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第48話 もう一歩※日和視点

 授業終了後の活動棟、二階の奥にあるパーティー別に振り分けられた作業室。


 扉の向こうから、軽い足音と微かな鼻歌が近づいてくる。


 神崎が手元の資料から顔を上げ、伊吹と視線を合わせた。東郷はテーブルに広げた地図の角を押さえたまま動きを止め、すずなは書きつけていたペンをふと宙に浮かせる。


「あ、来た」


 伊吹が小さく呟いたのと扉が開いたのは、ほぼ同時だった。


「ごめん、お待たせ」


 そう言って入ってきた朝倉日和は、見るからに上機嫌だった。


 声のトーンが普段よりも半音ほど明るく、鞄を椅子に下ろす所作にもどこか弾みがある。歩幅が大きい。机を回り込むときに、ほんの一瞬――ステップを踏みかけて、自分で気づいたように、慌てて姿勢を整え直した。そのまま、何事もなかったかのように席に座る。


 そんな彼女の様子を見たメンバーは一拍、沈黙が落ちる。


 それから、神崎がぼそりと言った。


「……朝倉さん、最近やたら機嫌よくないか?」


「え? そうかな?」


 日和が、指摘してきた神崎に視線を向ける。心なしか、声が上ずっていた。


「いやいや。今のスキップしかけてたよ」


 横に座る美月が口を挟み、指摘が正しいと証言する。


「し、してないし」


「してた」


「断じて、してない」


 美月がにやにやしながら、椅子の背に肘をのせる。


「気持ち悪いくらい機嫌いいよねー、最近の日和は」


「ちょっと、気持ち悪いって何よ」


 そんな友人二人の軽口の応酬に、東郷が苦笑を漏らし、すずなが口元をそっとほころばせた。


 少し前まで、この部屋の空気は微妙に重たかった。パーティーの中心に立つ日和の存在が、良くも悪くも雰囲気に影響を与えていた。


 それが、今は。


 卓を囲んで交わされる軽口、神崎の呆れた声、伊吹のからかい、すずなの控えめな笑み。


 日和の上機嫌に引きずられるようにして部屋全体が明るく揺れていることは、彼女もなんとなく理解していた。


 日和は、胸の内で静かに思った。


 やっぱりちょっと、浮かれ気味だったかな。気持ちを切り替えていかないと。


 鞄から手帳を取り出しながら、頬にじわりと上ってくる熱を、平静を装って押し戻す。


「えーと、じゃあ今日の課題探索の段取り、東郷くんお願い」


「ああ。地図はもう共有してる通りで――」


 東郷の落ち着いた声が、明るく軽い空気の上に、するりと載った。



***



 仮資格で受けられる範囲の課題探索は、ここしばらく順調に攻略が進んで、実績を積み重ねていた。


 学校から下ろされる実践課題、低層から中低層の攻略はすでに完了している。今は地域協会から回ってくる調査のお手伝い。週に一回のペースでこなしていて、報告書の提出も完璧。


 その日の現場は、市内近郊の中低層ダンジョンだった。


 入口の前で、日和は手早く隊列を確認する。


「東郷くん、フォーメーションは前回と同じで。最初の階層は伊吹くん先頭、すずなが二番手、神崎くんは中衛、美月は後ろから索敵お願い」


「了解」


「うっす」


「はーい」


「了解。罠の気配あったら止めるから」


 短い応答が返る。それだけで隊列ができあがる手応えに、日和は小さく頷いた。


 地の底へ続く道を、六人のパーティーが一列で滑るように進んでいく。いつでも戦闘を始められるように警戒を続けながら。


 最初の遭遇は、二階層の角だった。


 大きな影が三体、メンバーが視線を交わして頷く。察知される前にすずなの刀が一閃。先頭の一体が崩れたのと、伊吹が大きく踏み込むのが同時だった。


「右、もう一体来る。すずな、引いて」


「うん」


 日和の声に、すずながひと呼吸で敵の間合いから離れる。入れ替わりに伊吹が前に出て、神崎が斜めに盾を構えた。三体目が美月の「左、罠っぽいの気をつけて!」のひと声で進路を変え、そこへ伊吹の追撃が刺さる。


 数秒。


 敵に息ひとつ吐かせないうちに、片はついていた。


「……うん。今のは、悪くなかったんじゃないか?」


 戦闘を終えて、周囲の警戒も行って無事を確認した神崎が盾を下ろしながら言う。とても満足そうに頬を緩めながら。


「悪くないどころか、今ちょっと俺らかっこよかったよな?」


「はいはい、自分で言わないの」


 美月にぴしゃりと返されて、伊吹が「えー」と唇を尖らせた。


 移動の合間、男子陣のいつもの掛け合いが続く。神崎の細かい指摘に伊吹が反論し、東郷が淡々と仲裁に入る。すずなが彼らの様子を見て小さく笑い、美月が腰の鞄から携行食を取り出して回し始めた。


「日和、これ食べる?」


「食べる、ありがと」


「ご機嫌ついでに、いっぱい食べな」


「……ついでって何よ」


「ふふ」


 美月の含み笑いに、日和は短く息をつく。


 ――気づかれてる。けど、一定以上は踏み込んでこない。


 こちらの内側を察しながらも、聞かないでいてくれる。その距離感が、今の自分にはちょうどいい。


 話したくなったら、自分から話す。隠し通すつもりはない――けれど、急いで切り出すこともしない。師匠のこと、自分の恋人のこと、どうやって話そうかな。


 日和はタイミングを測りつつ、とりあえず今はダンジョン攻略に集中する。


 中盤、想定よりも一段強い個体が出た場面でも、日和の判断は迷わなかった。


 すずなを軸に間合いを作り、伊吹の踏み込みを一拍だけ遅らせ、神崎の盾で受けた直後に自分が前へ抜ける。剣の角度、踏み込む足、息を吐く間隔――そのすべてに、訓練場で師匠に研がれた感覚がするりと乗っていた。


 決着は、思っていたより早かった。


「……朝倉、今の攻撃、ちょっとヤバくなかったか?」


 伊吹が呆れ半分、感心半分の声で言う。


「そうかな」


 そんな会話を交わしながら目的地に到着して、メモに記録。そのまま踵を返して、地上へ帰還した。


「お疲れさま」


「お疲れー」


「お疲れさん」


「じゃあ、解散で」


 ダンジョンから無事に帰ってきた仲間たちが、緩んだ足取りで散っていく。この後、持ち帰ったアイテムの整理や武器の整備を行う。



***



 その日は、学校帰りに駅前で透と落ち合う約束をしていた。


 駅前ロータリー、ガラス張りの入口の脇で恋人の到着を待っていた。


 気づくと、自分の指先が無意識に前髪を撫でつけていた。慌てて手を下ろす。次に、無意識に鞄の位置を直しかけて、また気づいて、手を下ろした。


 ――なんだか、落ち着かないな。


 視界の端に、見覚えのある背丈が現れた。


 黒いシャツに、薄手のジャケット。


 歩き方が、ふらりと、緩い。


 雑踏の中で、その人の輪郭だけが、なぜか妙にくっきり見える。


「待たせたか」


「いいえ、透さん」


 透が、申し訳なさそうに言う。予定通りの時間だし、待っている時間も楽しくて、あっという間だったので何も問題はなかった。


「そっか。じゃあ、行こうか」


「はい」


 二人は、ショッピングモールへ続く連絡通路を、並んで歩き出した。二階の婦人服フロアまで上がる。


 平日夕方の柔らかい人通り、白っぽい照明、軽いBGM。


 ハンガーラックの間を抜けながら、日和は小さく息をついた。


 ――こうやって、のんびり服を見るのって、ほんと久しぶりだな。


 最近はダンジョンと訓練ばかりで、こういう時間は遠ざかっていた。久々に並んだ衣服類が、目に新鮮に映る。


 値札を裏返して、ちらりと見る。


 以前のように、肩を落として戻す、ということがない。


 探索士の稼ぎがあるから、選ぶのに余裕がある。「これ可愛いな」と思った服を、そのまま手に取れる。その嬉しさを、しみじみと噛みしめながらフロアを巡る。


 ふと、透の方を振り返る。


 透は、両手をジャケットのポケットに突っ込んで、ハンガーラックを所在なさげに眺めていた。明らかに、自分から選ぶ気はなさそう。


「透さん。なにか、見ていきません?」


「いや、俺はいいよ。日和の買いたいものを優先してくれ」


 あっさり、そう返ってくる。


 日和は、にっこり笑った。


「そうですか。じゃあ、透さんの分も私が選びます」


「え、おい」


 自分の買い物を優先してくれと言われた日和は、手近のラックから淡い色合いのシャツを引き抜いて、透のところへ歩み寄る。


「これ、似合いそうです」


「ん? そうか」


 日和は透の胸元に軽く当てて、ふむ、と一歩離れて確認する。


「……じゃあ次、こっちを」


 別の色。今度は深めのネイビー。


「あ、これも、いいですね」


 次に、季節物の薄手のジャケット。


 透は、ずっと「されるがまま」だった。


「……いや、俺よりも日和のを優先してほしいんだが」


「私が見たいんです」


 即答すると、透が小さく笑って、肩の力を抜いた。


「わかった。じゃあ、日和に任せるよ」


 近くを通った店員さんが、こちらを見て、口元をそっと緩めている。


 その視線に気づいて、頬がほんのり熱くなった。


 ――いまの私、ちょっと、彼氏を着せ替え人形にしてる彼女、っぽいかな。


 その通りなんだけれど、周りから見られているのを感じると、まだちょっと恥ずかしい気持ちもある。こういうの、なんだか青春っぽい。


 透に「いいね」と思ってもらえる服を、自分も着たい。


 透にも、自分が「素敵」と思える服を、着ているところを見てみたい。


 その小さな欲が、今日はちゃんと、自分の中で許せる。


 結局、二人それぞれ、日和の見立てで一着ずつだけ、控えめに選んで会計を済ませた。


「悪いな、選ばせて」


「いえいえ。私が選びたかったので」


 紙袋を片手に提げて、透が穏やかに言う。


「君が選んでくれて、嬉しいよ」


 その一言で、また胸が静かに揺れた。



***



 同じフロアのカフェコーナーへ移る。


 ショーケースに並ぶ「期間限定」のラベルが、目に入った瞬間に注文は決まった。


 日和は透と相談して、苺のミルフィーユとピスタチオのタルトをそれぞれ頼んだ。それを二人で半分ずつに分けて食べることに。


「わあ、美味しそう。いただきます」


 運ばれてきたお皿をしばらく眺めてから、ひとくち含む。その瞬間、表情がふっと緩むのが、自分でも分かった。


 ――おいしい。


 訓練とダンジョン攻略の運動量があるから、こういう甘いものを食べても以前ほど神経質に体重を気にしなくていい。


 その気楽さが、ありがたい。


 ただし。


 ――油断は、禁物。


 ガチガチに気にしなくていいのは本当に嬉しい。でも、ゼロにはしない。透に幻滅されないように、最低限の体型維持はちゃんとしたいと考える日和。


 以前よりは気にならない。それでも、やっぱり、ちょっとは気になる。その変化を、ちゃんと忘れないようにしたい。


 向かいでは、透がタルトをひと口、静かに咀嚼していた。


「……どうですか?」


「うん。うまいな」


「美味しいですよね!」


 同じ感想を言い合える。それが嬉しかった。


「……日和が美味しそうに食べているのも、かわいいな」


「あっ」


 透は笑顔を浮かべて、何でもないようにそんなことを言う。


 日和は不意打ちの衝撃で、フォークを取り落としそうになった。


 ――かわいいって。そういうのは、ずるい。


 頬の熱さを誤魔化すように、急いでミルフィーユをひと口含む。


 ふと気づくと、二人で取り分けたはずのタルトが、自分のお皿に、少し多めに残っていた。


 顔を上げると、透は何食わぬ顔で、コーヒーを啜っている。


 わざわざ言わないけれど、さり気なく譲ってくれている。


 その小さな配慮が、とっても嬉しい。いやでも、体重管理が……。うん、仕方ないから今日だけは食べてしまおう。その分、訓練を頑張るから許して。


 モールを出て、夕方の街を駅まで透と一緒に並んで歩く。


 空が、薄く茜に染まり始めていた。日和の鞄には、今日選んだ服の紙袋が軽い重みでぶら下がっている。


 ――今日も、全部よかったな。


 服選びも、スイーツも、雑談も。


 ひとつひとつが、満ち足りた一日を、少しずつ積み上げていた。


 透は隣で、特に何を喋るでもなく、ゆっくり歩いている。


 その沈黙が、心地よかった。


 ――透さんは、本当に、私を大事にしてくれているんだな。


 席の選び方、頼む量、ペース合わせ。


 値札を気にしないで「これ可愛い」と言える環境に立てるようになったのは、彼が導いてくれたから。それを忘れちゃいけない。彼は、それを恩着せがましく言うことはないのだから。


 ぜんぶ、押しつけがましくない、けれど、確かに届いている配慮だった。


 その配慮が、嬉しい。


 嬉しい、けれど――


 ふと胸の奥に、ちりっと、別の感情が点いた。


 ――もう一歩、近づきたいな。


 透の配慮は、自分のことを思ってくれているからこその配慮だ。大事にしてくれている。その線を、自分から急かして崩したくはない。


 だから、口にはしない。行動には出ない。


 今のこの距離を、急がずに、存分に味わう。


 歩幅が自然と揃って、ふと、透の指の甲と、自分の手の甲が触れた。


 それだけ。


 けれど、それだけで十分だった。それがいいと思えた。


 やがて、見慣れた角を曲がる。


 灯りの灯ったアパートの輪郭が、ゆっくりと近づいてきた。


 管理人室と、母と暮らす二階の一室。


 帰り着く先が、同じ建物だという当たり前が、今日はなんだか、ちょっとだけ特別に思える。


「今日は、付き合ってくれてありがとうございました。とっても楽しかったです」


「ああ、こっちこそ。楽しかったよ」


 透が、いつも通りの穏やかな声で言って、管理人室の扉の方へ歩いていく。


 その背中を見送ってから、日和は階段に足をかけた。


 階段を上がって、二階の自宅の扉を開ける。


 空は、すっかり藍色に沈んでいた。


 玄関で「ただいま」と声をかけてみたけれど、返事はない。母は、まだ仕事から戻っていないらしい。


 自分の部屋へ入り、紙袋を机の上にそっと置いて、ベッドの端に腰を下ろした。


 今日選んだシャツが、紙袋の口から少し覗いている。


 ――よかったな、今日も。


 何度も思い返しながら日和は、ふっと息を吐いた。


 大それたイベントがあったわけでは、ない。学校帰りの、ただのショッピングモール。それでも、ひとつひとつが、自分の中に静かに積み重なっていた。


 透の声、歩幅、肩のあたりの空気、半分こにしたタルトの甘さ。


 帰り際、ほんの一瞬、手の甲がふれた、あの軽さ。


 ぜんぶ、今日の自分のものだった。


 胸の中に、満ち足りた重みがある。


 その重みを、もう一度、丁寧に、なぞる。


 日和は、ゆっくり目を閉じた。


 胸の奥のいちばん深いところに、ちいさな、けれど確かな想いが、ふっと浮かび上がる。


 ――早く、大人になりたいな。


 透の隣に、もっと近い場所で立てる自分になりたい。


 彼の配慮を受け取る側だけじゃなくて、同じ場所から、同じ目線で、彼にも手を差し出せる自分に。


 その、前向きな憧憬。


 今のこの距離は、たしかに、幸せだった。


 今は今で、ちゃんとした手応えがあるんだから焦ってはいけない。


 待つことが大事。


 けれど――確実に、近づいていく。


 日和は目を開けて、机の上の紙袋を、そっと撫でた。

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