第55話 緊急事態
平日の朝の光は、ずっと静かだった。
凪原透は、共用部の縁側で竹箒を握ったまま、ふと手を止める。冬というには少し早い時期、夜のあいだに落ちた枯れ葉がコンクリートの隅に小さく溜まっている。放っておくと風で散らかってしまう。透は管理人の仕事として、それを片端から掃いて、ちりとりに落とした。
作業をしている間に、ふと、頭の隅へ先日の手合わせの記憶が浮かんだ。
探索士を目指す日和が組んでいる、同じく探索士を目指している五人のパーティーメンバーたち。
——良い子たち、だったな。
透は静かにそう思う。
仲間として日和の隣に並ぼうとしてくれている子たちだ。あの五人がいる限り、日和も一人で背負わなくていい。一緒に切磋琢磨してくれる仲間がいる、というのは、見ているこちらまで安心できる風景だった。
そんな日和との時間は、相変わらず穏やかに続いていた。訓練、食事、他愛のない会話。夕方になると異空間にある訓練場に行き、二人で実力を高め合うトレーニングをしている。
しばらく続いていた地方への出張も、ようやく一段落していた。近場で処理しないといけない依頼書が何件か溜まっているらしい。優先度の高いものから順に片付けて、夕方には日和の訓練に間に合うように戻る——そういう、ごく普通の一日になる予定だった。
ポケットの中で、透の携帯が鳴ったので取り出す。そして、画面に表示された名前を見つめた。
——渡辺。
政府窓口担当の彼から、こんな時間に直接電話が入ることはない。依頼の打診は、メッセージアプリで内容が事前に送られてくる。日時を選ぶこちらの都合まで気遣ってくれる男だ。朝のこの時間に、何の前触れもなく電話がかかってくるなんて。何かあったのではないかと感じさせる状況。
透は、手に持っていた竹箒を壁に立てかける。そして、通話ボタンを押した。
「はい、凪原です」
「凪原さん、今お話できますか?」
返ってきた声は、いつも通りの丁寧な口調だった。語尾までしっかり整えてある。けれどその下に、わずかな硬さが乗っている。普段の彼なら絶対に響かせない種類の、緊張を含んだ硬さだ。
「大丈夫です。どうしました?」
短い間があった。電話の向こうで、渡辺がひとつ呼吸を整えたのが伝わってくる。
「——人命が関わる緊急事態が、起きています」
言葉が、はっきりと区切られて届いた。
「凪原さんのお力を、お借りしたい」
言い切ってから、切羽詰まった様子の渡辺は一拍だけ言葉を切った。
「——助けて、いただけませんか」
そう言われた瞬間、頭の中ではもう答えが出ていた。理屈で考えるまでもない。「人命」という単語が出た時点で、それ以外の選択肢は、自分の中のどこを探しても見当たらない。
淡々と、しかし迷いのない声で、透は答えた。
「わかりました。どうすればいいですか?」
「今から車で向かいます。詳しい内容については車内でお話します。数日、場合によってはもう少しお時間をいただく可能性があるのですが――」
「了解です。今すぐ準備します」
「ありがとうございますっ!」
電話の向こうで、彼がきっと深く頭を下げているのだろう、という気配だけが、しんと耳に届いた。
「それでは、失礼します」
慌ただしく通話が切れる。透は携帯をポケットに戻してから、一度だけ大きく息を吐いた。
それから、準備に取り掛かる。
掃除用具を片付けてから管理人室に戻り、収納棚の上段からボックスを引き出す。そこに着替えを数着、洗面道具、簡易の医療キット、手帳と筆記具、現金を放り込んでいく。
——自分に助けを求めてきた、ということは、たぶんダンジョン関連だろう。
透はそう当たりをつけて、ダンジョンの攻略でも使用する武器——見た目はただの古めかしい一振り——も布で包み、ボックスの奥に入れた。実際に使うかどうかは、向かった先で判断すればいい。
すぐに準備を整え、管理人室の鍵を締める。
外廊下に出ると、朝の空気が一段、冷たくなったような気がした。
遠くから、車のエンジン音が近づいてくる。
***
アパートの前の細い道に、黒塗りの車が滑り込んできた。
国産の高級セダンだ。透が地方出張に使うのと同型の車——けれど、運転手の表情も、後部座席の窓の閉まり方も、いつもよりずっと固い。停車するというより、急ぎながら最低限の礼儀を守って停まった、という挙動だった。
後部座席のドアが、内側から押し開かれる。
「凪原さん。乗ってください!」
顔を覗かせたのは、渡辺だった。
いつも通りのスーツ。いつも通りに整えられた髪。けれど、頬の筋がわずかに張っていて、目の奥が普段より一段、落ち着かない。その表情には疲れも見える。電話越しに感じた彼が、座席に座っていた。
「わかりました」
透は会釈を返し、少ない荷物を片手に乗り込んだ。
ドアが閉まりきるか、きらないか。その瞬間にはもう、車は動き出していた。
シートに沈み込みながら、透はちらと前方を見る。運転席のミラー越しに、運転手の目が一瞬だけこちらを捉え、すぐ前方へ戻された。そんな発進の早さに、横に座る渡辺は驚いていない。
本気で急いでいる。人命が関わる——その言葉通りの状況なのだと、透は理解した。
車内に入って数秒後、隣で渡辺が深く頭を下げた。
「お時間をいただいてしまって、本当に、申し訳ありません」
声の頭が、わずかに掠れていた。
「いいですよ」
透は、いつもの落ち着いた声を保った。
「それで。何が起きているのか、聞かせてください」
問いかけると、渡辺が顔を上げる。ひと呼吸だけ瞼を伏せて言葉を整え、それから真っ直ぐ透の方を向くと説明を始めた。
「——アメリカで、大規模ダンジョンの攻略中に事件が起きました」
切り出しから、もう普段の依頼の温度ではなかった。
「向こうでトップとして活躍している探索士——いわゆる、アメリカナンバーワンと呼ばれる実力者。彼が率いる主力パーティーが、ダンジョン内部で音信不通になっています」
窓の外を、見慣れた住宅街の景色が後ろへ流れていく。
「同行していたパーティーが数組ありました。彼らも全員、連絡が取れなくなったようです。合計で、十数名規模になります」
日本よりもアメリカのほうが、探索士の有資格者は多いと聞いたことがある。それでも、貴重な人材であることに変わりはない。しかも、かなりの実力者を含めて——十数名が一度に音信不通になるとは。
「本来の帰還予定日を、すでに一日超過しているとのことで。中継ポイントの通信端末はすべて沈黙。生存信号も、定時報告も、止まっている状態だそうです」
透は、ただ静かに頷いた。大事な情報を聞き逃さないよう、途中で口は挟まない。
「アメリカ側はすでに偵察班を投入しましたが、内部の危険レベルが当初の想定を大きく上回っている、という判断で、撤退しています。現時点では、二次被害を出さないことが優先されていて救出活動は、停滞しています」
渡辺は、ここで一度だけ言葉を切った。
「二時間前、ホワイトハウスから各国に対して救援要請が発出されました」
車のエンジン音が、低く響いている。
「日本に対しても、正式な要請が届きました。防衛省内部では緊急会議が行われて、検討されました。判断材料は、大きく二つです」
彼は指を一つ立てた。
「一つは——アメリカナンバーワンの実力者を、ここで失うわけにはいかない、という国際的な事情です。彼を失うと、向こうの探索士運用そのものが大きく揺れます」
もう一本、指を立てた。
「もう一つは、もっと直接的です。大国アメリカでダンジョン関連の混乱が出れば、必ず国際的に波及します。経済も、安全保障も、巡り巡って日本にも大きな影響が出ます。だからこそ、日本としても、応えられる範囲では応えておきたい、というのが上の判断です」
渡辺はそこで、わずかに目線を伏せた。
「政治的なお話を、こんな朝早くから、こういう形で聞かせてしまって、申し訳ありません」
透は短く首を振った。
「いえ。続けてください」
事情は理解した。ロジックとして筋は通っている。けれども、自分が動くべきだと判断した理由は、そこではない。
誰かが、死ぬかもしれない。それを助けられる手段が、自分にはある。だったら、行く。政治の話を聞かされても、そこはそんなに重要ではない。助けるべきだと思った。透にとっては、それで十分だった。
渡辺は再び姿勢を立て直した。
「凪原さんへのお願いは、現地に向かっていただいたうえで、状況確認と、可能であれば救援活動です。判断は現地で凪原さんに委ねる、というのが日本側の方針です。無理だと判断された場合は、引き返していただいて構いません。それは事前に、向こうにも伝えてあります」
用意周到さに、透はわずかに口元を緩めた。引き際まで先に確保しておくところが、いかにも渡辺らしい。透を消耗品扱いしない、彼の窓口担当としての矜持が、こういう言葉に感じられた。これまで積み重ねてきた付き合いの上で、ちゃんと信頼できる相手だった。
「わかりました」
透は短く答えた。事情を聞いている間も、車は走り続けている。
「これから、どこへ向かいますか?」
「米軍基地です」
なるほど、と透は頷く。
「そこから、アメリカが用意したジェット機に乗り換えていただきます。離陸後、現場へ直行する航路で組まれています。入国手続きに関しては——」
透の方は、内心で「ああ、それも必要か」と思ったところで、ふと気づく。——パスポート、持ってきていない。今から引き返す時間は、たぶん、ない。
「諸々、すでに調整が済んでいます。凪原さんは到着後すぐ、用意された車で現地ベースキャンプへ移動していただく形になります」
本来なら必要になる正式な手続きも、省略してくれるそうだ。それだけ向こうが急いでいる、ということだろう。透は理解して、頷いた。
事情説明がひと段落すると、渡辺は各所への連絡を行った。
透も、その隙に自分の連絡を済ませておく。メッセージアプリを開いて、日和宛に短く打ち込んだ。
『緊急事態で、数日ほどアパートを留守にすることになった。突然で悪いが、後を任せる。何かあれば、いつでも連絡してくれ』
送信。
既読は、ほとんど間を置かずについた。学校へ行く支度をしている時間だろうに、日和の返信は早かった。
『わかりました。任せてください』
簡潔で、迷いのない返事。突然のことで本当に申し訳ない、と内心で詫びながら、彼女に任せておけばアパートは大丈夫だろう、と思った。
***
高速道路から専用の連絡路へ入り、見慣れない高い金網が窓の外を流れ始めた頃には、車内の空気はもう一段、静かになっていた。
ゲート前で停止する。
通常なら、ここで身分証の提示や、車両の下回りの確認や、それなりの問答があるのだろうと思った。
窓を下ろした渡辺が、警備の人間に一言、二言だけ言葉を交わす。短いやり取りだ。書類の束の表紙を一枚見せる、それだけで、ゲートはもう開いていた。警備の側からも、敬礼に近い角度の会釈が一つ返ってくる。
車はそのまま中へ滑り込む。
基地内の道は、外の世界と空気の質が違った。整然と区画され、走る車両の数は少なく、けれど一つひとつの動きに目的がある。透たちの車は、案内の車両のあとを追って、ためらいなく滑走路の脇まで直行した。
車のドアが開く。
渡辺に続いて、透も車から降りた。
滑走路の風が、一気に流れ込んでくる。湿度と、油と、金属の匂い。
目の前にジェット機が一機、待機していた。
民間の旅客機ではない。流線が低く、機体の塗装も控えめで、識別記号だけが鋭く側面に刻まれている。エンジンはすでに回り始めていて、低く重い唸りが地面を伝ってきていた。




