第53話 師匠の手合わせ※日和視点
訓練場に入ると、日和は美月とすずなを連れて、壁際の長椅子へと向かった。三人で並んで腰を下ろして、ジャージの裾を軽く整える。
男子三人は、訓練場の武器ラックの前に移動していた。訓練用武器の調子を確かめている。
大きなラックには、模擬武器がずらりと並んでいる。木刀、模擬剣、模造の槍、薙刀、棍棒――各種、各サイズ。安全のために刃は潰してあるけれど、重量と長さは実物に近づけてある学校の備品だ。
「……よし」
伊吹が、ぐっと両肩を回した。
ラックの前で、しばらく品定めしてから両手剣を一本、慎重に抜き取る。柄をぐっと握り、重心を確かめるように軽く持ち上げた。
「うん。これでいいや」
その横で、神崎は細身の剣を選んでいた。
長すぎず、短すぎず。手首のスナップが利かせやすそうな一本。鞘から抜くと薄い刃が訓練場の照明を、すっと撫でた。
「……俺は、こいつかな」
神崎はひと振り、軽く空を切ってから満足げに頷く。
東郷は長柄のほうのラックの前で、しばらく考えていた。
最終的に選んだのは、扱いやすい長さの模造の槍。穂先は、すべて樹脂で覆ってある。
「僕は、これで挑もう」
ぼそりと呟いてから東郷は両手で柄を握り、重心を確かめるように、ぐっと前に突き出す動作を軽くやってみせた。
三人とも、得物を手にした瞬間に目の色を変えて、一段と気合を入れる。
それぞれ得意な得物を手にしたときの、ダンジョン攻略で見慣れた戦士の表情。
ぶん、と低い音。
すっ、と短く鋭い音。
ひゅっ、と空気を裂く音。
三種類のリズムが、訓練場の中でばらばらに重なり合った。
そんな彼らの横で透は、ラックの前にふらりと近づいた。同じように、訓練用の武器を手に取る。
特に吟味したりせず、いちばん手前に立てかけてあった、ごく普通の模擬刀をひょいと取った。
「……これを貸してもらおう」
ぼそり、と独り言のように呟いて軽く片手で持ち上げる。
素振りを終えた男子三人が、軽く息を整えながら訓練場の中央に集まってきた。
伊吹が、両手剣を肩に担ぐようにして軽く首を回す。
神崎は、細身の剣を中段に持ち片手で柄を確認するように握り直した。
東郷は、槍の柄を地面に立てるようにして、両足をぐっと肩幅ほど開く。三人とも、臨戦態勢で待機していた。
「最初は、誰から手合わせする?」
透が三人に問いかける。声には、なんの力みもなかった。のんびりとした聞き方で、緊張で張りつめていた訓練場の空気に、ぽとりと一滴、落ちる。
「……じゃあ、俺から、行きます」
最初に名乗りを上げたのは、伊吹だった。
***
伊吹颯太は、こういう場面で、後ろから順番を回されるのが、好きではない。
仲間たちは、彼の性格をよく知っている。
迷ったり、相手を見極めたりするよりも先に、まず挑んでから確かめにいくタイプだ。実力主義で、出鼻を譲らない。誰よりも先に挑んで、誰よりも先に得るものを得て、誰よりも先に持ち帰る。
その伊吹が両手剣の柄を、ぐっと握り直して前へ、一歩踏み出した。
「お願いします」
伊吹は透に向けて、軽く頭を下げると、両手剣を、ゆっくりと正眼に構えた。
肩の力は抜けている。けれど、腰から下は沈んでいる。両足の置き方も、踵の角度も、いつも実戦で見せる形。学校で訓練を続けてきた戦い方であり、伊吹のお気に入りのスタイル。
「うん。お願いします」
透が模擬刀を、片手で軽く下げたまま、ふらりと相対する。
構えは、まだない。
刀身をだらり、と斜め下に向けたまま、ただ立っている。
「……あれ、凪原さんは構えたりしないの?」
美月が、ぼそりと独り言のように呟いた。横で一緒に見学している日和が答える。
「うん。たぶん、しない」
「えっ」
「あの人、最初はいつも、ああいう感じ」
武器を手に持った瞬間から、すでにいつでも戦える状態になっている。だから遠慮は無用。
訓練場の中央で伊吹が、ふっと、短く息を吐いた。肩が、わずかに上下する。
「――いきます!」
そう言って、伊吹は太ももに力を込める。ぶわ、と、彼の足元の打ち粉が舞った。
伊吹は迷わなかった。一歩目から最高速。両手剣を高く振りかぶりながらまっすぐ透のほうへ、一直線に。
気合は十分。踏み込みは深い。
太刀筋は、伊吹の中でいちばん信頼している、上段からの真正面の振り下ろし。
訓練場の空気を、ぶおん、と縦に裂きながら。その刃が、透の頭の上に、振り下ろされ――。
「っ!」
なかった。
日和の目には、ほんのわずかに見えた。
透の腰が軽く沈んだ。模擬刀の刀身が、だらりと下がっていた角度から、すうっと、ほんの少しだけ持ち上がる。
伊吹の刃が最高速で透の頭上に届く、その、ほんの半歩手前で。
透の刀身が、伊吹の両手剣の根元――鍔のすぐ近くを、すっと、軽く撫でた。
ただ、それだけ。
力を入れた音は、しなかった。
刃と刃がぶつかる、金属の硬い音もしなかった。
こつり、という形容しがたい、小さくて優しい軽い接触音が一度。それが鳴った瞬間。
伊吹の両手剣が自分の意思とは無関係な角度に、ぐにゃり、と滑った。
模擬刀を振り下ろそうとした伊吹の手元が流れた。
振り下ろされるはずだった刃は透の身体のすぐ横を、何もない宙に、ぶおん、と無駄に勢いよく通り過ぎていく。
慌てて体勢を立て直そうとした伊吹の左足が、自分自身の踏み込みの勢いに追いつかなかった。
伊吹の膝が、わずかに内側に折れる。その膝のすぐ横を透の足が、ふっ、と静かに踏み抜いた。
伊吹の体重が自分の崩れた重心の真上から外される。
次の瞬間には、伊吹は訓練場の地面の上に、ぺたん、と落ちた。お尻からきれいに、座り込んでいた。
「……えっ」
間の抜けた声が、伊吹の口から漏れる。
地面に片手をついたまま、自分の手元を見て、もう一度、目線を上げて、透の足元のあたりを見る。両手剣の柄を握り直す。
「……えっ?」
もう一度、理解不能だという声が無意識のうちに漏れているようだった。
美月の手のひらが、思わず、というふうに、自分の口元に当たっている。
すずなは、目をまんまるくしたまま、まばたきの仕方を忘れたみたいに、訓練場の中央を見ていた。
「……日和、ちゃん」
すずなの声が、囁きより、ほんの少しだけ大きい声で聞いてくる。
「い、いま、何が、起きました……?」
彼女の目でも見きれなかった、不意の一撃。
「私の師匠が伊吹くんの剣を、ちょん、てやって」
日和は自分でも、声がいつもより少しだけ得意げになっているのが、わかる。だけど、抑えられなかった。いま起きたことの説明を続ける。
「伊吹くんの体重が、自分で前に倒れたところを、足で、軽く、ずらしたの」
「あの一瞬で?」
「そう、一瞬で」
「えええ……」
すずなの口の中で声にならない驚きが、もごもごと、丸まっていた。
透が模擬刀を、また、だらりと下げたまま、伊吹の前に軽くしゃがんだ。
「大丈夫かい?」
「あ、はい、いや、はい」
伊吹は、お尻を地面についたまま、慌てて姿勢を取り戻そうとする。
「……すみません、その、立ちます、立ちますんで」
「うん。ゆっくりでいいからね」
差し出された透の手を伊吹は、一瞬、躊躇った。
たぶん、本人の中では、自分で立ち上がりたいプライドと、相手への敬意と、足の感覚への小さな不安が、ぐるぐる回っている。
最終的に伊吹は、その手を、おずおずと握った。
ふっ、と軽い力で、引き上げられる。
立ち上がってからも、伊吹は、しばらく、自分の両足の置き方を、確かめるように、軽く、二度、三度と踏みしめていた。
「あの、その――」
伊吹の声は、普段よりも半音だけ、高い。
「俺、いま、何、され、ました……?」
「うん。説明、いるかい?」
「はい。教えてください」
透は、模擬刀の柄を軽く持ち直しながら、ほんの少しだけ目元をゆるめた。
「君の突進力を、そのまま受け流した。その後は、意識が届いていなかった足元を狙った。何も考えずに、突っ込みすぎだね」
声は、穏やかなままだった。責める色は、まったくない。
「気合だけじゃ、相手の数や格が上がったときに通用しない」
「……はい」
「踏み込みは良かった。ただ、踏み込んだあとに、戻れる足を、必ず残しておくこと。今みたいに、刃を弾かれたとき、立て直せる軸が無いと困るね」
「はい」
「あと、上段からの一手は振り下ろしの軌道が相手からほぼ全部見えてる。最初の一手で出すなら、もう一段、フェイントを噛ませた方が、いい」
「はい!」
伊吹は両手剣の柄を、ぎゅっと握り直しながら、何度も、何度も頷いている。
ほんの一分前まで、「俺から行きます」と戦意をみなぎらせていた伊吹颯太が、子どもみたいにこくこくと素直に頷いている。
日和は、その光景を壁際から静かに見ていた。
私も、ああやって色々と実践形式で教えてもらったなと思い返しながら。
***
「……次、いいですか?」
「いいよ。来なさい」
次は神崎蓮が、すっと立ち上がって挑戦する。声は伊吹のときよりも、ひとつ、温度が低い。
さっきの一戦を目撃したから、不用意に飛び込まないようにと気をつけている様子。
相手の構え、視線、呼吸、足の置き方――必要な情報を整理してから、はじめて間合いに踏み込む。
伊吹を「先鋒の剣」だとすれば、神崎は「二の太刀」。
一段目に踏み込んだ敵の崩れを、次の一手で確定させる。日和たちのパーティーで、そういう役回りがいちばん向いているのが彼。
その神崎が伊吹の挑戦と撃沈を目撃した。しっかり、目に焼きつけていた。そこから情報を読み取って、活用する。
……やはり、伊吹のようにいきなり突っ込むのは、悪手。
その判断が、神崎の足の置き方の丁寧さに滲んでいた。
「お願いします」
神崎は、これから挑戦する透に向けて軽く頭を下げてから、細身の剣を、すっと中段に構えた。
刀身は、まっすぐ前。
透との距離は、自分の踏み込み一歩分よりも、ほんの少しだけ遠い。
そこから、一定。距離を測る。近づかない。離れも、しない。
「うん。お願いします」
透は相変わらず模擬刀を、だらり、と斜め下に下げたまま、ふらりと立っていた。
構えはまだない。一見すると、無謀のようにも見える。だが、ついさっき仲間があっさりとやられてしまった。だから、気を抜いてはいけない。
伊吹のときと、ほんの少しだけ立ち位置が、違っている。日和の目には、その差が確認できた。
半歩、外側。
神崎の細身の剣の、いちばん速い斬撃の届く直線から、ほんの少しだけ、ずれた位置。
訓練場の中央で、神崎の視線がゆっくりと、透の上を滑り出した。
肩。
肘の角度。
腰の位置。
膝の伸び方。
模擬刀の柄を持つ、指の握り方。
刀身が床へ向かう、その傾き。
それから、胸のあたりの呼吸の幅。
日和は、神崎の目の動きをまっすぐ追わなくても、その「視線がどこにあるか」が、肌でわかった。
戦闘パーティーで、長く一緒にやってきた。
神崎は相手の身体と癖を、同時にしらみつぶしに剥がしにかかっていた。
そんな彼の様子を見届ける美月が、小さな声で囁いた。
「……神崎、ぜんぜん攻めないね」
「うん」
「ねえ日和、これって、いい作戦?」
「……たぶん、神崎くん的には、いい作戦」
「日和的には?」
そう聞かれて、自分ならどうするか考える。師匠を目の前にして、考え込むのは危ないという結論。
「突っ込むのも危ないけれど、ああやって考え込むのも危険だと思う」
「なるほど」
すずなは、相変わらず、両手を膝の上で、ぎゅっと握ったまま、訓練場の中央を見つめている。
じりじりと、神崎の足が一歩ぶん、半歩ぶんだけ横に流れた。
間合いは、変わらない。
ただ、角度が変わる。
神崎は、透の右斜め前――いちばん攻め込みやすそうな線――を、自分の身体で、ゆっくりと選び直していた。
透は、その動きに無理についていかなかった。
ふらり、と自分も自然な半歩だけ軸足を入れ替える。
その動きが、あまりに無防備だった。自然に動いた足。誘いに見える隙。だが、そこに神崎は飛び込めない。タイミングは、今じゃない。
神崎の眉間のあたりに、ほんの一瞬、皺が、寄った。
日和には、それもわかる。
たぶん神崎は、伊吹のときに見えなかった透の動きの始まりを、自分の目で捕まえようとしている。
どの筋肉が最初に動くのか。体重がどこに乗り、どこから抜けるのか。刀身をいつ、どの角度で持ち上げるのか。
何ひとつとして、神崎の視野には引っかかっていなかった。
訓練場の照明の下で透は、いつもの透として、そこに立っているだけだった。
じり、じり、と。
神崎が、もう半歩だけ距離を測りなおす。
観察に専念する。
その専念の、ほんの半秒。
たぶん、神崎本人も自分の集中が視覚に一瞬だけ深く落ちた、ということがわかったかどうか、というレベル。
その隙間に、透が入った。
日和の目にも、最初の一歩は見えなかった。
二歩目の途中から、ようやく輪郭が追いつく。
模擬刀の刀身が、だらりと下がっていた角度から、すうっと持ち上がる動きより先に、透の身体がもう神崎の懐のすぐ正面にあった。
「くっ!?」
神崎の口から声が漏れる。同時に、細身の剣が咄嗟に内側へぐっと引かれた。
その反応は悪くない。ただ、間合いの内側で、剣を引いて構え直すには、ほんの少しだけ遅かった。
透の模擬刀の柄頭が、神崎の細身の剣のちょうど真ん中あたりを、こつんと、軽く突いた。
それだけで、神崎の剣の角度が本人の意思とは無関係に、外側へ流れる。
次の瞬間、透の空いている方の手のひらが、神崎の肩のあたりにふわり、と乗った。
ほんとうに、置いた、というだけの動作。
力は、入っていない。
ただ、その手の重さが神崎の重心の、ちょうどいちばん抜けやすい場所に、ぴたりと落ちていた。
神崎の身体が、まるで足を後ろから引かれたみたいに、すうっと、背中の方向に流れる。
ぺた、と、今度は神崎が地面の上に、お尻をついた。
「……」
神崎は口を、開かなかった。
代わりにゆっくりと視線を上げて、自分の前に立っている透の足元のあたりを、ただ見ていた。
「……動きが見えませんでした」
「うん?」
「いま、その、いつ踏み込み、ました?」
「ああ」
透は模擬刀を、肩の上に担ぐようにして、ほんの少しだけ首を傾けながら答えた。
「君が、観察に深く入った瞬間だ」
「……」
「君の呼吸が一拍、止まったところがあったから。そこで、だね」
神崎は、ゆっくりと自分の胸のあたりを、見下ろした。
たぶん、自分の呼吸が、いつ、どこで、止まっていたのか。その瞬間を、振り返って確認しているようだ。
美月が、口元に手を当てたまま、何も言わなかった。
すずなも目を、ぱちぱち、と。いつもの三倍くらいの速度で、まばたきをしている。
日和は、両腕を組んで頷いていた。
……うん。いつもの、師匠だ。
「警戒するのは、いい」
透の声は、また伊吹のときと同じ温度に戻っていた。穏やかで、責めの色がない。
「ただ、ダンジョンのモンスターは君が観察している間にも動く」
「……はい」
「一瞬のスキを突かれることを、頭の隅に置いておくといいよ」
「……はい」
「観察そのものは悪くない。むしろ、すごく丁寧だった」
ふっと、透の口元に、やわらかさが滲む。
「ただ、観察している間に相手側も、君の呼吸を見てくる」
「……」
「君が呼吸を整えたタイミングが、相手にとっては、いちばん、踏み込みやすい一拍になる。観察の時間が長ければ長いほど、その一拍は、はっきり見えてくるから」
「……はい」
「次に観察するときは、足の置き方を、ひとつだけ崩しておくといい。完璧な構えで止まると、相手から、ぴたりと止まって見える」
「……はい」
神崎の頷きは、伊吹のときよりも、ずっと回数が少なかった。
代わりに、頷きひとつひとつが深かった。師匠の教えを染み込ませようと聞き入る。
***
「……では、僭越ながら」
長椅子のいちばん端から、東郷誠一が、すっと立ち上がった。
立ち上がる動作にも、声にも、伊吹の熱さも神崎の慎重さもない。とても自然で、落ち着いた所作だった。
東郷誠一は、パーティーの指揮役だ。
戦闘そのもので前に出るタイプではない。けれど、全員の動きを盤の上に並べて、最適な手を組み立てる――その思考の速さは、日和の知る同年代の中でも、抜けて速い。
二人の戦いを傍から見て、得られた情報がある。それを活用して、透に対して少しでもなにか衝撃を与えられるように立ち向かう。
「お願いします」
東郷が軽く頭を下げ、長柄の槍を、ゆっくりと両手で構えた。
模造の槍は、樹脂で覆われた穂先を、まっすぐ透のほうへ。
間合いは、伊吹の踏み込みより遠く神崎の中段より、もう一歩遠い。長柄武器の利点を、最大限に活かす距離を心がける。
穂先の届く範囲ぎりぎりの外側に、自分の足を、そっと置いていた。
「うん。お願いします」
透は、相変わらず模擬刀をだらり、と斜め下に下げたままふらりと立っている。
その立ち位置は、東郷の槍の、いちばん突き込みやすい直線から、また、ほんの少しだけ外側に、ずれていた。
日和の目には、その「ずれ」が、はっきりと見える。
訓練場の中央で、東郷の構える槍の穂先が、ゆっくりと揺れた。
まっすぐ前から、ほんの少しだけ、左へ。
もう一度、まっすぐ前へ。
今度は、ほんの少しだけ、右へ。
穂先の角度を、刻むように変える。
日和には、その動作の意味もわかる。
あれは、東郷が、頭の中で、選択肢の優先順位を、入れ替えているときの、癖だった。
穂先を、左に振ろうとした自分。
穂先を、右に振ろうとした自分。
訓練場の中央で、東郷が構える槍の穂先が止まることなく揺れ続けている。
今度は、左。
いや、まっすぐ。
いや、ほんの少しだけ、上。
穂先の角度が、決まらない。
決まらないまま、東郷の足の置き方も、ほんの少しだけ左右に揺らいだ。
完全な構えで止まれば、神崎みたいに呼吸の一拍を読まれる。
かといって、足を崩しすぎれば長柄の重心が、ぶれる。
たぶん、そのあたりまで、東郷は計算している。
計算して、計算して、計算して。
まだ、最初の一手を踏み出していない。
そんな彼を前にして、透はふらり、と軽く、半歩前に出た。
ほんとうに、ただの半歩だった。
模擬刀の角度も、変わらない。
肩の力も、抜けたまま。
訓練場の中央を散歩のついでに、もう少し奥まで、覗きにいく――そんな温度の半歩。
ただし、その半歩で東郷の槍の穂先が届く外側から、届く内側になる。ほんの少しだけ、中に入った。
「あ」
横で見ていた伊吹が、思わず、というふうに小さく声を漏らした。漏らしたあとで、手合わせの邪魔をしてはいけないと自分の口を慌てて手で塞ぐ。
訓練場の中央では、まだ東郷の槍の穂先が、揺れていた。
左――いや、まっすぐ――いや、上――。
東郷の口元のあたりが、ほんの少しだけ動く。
たぶん、いま、ようやく、頭の中でひとつの選択肢が、はっきりと、形になりかけている。
最初の一手は、ここを、こう。次にこう来たら、こう返す。仮にここに踏み込まれたら――。
その、「踏み込まれたら」を、東郷が頭の中で組み立てている。その、ど真ん中で透は、ふらりと自然な動きで踏み込んでいた。
東郷の槍の穂先と、自分の身体との角度がほんの少しだけ変わる位置に、自然に立ち位置を直す。
長柄武器は、間合いを取れているときがいちばん強い。懐に入られた瞬間、その長さが丸ごと不利に裏返る。
東郷の槍の柄を、その刀身が外側から、すっと撫でた。
ことり、と。小さな軽い音。
神崎の細身の剣のときと、ほぼ同じ温度の接触音。
ただ、その軽い接触で東郷の槍の柄の角度が、本人の意思とは無関係に、外側へ流された。
東郷の頭の中で、いま最後に決まりかけていた一手はその瞬間に、動ける場所を失った。
長柄武器は東郷の手の中ではなく、もう外側へ流れ始めている。
体勢を立て直そうとした東郷の足が半歩、後ろへ。後ろの足の、ちょうど踵のすぐ後ろを透の足が、ふっ、と、軽く内側からすくった。
力は、入っていない。ただ、軸足の置き場所を軽く、ずらしただけ。
東郷の身体が、ふわり、と、後ろに倒れる。地面の上に、お尻が着いた。
倒れたあとも槍の柄を、しっかりと握って離さない。握り直す前に、もう一度、深く息をついた。
「僕の、いまの構えは、長柄武器の利点を最大化する間合いで、しかも、颯太や蓮、両方の負け方を踏まえた最小リスクの初期配置、だった、はずで」
「うん」
「相手から見て、最も組み立てにくい角度を、こう、選んだ、つもりで」
「うん」
「ですから、その、僕の構え自体は論理的には、最適だった、はずで」
「うん」
「……はい」
東郷の言葉は、最後の一拍で、ぽとり、と落ちた。
透が、しゃがんで、東郷の前に、軽く膝を折った。
「頭で、考えすぎだね」
声は、相変わらず穏やかなままだった。
「実戦では、考えながら動く」
「……はい」
「完璧な手を待っていたら、その間に相手が動く」
「……はい」
「君の構えは、たぶん論理的には、いちばん丁寧だった」
ふっと、透の口元に、やわらかさが滲む。
「ただ、論理的に丁寧、というのは、相手から見ると動きが遅く、止まって見える」
「……」
「動きの中に、決断と、検算を両方、混ぜる。完璧じゃなくても踏み込んでみて、動きながら修正する。次に同じ場面が来たら、まず半歩、踏み込んでみるといいよ。考え込みながら、同時に半歩だけ前へ」
「……半歩、ですか」
「うん。半歩」
東郷は、しばらく、その半歩という言葉を、口の中で、転がしているようだった。
差し出された透の手を、東郷は握る。ふっ、と引き上げられて立ち上がった。透の強さを実感しながら。




