第52話 師匠、来たる※日和視点
時計の針が、いつもよりずっと、ゆっくり進んでいるように見えた。
日和は訓練場前室のベンチに腰を下ろしたまま、もう何度目になるかわからない動作で、髪の毛先を指で整える。
学校指定のジャージの襟に手をやって、軽く立て直す。少しだけ緩めて、もう一度元に戻す。
窓の外をうかがう。校舎の渡り廊下には、昼下がりの光が静かに伸びているだけで、誰の姿もない。
壁の時計を見上げる。
まだ、予定の時間まで十五分以上ある。
はぁ、と細く息を吐いた。
――落ち着け、私。
胸の内で言い聞かせてみたが、効果は薄かった。膝の上に置いた手のひらが、しっとりと汗ばんでいる。気づかれないように、ジャージの腿でそっとぬぐった。
今日。今日、ついに、師匠が来る。
仲間に紹介する日が、ついに来た。
なんだか緊張している。盛大に、している。
「あれっ、日和。もう来てたんだ」
ふいに横から声をかけられて、日和は肩を跳ねさせた。
扉のところに桐谷美月が立っている。手を腰に当てて、少し首を傾げ、にやりと笑った。
「めっちゃ早いじゃん。今日の集合時刻、見間違えた?」
「あ、うん。違うよ。ちょっと早めに来ちゃって」
「ふぅん」
美月は、面白いものを見つけたような顔で、ベンチの隣に勝手に腰を下ろした。
「……ねえ、日和」
「な、なに」
「今、めっちゃソワソワしてない?」
指摘されて、ぐっ、と言葉に詰まる。
「……してない」
「してるって」
ふふ、と肩を揺らされた、ちょうどそのタイミングで、また扉が開いた。
「お、もう揃ってる感じか?」
伊吹颯太が片手をひらひら振りながら入ってくる。その後ろから、神崎蓮、東郷誠一、そして葉山すずなと、続けて顔を出した。
「あれ、朝倉さん、もう来てたのか」
「珍しいな。朝倉さん、他に色々と用事あって忙しいだろうに」
「日和さん、お疲れさまです……」
それぞれ声をかけながら、ベンチの周囲にぱらぱらと腰を落ち着けていく。
やってきた神崎が、腕を組んで日和の顔をちらっと確認する。
「朝倉さんが、そんなソワソワしてんの、はじめて見るかも」
東郷がしみじみと、けれど目元はしっかり笑いながら頷く。
すずなが自分の膝の上にちんまりと手を置いたまま、おずおずと口を開いた。
「あの、その……今日、本当に、来てくださるんですよね。日和さんの、その……、師匠って方」
「うん。来てくれる、はず」
そういう役目を依頼されて、指導官として学校にやって来るそうだ。少し前に話を聞いて、楽しみにしていた。そのことを仲間にも共有して、その日が来るのを待っていた。
壁の時計を、もう一度見上げる。予定の時刻まで、あと五分ほど。
「で、さ」
ベンチに片膝を立てて座り直した伊吹が、軽く手を打った。
「結局、今日来るって人、どんな人なんだよ」
来た、と日和は心の中で身構える。
「お前、ちょこちょこ話してたじゃん。朝倉さんの師匠だって、凄い実力者だとか、なんとか」
「うん……まあ」
「『特別指導官』として呼ばれるんだろ、学校に」
今度は東郷が、腕を組んだまま落ち着いた声で言う。
「それも、学校経由じゃないのに大活躍しているから色々と学べることも多いだろうって。学校側が指名して依頼したとか」
「うん。そうらしいよ」
日和は透から聞いた話を思い返しながら、頷く。正確には、政府が主導して今回の特別指導官の依頼になったと聞いていたけれど、その辺りの情報開示は勝手にしないほうがいいだろうと判断して、日和は頷いていた。
師匠のことは仲間たちにも簡単に説明していたけれど、そこまで深くは話していない。最初の頃は、師匠の存在を隠していたから。情報解禁になってからも、説明するタイミングを逃してきた。
今回が丁度良いタイミングだと思って、もう少し詳しく説明した。それ以上は実際に、会って判断してもらったほうがいい。仲間たちは、あの人の存在をどう受け止めるのだろうか。
「で、年は?」
神崎が、興味津々と言わんばかりに身を乗り出した。
「年齢、年齢」
「えっと……」
「あの日和より強いって時点で、結構いってるんだろ? ベテランの、こう、筋肉質な感じか?」
「筋肉質。なるほど」
伊吹が即座にオウム返ししながら、なぜか神妙な顔で頷いた。
「あー、それはあり得る。日和より強いとか、それくらい体を作り込まないと、普通は無理だろ」
「……あの」
「いや、武道家っぽい人かもな」
東郷が、ふむ、と顎に手を当てた。
「眼光が鋭くて、寡黙で、白い道着とか着てそうな」
師匠のイメージが勝手に作られていく。
「あれだ。背が高くて、筋骨隆々で、なんか威圧感あるタイプかもな」
「日和、そんな感じ?」
「ねえ、日和!」
三人で勝手に盛り上がりながら、ぐいぐい押してくる。
「それは、ちょっと想像と違うかも?」
日和は、その一言だけを、慎重に、空中に置いた。
「違う、ってどう違うんだよ」
「内緒」
「えー」
日和は、口の端を少し持ち上げて、それ以上は言わない。やっぱり、実際に会って判断してもらおう。自分が説明をしたら、実際のイメージとかけ離れてしまいそうな気もするから。そう考えて、日和は詳しくは説明しなかった。
あの人を「見て」もらいたい。
予習なしの、まっさらな状態で。
「とにかくさ」
伊吹が、改めて腕を組んだ。
「『日和より強い』っていう、そこだけは、本当なんだろ?」
「うん。それは、本当」
その質問に対して日和は即答し、はっきりと頷いた。
「……マジか」
伊吹が、ぼそりと呟いて、頭の後ろで手を組んだ。
神崎が、東郷の方を見て、ふっと笑う。
「……お前、信じられる?」
「信じたいとは思う。朝倉さんの言うことだし。でもな」
「でも?」
「やっぱり、朝倉よりも上ってのは、どうもな」
「だよな」
軽い苦笑が、男子三人の間に流れる。日和の実力を間近で見てきて、今もまだ成長を続けている彼女の実力よりも上というのは、やっぱり信じられなかった。
***
「あ」
ふいに、日和が、小さく声を漏らした。
窓の外、渡り廊下のあたりを、誰かが通り過ぎる気配がしたのだ。
ベンチに座った仲間たちが、自然と日和の視線を追って、窓の方を見る。
日和は、ほとんど反射的に、立ち上がっていた。
あの足音は、知っている。まさか、学校の中で聞くことになるとは想像していなかったけれど。
控えめで、けれど決して迷いのない、まっすぐな歩幅。
扉のすぐ向こうで、その足音が、ちょうど止まった。
控えめなノック。
「はい」
誰よりも早く、日和が返事をしていた。
扉が、静かに、開く。
「お邪魔します。みんな、集まっているね」
扉のすぐ内側で、男性が、軽く首を傾けながら、室内をぐるりと見渡した。
黒髪。すっきりとした立ち姿。
背は、低くはないが、騒ぐほど高くもない。肩幅も、太さも、騒ぐほどではない。
着ているのは、無地のシャツに、紺色のジャケット。下は黒のスラックス。学校に来る大人として、ちょうどよく整っている、というだけの服装。実は、これがいいのではないかと日和が選んだ服装。
眼光は、別に、鋭くはない。
筋骨隆々ではない。
威圧感は、ない。
そこに立っているのは、ただ、それなりに落ち着いた雰囲気の、ごく普通の優しそうな青年だった。
日和の足は、もう、勝手に動いていた。
「師匠。……来てくれて、ありがとうございます」
数歩のうちに、透のすぐ隣まで歩み寄っている。
透は、ふっと、軽く目元を緩めた。
「学校からお願いされてね、日和も通っている学校だから来てみたかった」
それから、ベンチの方へ向き直り、軽く一礼する。
「はじめまして。凪原透です。今日はお邪魔しますね」
大きくはない声。けれど、室内の隅まできちんと届く存在感がある。
日和は、息をふっと吐いた。
胸の奥が、すっと、落ち着いてしまったのが、自分でもわかる。
ベンチの方から、一拍、奇妙な間があった。
全員、何かを言いたそうな、けれど、何を言えばいいのかわからないような表情で、透と、その隣に立つ日和の方を見ている。
「……ふーん?」
最初に、声を漏らしたのは、伊吹だった。
「思ってたのと、違うな」
「うん」
神崎が、無言のまま、強く頷いた。
「全然、違う」
「だな」
東郷の声には、なぜか少し、笑いが混じっていた。
「……日和、これはちょっと、聞いていた話と違くないか?」
「聞いていた話、ってどんな話?」
日和は、すまし顔を取り戻そうとしながら、ちらりと振り返る。
「いや、こう、ゴリゴリの、ベテランの……」
「私、そんなこと、一言も言ってないけど!?」
「……確かに、言ってなかった」
それは、彼らが想像して話していた師匠のイメージ。勝手に脳内で固めてた。
透は、その様子を、ちょっと面白そうに、けれど何も口を挟まずに、静かに見ていた。
日和は、ふと、隣の透の横顔を見上げる。
透は、視線にすぐ気づいて、ほんの少しだけ、こちらに目線を落とした。
目が合う。
別に何も、言葉は交わさない。不思議な気分だった。いつもと違う場所で、師匠とこうして並んで立っている。最近は地方への出張で、一緒にいられる時間も減っていた。なので、こういう時間が貴重だと思える。
そんなわずかな一瞬を、親友の美月が見ていた。ベンチの端で片手を頬に当てたまま、わずかに目を細める。唇の端が、ほんの少しだけ面白そうに持ち上がった。
「えっと、改めて――紹介、しますね。凪原透です。みんな、よろしく」
すっと、軽く頭を下げる。
動作にも、声にも、なんの気負いもなかった。
「学校からの依頼で、ちょっとした指導をすることになりました。普段は協会から依頼される仕事を処理したり、日和の師匠もしています」
日和は、透の隣で、ちょっとだけ、誇らしい気持ちになる。
「日和の師匠もしています」――その肩書きを、透自身の口から改めて聞いた瞬間に、胸の真ん中がふっと温かくなった。この人が、私の師匠。大事な人。
ベンチに座っていた仲間たちは、ほぼ同時に姿勢を正した。
最初に立ち上がったのは、美月だった。
「桐谷美月です」
ぺこり、と頭を下げる。表情には、すでに、いつものリラックスした空気が戻っていた。
「日和とは、この学校で出会ってから仲良くしています」
「うん、よろしく」
次に立ち上がったのは、すずなだった。
「は、葉山すずな、です……っ」
声は明らかに、少し裏返っていた。人見知りでもあるので、初めて出会う大人に少し緊張している。
「に、みんなと同じ、二年、です……ぁの、よろしくお願いします、ます……」
「うん。葉山さん、ね。よろしく」
透は、すずなの慌てぶりを急かしたりせず、ただ彼女のテンポを尊重して、丁寧に名前を受け取った。
すずなが、ぺこんともう一度頭を下げてから座り直す。
胸のあたりで、両手をぎゅっと握っているのが日和の目に入って、かなり緊張しているようだ、と内心で苦笑した。
次は、伊吹の番だった。透にじっと視線を向けて、丁寧に自己紹介する。
「伊吹颯太です。前衛、やってます。よろしくお願いします、凪原さん」
「うん、こちらこそ」
透が、軽く頷く。
伊吹は頭を上げてからも、ほんの少しだけ視線を、透の肩のあたりに止めていた。
立ち姿、腰の位置、足の置き方――。
日和は知っている。伊吹がいつも、相手の身体の動きに注目する様子。そこから、情報を集めようと、視線を向ける仕草を。
いま伊吹の視線は、まさしくそれだった。
そんな伊吹の目元に、ほんの一瞬、戸惑いに似た揺らぎが走った。
本当に強いのか、と疑うような視線。気配をコントロールする師匠の強さを、彼は把握できていない様子。でもそれは、仕方のないことだと思う。
「神崎蓮です。盾役、やってます」
次に立ち上がった神崎も、丁寧に頭を下げたあと、ゆっくりと顔を上げた。
「よろしくお願いします」
「うん、よろしく」
神崎の目線は、伊吹のようには動かなかった。むしろ、固定したまま、だった。
透の重心、肩の高さ、腕のだらりとした置き方――そのあたりを、じっと、観察している。
神崎は、相手の「隙」を見るのが上手い男だ。戦いのとき、どこをどう攻めれば崩れるか、を肌で測る癖がある。
いま神崎は、それを探していた。どうやら彼も師匠の強さを測りかねている様子。
最後に立ったのは、東郷だった。
「東郷誠一です。一応、隊では、指示役を、やらせてもらっています」
「ああ、なるほど」
透の声に、軽い感心が混じる。
「君が指示役か。凄いね。日和からも色々と話を聞いているよ」
「いえ、皆が、ちゃんと、動いてくれるので」
東郷は、はにかむように、それでも控えめに微笑んだ。
「あらためて、よろしくお願いします」
「うん。これからよろしく」
透が、最後に、メンバー全員のほうへ、軽く一礼を返した。
丁寧な挨拶を終える。仲間たちも、それぞれ、そんな雰囲気を感じて、師匠のことをいい人そうだ、と受け止めているのが表情からよく伝わってくる。
***
「せっかくだから、まずは手合わせをしてみようか?」
透のその一言で、その場の空気の角度が変わった。
ベンチに腰を下ろしていた男子三人が、一拍、固まる。
誰の口からも、すぐには返事はなかった。
ただ、彼ら三人の目元のあたりだけが、
ゆっくり、はっきり、――変わった。
戸惑いの揺らぎが、ある一点で止まる。次の瞬間その表面に、ぱちん、と小さく火が灯ったように見える。対抗心、戦意という火が。
「……いいんすか?」
声は控えめ。けれど語尾には、隠しきれない熱がある。
「うん。よかったらね」
軽く頷く透の様子は、受けて立つと言わんばかりに堂々としたものだった。そんな透の様子に、戦意をみなぎらせる伊吹が言葉を発する。
「望むところ、って言ったら、失礼ですかね」
「いや、ありがたいよ」
透の口元に、ほんの少しだけ、笑いが滲む。
東郷が最後に、ゆっくりと姿勢を正した。
「では、僭越ながら、お願いします」
自分の観察眼や頭で納得しきれなかったぶんを、実際に手合わせして身体で確かめさせてもらおう。その機会を得られた。そう思った東郷。
日和は隣で、再びふぅっと息を吐く。師匠は、彼らの実力を測るために実際に手合わせする。それが一番手っ取り早いと考えているから。
「いきなり、手合わせですか? 今から?」
「うん、今から」
美月は少し不安そうに問うと、透はごく軽い口調で頷く。
「あ、あの……」
すずなも、急にうろたえ始めた。
「お、お手柔らかに、その、お願い、します……怪我とか、その、しないように、こう……」
「もちろん、大丈夫だよ」
透は、すずなのほうに軽く膝を折るような角度で、目線を下ろす。
「軽くやるつもりだから」
「ほ、ほんとですか……?」
「うん。ほんと」
すずなは、両手をぎゅっと胸の前で握ったまま、こくこく、と何度も頷いた。それを聞いていた男子たちは、少しだけムッとした表情を浮かべる。
美月は、すずなとは少し違う温度の心配のしかたで、ベンチから立ち上がりつつ、こちらをちらりと見てくる。
「……日和」
「うん」
「ほんとに、大丈夫なやつ?」
ねぇ、と語尾だけ、軽く尋ねるように上げてくる。その視線には気遣いがあった。いきなりそんなことをして大丈夫なのか。仲間たちに対して、師匠が怪我をしないかどうか、両方を案じている目だった。
「うん。大丈夫」
だから日和は、はっきり頷いた。
「軽くやってもらえるから。それにたぶん、すぐ終わるから」
「……早く、終わる」
「うん」
それが当たり前だと。師匠は、本当に凄いんだから。向かい合ってみたら、すぐにわかる。この後すぐ、そのことを仲間たちも理解するはずだ。
「日和、あんた、いま、ちょっと顔がにやけてるよ」
「えっ!? いやいや、にやけてないっ」
「にやけてるよ」
くすりと笑った美月に頬の横を指先で突かれて、日和は、慌てて表情を引き締めた。
「じゃ、手合わせできる場所に移動しようか。どこか、あるかな?」
透が、軽く扉のほうへ視線を向ける。
「訓練場があります」
「なるほど、訓練場。今から使えるかい?」
「あ、はい。うちのパーティーで使えるように予約してありますので」
「じゃあ、みんなで移動しよう。案内を頼むよ、日和」
「はい!」
日和は、すっと先に立った。透が、そのすぐ後ろについて歩き出す。そんな二人をパーティーメンバーが並んでついていく。
前室から廊下に出ると、午後の光が静かに伸びていた。いい天気だ。
屋外訓練場がある場所までは、そう遠くない。その場所まで案内しながら日和は、少し後ろに立つ透の表情をチラッと見上げて確認する。
穏やかなままの、けれど、異空間にある訓練場で見せてくれる「あの目」に、ほんの少しだけ近い表情。まだまだ本気じゃないけれど、ちゃんと仲間たちの実力を見極めてもらえる。彼らにとっても、とても良い機会になるだろう。
日和の胸の中で何かが、ぱたぱた、と楽しそうに音を立てる。
……うちの師匠は、本当に、凄いんだから。
今日、それをみんなが知ることになるはず。
訓練場の扉の前で、日和は一度足を止めた。扉に手をかける。ひんやりとした、金属の感触。その扉を開ける。
後ろから男子三人の呼吸の気配が、しっかりと伝わってきた。
振り返って見てみると、伊吹も、神崎も、東郷も、すでに臨戦態勢完了の顔をしていた。師匠に勝ってやろう、という気持ちがあるのかもしれない。
これから、日和の仲間と透の手合わせが行われる。




