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第56話 太平洋を超えて

 タラップを駆け上がる。


 透のあとから、渡辺もついてくる。機内に入る寸前で、彼は一度だけ足を止めかけて、それからそのまま透の後ろに続いた。


「向こうとの折衝は、私が担当します。凪原さんには、できるだけ現場のことだけに集中してもらえるように」


「助かります」


 透の英語力は、社会人時代に身につけた最低限のもの。読み書きや、英語混じりで日常的な会話をする程度の聞き取り——そこまでなら、なんとかなる。けれど、久しぶりに使ううえに、ぶっつけ本番だ。ちゃんとコミュニケーションが取れるかどうか、あまり自信がない。


 折衝を受け持ってもらえるのは、率直にありがたい。


 ドアが閉じる音。


 シートに腰を下ろすかどうか、というタイミングで、機体はもう動き始めていた。シートベルトを締める指の動きと、滑走路を踏み出す機体の振動が、ほぼ同時にやって来る。背中がシートに静かに押し付けられた。


 窓の外の景色が、流れる。


 流れる、というより、ほとんど投げ捨てるような速度で後ろへ消えていく。地面が傾き、滑走路の白線が斜めに走り、それから地面そのものが視界から落ちた。


 雲の上に出るまで、ものの数分だった。


 高度が安定してから、機内には妙な静けさが訪れた。エンジンの唸りは続いているが、それは耳が慣れてしまえば背景音に近い。窓の外は、白い雲海と青すぎる空。


 透はベルトを緩めて、深く息を吐いた。


 機内に他の乗客はいない。前方の通路の先に、ヘッドセットを着けた連絡員らしき人物が一人。短く目礼を返してきた。会話の必要が出るまでは、向こうもこちらをそっとしておくつもりらしい。


 渡辺が、タブレットの画面をこちらへ向けてきた。


「今わかっている範囲で、改めて現地の状況をお伝えします」


 いつもの、低くて落ち着いた声だった。透は画面に視線を向けて、頷く。


「失踪したのは、向こうのトップクラスの探索士が率いるパーティーです。同行したパーティー三組も合わせて、合計十五名。五日前に攻略を開始して、当初の予定では四日で帰還する想定でした。ですが、一日超過しています」


 透は渡辺の説明に耳を傾けつつ、画面に映し出されているダンジョンの構造図を視界に入れながら、頷いた。


「最後の確認できた通信は、三日前に中継ポイントから——第十二層の合流地点と表記されています。地下水脈の上にある、一番安定した拠点とのことです」


 重要そうな情報を頭に入れていく。


「向こうの責任者は、ベースキャンプで凪原さんと直接話したい意向です」


「わかりました」


 状況把握を終えて、目的地に到着するまでスタンバイする。身体を落ち着かせて、心の準備をする。


 雲海の向こう、太陽の角度が少しずつ変わっていく。


 今朝の時点では、まさかアメリカへ飛ぶことになるとは思っていなかった。けれど、来てしまった以上はやるだけだ。



***



 雲が薄くなり、機体がゆっくりと高度を落とし始めた。


 窓の下に、見慣れない形の海岸線が現れる。色の濃い土地が見えてくる。広い。


 着陸の衝撃は、思っていたよりずっと軽かった。タッチダウンと同時に、機体は減速し、誘導路へ吸い込まれていく。エンジン音が下がり、それから止まる気配を見せないまま、誘導路の途中で停まった。


 機体のドアが開く。透たちは席から立ち上がり、外へと向かう。


 風が、明らかに乾いていた。日本の朝の湿度を完全に置いてきている。


 タラップを降りた瞬間、視界の先に、もう次の車が停まっていた。黒塗りの大型車。やはり、エンジンはかかったままだ。


 扉が内側から押し開かれる。中の人物が、英語で短く名前を確認する。


「Mr. Nagihara?(ミスター・ナギハラですか?)」


 答えたのは、渡辺だった。


「Yes. This is Mr. Nagihara, and I'm Watanabe, from the Japanese liaison office. We'll proceed together.(はい。こちらが凪原です。私は日本側連絡担当の渡辺です。同行いたします)」


 短く整った英語が、向こうの担当者に一拍で届く。担当者は、軽く頷く。


「This way, please. We need to hurry.(こちらへ。急いでください)」


 短く促されて、後部座席に乗り込む。


 渡辺は透の隣に座って、すでにタブレットを再度開き、ベースキャンプまでの距離と時間を確認していた。


 空港の外へ出るのか、それとも空港の管理区域から直接、外の道路へ繋がっているのか、透にはもう、よく分からなかった。気づけば車は走り出していて、窓の外の景色は、見たことのない色合いの街並みに変わっていた。


 日本を出てから、ほとんど立ち止まっていない。


 車、ジェット機、再び車。そして、ようやく現場に到着するようだ。そこからが、自分の出番になる。


 窓の外、見慣れない形の標識が、後ろへ流れていった。



***



 車が舗装路を外れて、未舗装の側道に乗り上げた瞬間、揺れが大きくなった。窓の外の風景が、街並みから乾いた草地へ、草地から赤茶けた岩肌の谷へと、段階的に切り替わっていく。


 車内のドライバーが、無線機に短く何かを吹き込む。返答が短く帰ってきて、ハンドルがゆっくり右へ切られる。


 視界の先に、突然、人と車両の塊が広がった。


 ベースキャンプの規模は、想像していたよりも一段と大きい。大型のテントが何張も並び、その間を作業着・軍服・スーツが行き交う。発電機の唸り、無線のノイズ、英語の指示が飛び交う声、そのすべてが乾いた空気の上に重なって、ひとつの喧騒を作っていた。それが、車内にまで聞こえてくるほどのボリューム。


 奥の方には、簡易の医療テントが見える。担架が幾つも立て掛けられ、点滴のスタンドがいくつも並んでいる。


 反対側には、武装した警備の兵士が等間隔で立っている。重い装備、引き締まった表情。さらにその外周には、ロープと立て看板で区切られた一画があり、そこから望遠レンズがいくつも突き出していた。各国の記者らしい人影だ。けれど、ロープの内側へは一歩も踏み込ませていない。


「あそこか」


 透が呟く。


 視線の先に、岩肌に切られたダンジョンの入口があった。黒く、四角く、ぽっかりと口を開けている。周囲の喧騒の量に比べて、その入口だけが、ひどく静かに見えた。


 車が停まった。


 渡辺が先に降り、透がそれに続く。


 車から降りると、複数の人影が早足で近づいてきた。


 先頭はスーツ姿の中年男性。胸元にIDカードを下げている。隣に立つのは、軍服に近い色合いの作業服を着た、長身の男性。さらにその後ろに、戦闘装備をまとった筋肉質の男と、ヘッドセットをつけた女性が控えていた。


 スーツの男性が、透に向けて手を差し出してきた。透も、その手を取って握手する。


 彼は英語で、来訪への謝意を述べた。来てくれて感謝する、深く感謝している、と、形式的な言葉が並べられる。声は、はっきりと固い。歓迎の言葉の形をしているが、温度はそうではない。歓迎している場合ではない、というのが、表情の方からは透けて見えた。


 会話に返答したのは、渡辺だった。


「Thank you for receiving us on such short notice. I'm Watanabe, the Japanese liaison officer attached to Mr. Nagihara. I'll be handling the on-site coordination from our side.(短時間でのご対応に感謝します。私は凪原に同行している日本側連絡担当の渡辺です。こちらの現地調整は、私が担当いたします)」


 透も、軽く頭を下げて、拙い英語で答える。


「Toru Nagihara. Glad to be here.(凪原透です。お会いできて光栄です)」


 その挨拶に、彼らも英語で返してくる。自分はここの現地のダンジョン管理側の人間であり、隣にいるのは作戦チームのレイエス大尉、その後ろは、と矢継ぎ早に名前と肩書きを並べていく。


 透は、なんとか内容を理解しようと集中して聞く。聞き取れなかった部分は、後で必要になったら確認しよう。今ここで重要なのは、誰がどこの責任を持っているか、それだけ。


 そんな透の様子を見たヘッドセットの女性が、横から日本語で話しかけてきた。


「私、通訳を担当します。質問があれば、いつでも聞いてください」


「助かります」


 透は短く返した。渡辺も、その通訳の女性に短い目礼を送る。


 スーツの男性が、テント側へ手を差し向ける。


「Let me explain the situation.(状況を説明させてください)」


 大型テントの中。中央のテーブルには、ダンジョンの構造図と、地形の模型がいくつか並んでいた。手書きの書き込みが何枚も重ねられている。ここで何度も会議が繰り返されたことが、紙の状態だけで伝わってきた。


 立っている人間が、自然に円を作る。


 男性が、テーブルの上に置かれた構造図を指差した。


 彼は英語で、整理された口調のまま続けた。失踪したチームは、こちらのトップクラスの探索士が率いるパーティーである。正確な名前は、任務を正式に受諾したあと、内部で共有する——。


 渡辺が、横で短く返した。


「Understood. We accept the formal request at this point.(承知しました。この時点で、正式な要請を受諾します)」


 その一言に、テーブルを囲む空気がわずかに変わった。手続きが一段、進んだ合図だ。


 男性は、淡々と情報を共有していく。主力は一組、同行が三組、合計十五名。予定四日、超過一日。ダンジョン自体は大規模で高難度、内部の地形変化も起きていると報告されている、と。


 透は、機内で渡辺から聞いていた数字と照らし合わせながら、構造図の上に視線を落としていた。事前に情報を伝えられていたことで、今回は確認の作業だけで済む。


 通訳も、会議の内容を横から短く補足してくれる。


 スーツの男性が、追加の情報を教えてくれた。


 通信途絶のあと、こちらは偵察班を送り込んだ。六名の探索士、軽装備、短時間の調査のみ。彼らは六時間で戻ってきた。その報告は、内部の危険レベルが当初の想定よりも著しく高くなっており、これ以上の戦力投入は追加の情報が得られるまで控えるべき、という調査結果であった、と。


「偵察班は、当初の危険レベル想定を大きく上回る、と判断して、追加投入を見送る勧告を出しています」


 通訳の説明に、透は頷いた。


 渡辺が、ここで一歩だけ前に出た。


「May I ask if the reconnaissance team made any direct contact with the missing party?(偵察班は失踪パーティーと直接の接触をしましたか?)」


 男性は首を横に振った。直接の接触はなかった、と英語で答える。ただし、九層目の分岐点付近で、防御陣のマーキングらしきものが報告されている、一定のパターンで刻まれた引っかき傷だ、失踪したグループが残した印かもしれないし、そうでないかもしれない、と。


 渡辺は短く頷いて、そのまま透の方へ顔を向け直した。


「凪原さん、防御陣のマーキングが分岐点に残っているそうです。失踪パーティーの可能性も、別の可能性も、まだ両方ありえる、とのことです」


 透は頭の中で、その情報を整理していく。


 別世界のダンジョンや日本国内のダンジョンには通じている透だが、海外のそれは初めてだ。モンスターの種類も、密度の出方も、たぶん違う。けれど、危険に挑んでいく手順だけは同じだろう。入って、見て、修正すればいい。


「Mr. Nagihara, Mr. Watanabe.(ミスター・ナギハラ、ミスター・ワタナベ)」


 彼は、二人の名前を呼ぶと平易な単語を選んで会話を続けた。次の一手について、こちらは複数の選択肢を検討している段階だ。日本側の所見を聞かせてほしい、と。


 通訳が、横で軽く言い添えた。


「次の一手について、ご所見を伺いたい、と」


 テントの中の人間が、一斉にこちらを見たのが、視界の端で分かった。


 透は顔を上げた。


 テーブルを囲んだ顔ぶれを、ひと通り見回してから、平易な英語で短く言った。


「一人で突入します」


 透の言葉を、戸惑いながら通訳が英語で伝える。内部の状況を確認して、可能なら連れて戻ってくる、と。


「——Alone?(一人で?)」


 最初に声を上げたのは、軍服に近い作業服の男だった。レイエスとさっき紹介された男だ。眉根が深く寄っている。


 彼は早口の英語で、まくしたてた。失礼を承知で言わせてもらうが、それは選択肢にならない。こちらのトップですら帰ってこれていない。完全編成のパーティーでだ。それを、あなたは一人で行こうとしている、と。


 別の声が、横から重なる。


 単独で入って何かあれば、二次災害になる。その意味が分かっているのか、と英語の問いが飛ぶ。


「No, absolutely not. We can't authorize that.(駄目だ、絶対に駄目だ。承認できない)」


 レイエスの語気が、はっきりと強くなった。そもそも我々の責任で出せる判断ではない、と英語の応酬がテーブルの上で交差する。


 通訳の女性が、すべての言葉を翻訳するのは諦めて、要旨だけを透の方へ短く送ってきた。


「一人で入るのは認められない、と。主力でも戻れなかった現場に単独で送り込めば、救出そのものが二次災害になる、責任の問題でもある、と」


「そうですか」


 彼らの懸念は、真っ当だと思う。軽蔑するような種類の反対意見ではない。むしろ逆で、責任を負う立場の人間として、出すべき判断を、彼らはちゃんと出しているだけだ。


 誰かが、低い声で何か呟いた。通訳越しではない、地の声が透の耳に届く。


「——Crazy.(——クレイジーだ)」


 その一言だけは、英語に慣れていない透にも、はっきりと理解できた。


 その呟きを否定するつもりはなかった。客観的に見れば、たしかにそうだろう。主力チームが帰ってこなかった場所に、アジアから飛んできた未知の男が一人で入ると言い出している。狂気と言われても、反論はない。立場が逆なら自分も同じことを思う。


 渡辺が、そんな彼らに対して口を開く。


「May I speak?(発言してもよろしいでしょうか?)」


 声は、いつもの低い調子のままだった。けれど、その一言だけで、テーブル上の英語の応酬が、ぴたりと止まった。


 スーツの男性が、軽く顎を引く。どうぞ、という意味の動きだった。


 渡辺は、視線をレイエスにまず置いた。


「Captain Reyes. I fully understand your concern, and your objection is professionally correct.(レイエス大尉。あなたの懸念は十分に理解していますし、あなたの異議は専門家として当然のものです)」


 そう言ってから、渡辺は視線を一度落として、説明を続けた。直近の透の実績について、いくつか並べる。日本国内における大規模ダンジョンの単独鎮圧の件、それから、全国規模での緊急調査任務における連続稼働の実績など。


 凪原さんには、それを可能にするだけの実力があります。むしろ、同行者をつけることの方が、救援までの時間を遅らせるリスクになります。中で持ちこたえている人間がいるなら、その時間が一秒でも惜しい。


 通訳を介さず、英語のままで言い切る。語気は荒くないが、引かない温度だった。


 大尉の眉間に、深い皺が寄った。視線が一度、テーブルの構造図に落ちて、それから渡辺の方へ戻る。返答を選ぶための、長い沈黙だった。


 かなり強引、と言える言葉だった。


 渡辺自身も、たぶんそれは自覚していた。普段の彼なら、もう一手か二手、相手の納得を待つために間を置く場面。今日は、その時間がない。透の判断を信じて、そこに信頼を預けたうえで、強引にラインを引きに行っている。


「The Japanese side accepts full responsibility for this decision. The deployment is conducted through official government channels. We are not asking you to share the risk——we are asking you to allow us to take it.(日本側は、本決定について完全な責任を引き受けます。本派遣は政府正式ルートを通じて行われています。リスクの分担をお願いしているのではありません——リスクを引き受ける許可を、お願いしています)」


 レイエスは、しばらく黙っていた。


 彼の顎の筋肉が、わずかに動く。納得していないのは、表情の方が雄弁に語っていた。けれど、ロジックの上で押し返す材料が、もう手元に残っていないことも、彼の沈黙が示していた。


 何よりも、ダンジョン内にいる彼らを助けたいという気持ちは、彼らも同じである。


 ここで、透が口を開いた。


 渡辺の積み上げに、自分の側からも発言するべき場面だと判断した。


「危ないと判断したら、引き返します」


 通訳が、その言葉を翻訳して彼らに伝える。


「無理はしません。約束します」


 透は、続けてそう日本語で添えた。通訳が、その言葉も丁寧に英語へ移す。


 その短い言葉で、テーブルの上の空気が変わった。


 責任者であるスーツの男性が、隣のレイエスと短く何かを言葉なしで交わす。眉と顎の動きだけの、親しい者たちのやり取りだった。


 レイエスが、ほんのわずかに肩を落とした。納得ではない。譲歩だ。


「……I still don't like it.(……それでも、私は気に入らない)」


 そう短く吐き出した英語が、はっきりと聞こえた。


 けれど、彼は最後にもう一言、付け足した。


「But I will allow it.(だが、許可する)」


「ありがとうございます」


 透は、責任者へ短く礼を返した。渡辺も、その横で深く頭を下げる。


「Thank you for your trust. We won't waste it.(信頼に感謝します。無駄にはしません)」


 渡辺の一文が、最後の念押しのように静かに置かれた。


 許可が下りた。透はテントを出る。ここからは、ようやく自分の出番。


「どうか、ご無事で」


 そう言って見送ってくれる渡辺に、透は軽く頷いた。


「行ってきます」


 短く返してから、ベースキャンプの中央を真っ直ぐに歩いた。


 行く先には、岩肌に切られた黒い口がある。


 立ち止まる。肩の鞄から、必要な武器を取り出して身につけた。別世界のダンジョンに挑むときと同じく、毎晩のように繰り返してきた動作で準備を終わらせる。


 透の一歩は、黒い口の中へ静かに吸い込まれ、そのまま速度を上げて駆けていった。

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