についてはわからないが。そうしてやって来たのが透だった。彼の確信に間違いはなかった。
話を聞いて頷きの代わりに、視線を一度、彼の背後の負傷者たちの方へ送る。十数人の負傷者が、壁にもたれ、地面に座り込み、それでも、まだ呼吸を続けている。生き残ることができた。彼が守り続けたから。
仲間を見捨てなかった。この男は、信頼に値する。
透は、視線を男の方へ戻して、軽く頷いた。
「Understood.(わかりました)」
言葉数は、少なくて構わなかった。
男は、こちらの頷きを一拍だけ見つめてから、ふと、別の問いを口にした。
「By the way——how many of you came from Japan?(ところで君は……日本からの応援は、何人体制で来た?)」
疲労の隙間に、自然に滑り込んできた問いだった。
透は、即座に返した。
「Just me.(俺だけです)」
男の表情が、止まった。
彼の喉が、ごくりと動いた。返す言葉を選ぼうとして、けれど選び切れずに、空気だけが先に出てきた、という種類の喉の動きだった。
「……Alone? Are you the only one?(……一人? 君だけなのか?)」
ようやく彼の口から出た一言は、低く、短かった。
透は、もう一度頷いた。
「Yes. I usually work alone anyway.(はい。もともとソロで動いてます)」
そう聞いた男の顔の中で、いくつかの感情が、順番に通り過ぎていくのが見えた。
まず、深い驚き。
次に、半ば呆れたような、苦笑の影。先程の戦闘の様子を思い出したのか、納得の表情も浮かべて、最後には深い尊敬。
そんな様々な彼の感情が、ほんの数秒の間に重なり合って、最後に、ひとつのまなざしに落ち着いた。彼は短く息を吐いてから、平易な英語のまま、ゆっくりと言葉を運び直した。
「That's crazy.(正気じゃないな)」
言葉だけ取り出せば、テントの中で誰かが呟いていたのと同じ単語だった。
彼は、自分の言葉を一度噛んでから、続けた。
悪い意味で言っているわけではない、と前置きをして。
自分が、君に向けてこれを言える立場ではないことは、わかっている、とも添えて。
——でも、君自身がいちばんよく分かっているはずだ。ソロで、ダンジョンに入るということが、どれだけ危険なのかということを。今回みたいなことが、いつ自分の身に起きてもおかしくない。
そこには、透を案じる色があった。
「Today, it was me. Tomorrow, it could be you.(今日は俺だった。明日は、君かもしれない)」
透は、彼の忠告を聞き入れて穏やかに頷いた。
「Thank you. I'll be careful.(ありがとうございます。気をつけます)」
透は、簡潔に返した。
彼の忠告を聞いた透の心の隅で、別の感覚が一瞬だけ通り過ぎた。
——この男ほどの実力者でも、残念ながら自分とは違う場所にいるようだ。
責めるでも、寂しがるでもない、ただの事実の認識だった。
透は、その薄い思考を脇に置いて、背中の鞄に手をやった。
肩から下ろしたそれは、見た目こそ普通の革製の小ぶりなもの。けれど、中身は異空間へと繋がっている。こことは違う世界のダンジョンで収集したアイテムの数々が保管されている。
透は、その中から、小ぶりな瓶をいくつかまとめて取り出した。
琥珀色の液体が、瓶の中で薄く揺れる。透も、これまで何度もお世話になってきたもの。
「Use this. Let's get back quickly. Share it with the others, too.(これを使ってください。すぐ戻りましょう。他の人にも配ってください)」
差し出された瓶を、男は両手で受け取った。
ひとつを目の前に持ち上げて、光に透かす。
そのまま彼の眉が、わずかに動いた。
瓶を握る指の力の入り方も、受け取った最初の瞬間に中身を一目で見抜いた、という顔だった。
「……That's a good one.(……これは、相当いいやつだな)」
低い声で、率直にそう言った。
透は、首を傾げるでもなく答えた。
「I want to help.(助けたいのです)」
それを聞いた男は、ふっと小さく笑ってしまったらしかった。肩で笑う、と言っていい種類の、控えめな苦笑だった。疲労の中から、ようやく、表情らしい表情が一段戻ってきた瞬間だった。
「Thanks.(感謝する)」
お礼を伝えた彼は、瓶を握り直して、まず自分の口へ運んだ。透のことを信頼しているのか、一気に呷る。
次の瞬間、彼の目がわずかに見開かれた。効果を理解したらしい。すぐに負傷者たちにも配り始める。男を信頼しているのか、負傷者たちも躊躇なく回復薬を使用していた。
負傷者たちに配り終えて、透の方へ戻ってくる頃には男の顔色が目に見えて一段と整っていた。肩で吐いていた息も、深いひと息で収まっている。回復薬の効きは彼自身も、明らかに肌で実感したらしかった。
「You really saved us. I owe you one.(本当に助かった。借りができたな)」
透は、軽く首を振った。
「Don't worry about it.(気にしないでください)」
短く、当たり前のように、そう返した。
男は、その一言を耳の奥にしまうみたいに、しばらく動かなかった。
返事の代わりに、彼は片手を上げて、自分の胸に当てた。
「Marcus. Marcus Hale.(マーカスだ。マーカス・ヘイル)」
状況が落ち着いて、ようやく自己紹介が叶った。
透も、それに応じて、自分の名前を返した。
「Toru Nagihara.(凪原透です)」
長い握手も、長い自己紹介も、まだ要らなかった。
マーカス・ヘイル——その響きが、透の頭の中に記録された。
広間の魔石の光が、二人のあいだに薄く瞬き続けていた。
まだ、ここはダンジョンの中だ。完全には安心できない。気を抜けない。帰り道が残っているのだから。




