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第50話 いってきます

 出発の朝は、空がまだほんのり藍を残している時間に始まった。


 透は普段通りの時刻に起き、洗面を済ませ、朝食の後には淹れた茶を一杯、静かに飲み干した。長年の暮らしで続けてきた、いつも通りのルーティーンを済ませる。


 用意しておいた荷物は、必要最低限。


 着替えを数日分、洗面用具、いくつかの装備類。それらを入れたバッグの口を閉じて置いてある。万が一の場合は、ボックスから必要なものを取り出せるようにしてあるので身軽なものだ。


 肩にバッグを掛けて、靴を履く。管理部屋から外廊下へ一歩踏み出した、ちょうどそのときだった。


「透さん」


 声がして、透は視線を向ける。


 外廊下の少し先、階段の手前に、日和が立っていた。早朝の空気の中、ぴしりと制服に袖を通し、髪も丁寧に整えて、まっすぐ背筋を伸ばしている。隣には陽子が、薄手のカーディガンを羽織って、穏やかに立っていた。


 透は少しだけ目を瞠った。見送りに来てくれるとは思っていなかった、というのが正直なところだった。


 仕事のことも、鍵の使い方も、共用スペースのことも、留守中の段取りはすべて昨日までに伝え終えている。連絡先も渡してある。だから今朝は、いつも通りに玄関を出て、そのまま迎えの車に乗り込むのだろう、と――当然のように、そう考えていた。


 けれど、二人はそこにいる。


 わざわざ早朝に起きて、身支度を整えて、外廊下の上で並んで、自分が出てくるのを待っていてくれた。


「……日和に、陽子さん。早いね、待っててくれたんだ」


「はい」


 日和は短く頷いた。


「見送りだけは、と思いまして」


 その言い回しに、内側で笑顔を浮かべる。まだ寝ていられるはずなのに、わざわざ起きてくれたのか。


「陽子さんも、一緒に」


「ええ」


 陽子のほうは、軽く頭を下げる。


「お見送りくらい、私もご一緒させてくださいな」


 柔らかな声だった。早朝の空気が、その響きにそっと馴染んでいる。


 透は短く「ありがとう」とだけ返して、玄関の戸の鍵をかけてから、扉がちゃんと閉まっているか確認する。鍵を確認しながら、思う。


 見送ってくれるの、純粋に嬉しいな。


 声に出すには、まだ少しだけ照れがあった。けれど、否定する気にもなれなかった。誰かが、自分の出かける朝のためだけに早く起きて、そこに立っていてくれる。その所作の温度は、しばらく透が感じていなかったもの。


 外廊下を少し進んだところで、透はふと足を止めた。


 言うべきことは、もう多くない。あとは――。


「じゃあ、後は任せるね」


 短く。けれど、確かに重さを乗せて。


 日和の目元が、ぱっと明るくなる。


「はい、お任せください!」


 声は明るく、力強かった。早朝の外廊下に、その響きがよく通る。陽子が傍らで、そっと目元を緩めるのが見えた。


 陽子のほうも、静かに頷いてくる。


「お留守の間のことは、私たちにお任せになって、お仕事に専念なさってくださいね」


 その言葉には、押しつけがましさが一切なかった。引き受けます、と大袈裟に宣言するでもなく、ただ自然に、肩の力を抜いたまま受け止めてくれる。


 透は、心の中で軽く息を吐く。


 こうして、安心して他の誰かに預けられるようになったんだな――ふと、そう思った。


 大げさに感慨に浸るような場面でもないけれど。


 外廊下を抜けて、アパート前の通りへ進む。


 空はまだ薄暗いが、東のほうから、藍色の中にうっすら桃色が滲み始めていた。早朝特有の、空気がしんと冷えて、けれどどこか柔らかい時間帯だった。


 迎えの車は、まだ到着していない。協会からの事前連絡によれば約束の時刻まで、あと十分ほど。


 透はアパートの玄関先で、肩のバッグを軽く掛け直した。


 振り返ると、外廊下の手すり越しに、日和と陽子が並んで立っているのが見える。日和はその場所から、一歩も動かずに、こちらをまっすぐ見下ろしていた。陽子はその少し後ろで、両手を前で軽く揃えたまま、変わらず穏やかに見守っている。


 透の目には朝の光の中に並ぶ二人の姿が、不思議なくらい印象に残った。


 その光景を眺めながら透は、軽く息を吸う。そして、その言葉を二人に向けた。


「いってきます」


 短く、けれど、確かに。


「いってらっしゃい!」


 日和の声が、迷いなく返ってきた。


 声の張り方も、間の置き方も、年相応の明るさを残したまま、けれど芯のところに、しっかりと頼もしさが通っている。彼女に任せたら大丈夫。そう思えた。


「いってらっしゃいませ」


 陽子のほうは、少しだけ間を置いて、柔らかく続けた。


 二つの「いってらっしゃい」が、空気の中にゆっくり溶けていく。


 透は、軽く頷いて、踵を返そうとした――。


 が、そのとき。


「無事に帰ってきてね!」


 日和が、勢いよく続けてきた。


 ずいぶんと熱のこもった一言で、しかも声がよく通る。早朝のアパート前に、その響きがやけにはっきりと通った。


「……日和。朝だから、もう少し静かに、ね」


 テンションの高い日和に対して陽子が低めた声で、しっかりと注意する。


「いいえ、お母さん、これは大事な――」


「他の人の迷惑になるからね」


「は、はい」


 日和が慌てて姿勢を正したまま、少しだけ頬を赤らめる。それを見守る陽子の目元には、隠しきれない笑みが滲んでいた。


 透もまた、口の端をわずかに緩める。


 日和は背筋を伸ばし、まっすぐに前を向いて手を振ってくる。陽子はその傍らで、両手を前で軽く揃え、落ち着いた様子で佇んでいる。


 透も手を振り返してから、ようやく出発。踵を返して、数歩、歩き始める。


 歩きながら、内側でぽつりと言葉が生まれる。誰かに見送られて、仕事に行くのか。


 不思議な感覚だった。


 会社員時代は一人暮らしで、その時には誰にも見送られない朝が当たり前だった。 それが、今朝は違う。


 外廊下の上で二人が並び立ち、こちらを送り出してくれる。そういう朝の輪郭が、自分の人生にも、できたんだな。


 ――これ、新婚みたいだな。


 そう、自分の内側で、ぽつりと生まれてきた言葉だった。


 誰かに見送られて朝に家を出る、その所作の温度が、自分の知っているどんな概念に一番近いかと言えば――そういう言葉だった、というだけのことだ。


 将来、こんな朝が当たり前になるのかもしれない。現場へ向かう前に、日和が見送ってくれるような暮らし。


 今この瞬間が、温かかった。


 ひとりの暮らしを続けてきた自分の生活にはなかった温度だ。こうして送り出してくれる相手と出会えたことを、透は静かに幸運だと思った。



***



 アパートの前から少し離れた道路に、その車は静かに停まっていた。


 協会を経由して政府が手配してくれたという、迎えの車だろう。時間通りに来てくれたみたいだ。


 黒塗りの車体は、思っていたよりずっと大ぶりで、車高もどっしりしている。普段、街中ではあまり見ない種類の車だった。


 近づくと、運転席から中年の運転手が降りてきて、慇懃に頭を下げてくる。透も短く会釈を返し、案内されるまま後部座席に乗り込んだ。


 そして、思わず内心で感心した。


 後部座席は、思いのほか広い。シートは深く、肌触りの良い革で、頭の位置から腰の支えまで、丁寧に造形されている。脇には小さな収納とコンセント、折り畳み式の作業用テーブルまで備え付けられていた。


 運転手がドアを閉めると、外の音がすっと遠のく。遮音性も、なかなかのものらしい。


 透は、肩のバッグを脇に下ろし、シートに身体を預けた。


 走り出した瞬間、揺れの少なさにも気づく。普段、自分が運転する車とは明らかに違う、空気を撫でるような滑らかな発進だった。


 わざわざ、ここまで整えてくれたのか。


 とはいえ――これだけ揺れが少なく、座り心地もこの水準なら、長時間の移動でも疲労は確実に減る。これから全国を回る機会が多くなっていくだろうと想定すれば、こういう体制を整えてくれたのは率直にありがたくて、感謝しかない。


 窓の外で、景色が流れ始める。


 まだ薄明の街は、ぽつぽつと早朝の灯りを残しながら、ゆっくり後ろへ滑っていった。見慣れた信号の角、いつものコンビニ、隣の通りの古い喫茶店。あの一帯を抜けると、徐々に車は街の外周のほうへと向かっていく。


 地元が、少しずつ遠ざかっていく。


 透は窓に視線を預けたまま、心の中で、ゆっくりと整理を始める。


 外廊下の上で、二人が見送ってくれた――その光景が、頭の中にはっきりと残っているからだ。


 戻る場所が、ある。


 留守を任せた相手は、新たな関係を築いた大人と、ここ最近で何より大切になった人だ。日和と陽子が、留守を守ってくれている。とても心強い。


 窓の外を、ぼんやりと眺める。


 景色は、もう街の外周を抜けて高速道路に入ったようだ。知らない場所を、どんどん進んでいく。このまま目的地まで連れて行ってくれるので楽なものだ。早朝の藍は薄れ、空の端から淡い光が滲み始めている。


 車内には、エンジンの音すらほとんど届かない。


 透は、目を閉じはしなかった。


 ただ、流れていく景色の中で、未知の現場の輪郭を、ゆるやかに頭の中で整え始める。届いていた依頼の数々、地方ごとの優先順位、現地で確かめなくてはならない事柄。意識の焦点が少しずつ、行き先のほうへと寄っていく。


 車は静かに、迷いなく進んでいた。

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