第46話 あの日の答え
あれから透は防衛省との話し合いを何度か重ね、実力を測る試験にも応じ、依頼も協会を経由して届くようになった。透が考えていた仕組みが整っていた。話し合いに応じたのは、悪くない判断だったと思う。
そんな日々の合間にも、日和と二人で訓練場で過ごす時間は変わらず続いていた。
***
いつもの訓練を終えて休憩スペースに戻り、食事を済ませたあと。湯気の細い筋が二本、卓の上をゆるやかに立ちのぼっていた。透が淹れたお茶である。
二人は、のほほんと気の抜けた表情で過ごしていた。
「師匠。今日の食事も、とっても美味しかったです」
「それは良かった」
今日の食事当番は、透だった。最近では日和も料理の腕を磨こうと、食事を作るようになっていた。二人で当番を交代している。
日和の言葉どおり、満足そうにしっかり食べているのを見ていて、透は心の中で小さく頷く。日和の食欲は訓練の成果であり、見ていて気持ちいいぐらいだ。
訓練の熱がゆっくりと引いていく時間帯。武器の匂いの残る訓練場とは打って変わって、この休憩スペースには生活の匂いがあった。
調理器具はどんどん充実して、休憩の効率を上げるための家具も持ち込んでいる。湯呑みは色違いの対になっていた。それは、日和が持ち込んだ食器。他にも、部屋を彩る観葉植物が置いてあり、窓辺で陽だまりに似た人工光を浴びている。
透が一人で過ごす場合には、そういう小物のひとつも用意しないだろうと思う。
向かいに座る日和の表情に、透の視線が、ふと留まる。以前よりずっと柔らかい。訓練中の張りつめた目つきがすっかりほどけて、頬のあたりに淡い満足が滲んでいる。
日和が、ここを自分の場所として馴染んでいる。そう感じさせる表情だった。しっかり休息を取るため、気を抜いている証拠でもある。
湯気越しに、気の抜けた顔をお互いに見せ合う時間。
――いつの間に、これが二人にとって当たり前になっていたのだろう。
透は内心でそんなことを思いながら、自分の湯呑みに口をつけた。
茶葉は決して上等ではない。それでも日和が「師匠の淹れるお茶、美味しいんですよね」と気を抜いた声で言ってくれる程度には、淹れ方は上手くやれているらしい。
こうして向かい合って茶を飲む時間が、どんどん積み重なっていく。
***
湯呑みを置く小さな音が、二人のあいだの沈黙を区切った。
透は何気なく問いかける。
「最近はどうだ。学校のほうは」
「あ、はい。普通ですよ」
日和は湯呑みを両手で包み、少し考える顔をしてから教えてくれた。
後輩ができて、その様子を見守ると同時に自分の訓練内容を改めて見直したりしていること。仮資格で許可されている範囲のダンジョンへ、しっかり計画を立てて失敗がないように潜っている話。
すずなという仲間の女の子が新調した刀の手入れに余念がないこと、東郷という男の子は指揮能力が磨かれていて、以前よりずっと滑らかになってきたこと。
日和の周りの仲間たちが、しっかり成長していることを楽しそうに教えてくれた。
「みんな、すごく食らいついてきてくれるんですよ」
日和の声が弾んでいる。その気持ちは、とても良くわかると透も感じた。
「隣に立とうとしてくれている。そんな彼らがいるから、私も、焦っちゃ駄目だって思えるんです」
一人で背負わされる形ではなくなっている。仲間たちと並んで進めているのなら、それが一番いい。ここでの訓練を続けて実力が成長し続けている日和。彼女が一人で背負う必要のない世界が、しっかりと根を張り始めている。
それは、とても安堵できる事実だった。
「実績のほうも、わりと積めてます。仮資格の範囲内ですけど、依頼達成数は抜きん出てるそうで」
「それはすごい。順調そうだ」
「順調、なんですけど……まだまだ、です」
そう言いながら、日和はまっすぐ前を向いていた。かなり、やる気も高い様子。
「師匠のほうは、どうですか。最近」
話題が一段落すると、今度は日和から問いかけてきた。湯呑みを両手で包んだままの、くつろいだ尋ね方だ。
「俺か。……まあ、ぼちぼちやってる」
「ぼちぼち、って師匠。具体的に教えてくださいよ」
軽く眉根を寄せられて、透は苦笑した。
興味深そうに聞かれたので、透も説明する。協会を経由して、政府から届く依頼の数々について。日和がその量の内訳をひと通り聞いたあたりで、すうっと目を細めた。
「……師匠。それ、資格を取得したばかりの新人がやる仕事量じゃないと思いますよ」
「そうかな」
「そうですよ」
軽くツッコまれて、透は言い訳のように茶を一口飲んだ。
話を進める。
協会の中で活躍が噂になっていること。何度かパーティーに混ぜてもらって探索に出たことは、以前日和に話したことがあった。
それから防衛省との面談を経て、依頼窓口を一本化する話が、現実に動き始めていることを、日和にも伝えた。
「師匠、ほんとに、変わりましたね」
含むものはない。ただ素直な、嬉しさを少し混ぜた感想だった。
透は曖昧に頷きながら、湯呑みに視線を落とす。
立場は整った。
探索士の資格を取り、協会で実績を積み、政府との対話で立場を固めた。あの時、自分の意思で踏み出してきたものが、しっかりと形になり始めている。
ならば、もうひとつ。ずっと前から曖昧のままにして、口に出さないままでいた、もうひとつのほうも。
「……?」
透は考え込み、言葉が途切れた。日和が、どうしたのかと少しの違和感があったのか、不思議そうな表情を浮かべている。
次に続けるはずだった近況の話を、透が止めた感覚が残る。湯呑みのふちに触れた指先が、ほんの少しだけ動かなくなる。
これ以上、曖昧にしておくのは違うだろう。
覚悟、というほど大仰なものではない。ただ静かに、内側で何かがひとつ、噛み合った音がした。
透は、顔を上げる。
日和がこちらを見ていた。何かを感じ取ったのか、黙ったまま視線を合わせる。言葉を急がせず、催促もせず、ただ、透の次の声を待っている目だった。
訓練場の空気が、ほんのわずかに、静かに切り替わった。
***
透は、触れていた湯呑みから手を離した。
「日和」
名前を呼ぶ。普段とは違う、ちゃん付けのない名前だけで。それを聞いた日和の背筋が、ほんの少しだけ伸びた。とても大事なことを、今から言われると感じて。
「この前の話――」
言いかけて、透は小さく言い直す。
「いや、もうずいぶん前になるな。あの日、君が伝えてくれた好意について。俺は、ちゃんとした返事をしていなかった」
日和の目元が、わずかに動いた。
言葉の意味を一瞬で理解した、という顔だった。それでも何も言わず、両手を膝の上に揃えて、ただ続きを待っている。
透は深く息を吐いた。
「曖昧にしたままにしていたこと――まずは、謝らせてほしい」
透は視線をまっすぐ、日和に向ける。
「あれから君は、前みたいに踏み込んでこないようにしてくれていた。俺が答えを保留したまま、師弟の関係に戻したから……。君に、そういう遠慮をさせていたんだと思う」
日和は唇を一度だけ結んで、ゆっくり首を振った。
「謝らないでください、師匠」
声は静かだったが、芯が通っていた。
「待たせていただいたのは、私の勝手な気持ちですから」
その言い方が、いかにも日和らしくて、透は内心で苦笑する。
――君の大切な気持ちを、勝手と呼ばないでくれよ。
内心でそう思いながら、透はゆっくり頷く。それから、言葉を続けた。
「あの時から俺は色々と考えを変えて、動いてきた」
声の調子を、一段だけ整えて。
「資格を取った。協会で仕事をした。政府と話をして、自分の立ち位置も整えた。……今までの俺なら、やってこなかったこと、できなかったことだ」
日和は黙って聞いている。
「『普通でいる』ことを、ずっと自分に課してきた。それを越えるのが、思ったよりずっと面倒だった」
ここで透は、ふっと表情を緩めた。
「でも、越えてきた。今までの俺なら、答えられなかった。――けれど、今は違う。あの日の答えを、君に伝えたい」
日和の目が、わずかに揺れた。
透はそこで、自分の中から言葉を選び直す。
弟子に対する保護者のような気持ちでもない。誰かを大切にする、というだけのものでもない。長い間、誰にも見せなかった――いや、自分でさえ、まともに見ようとしなかった感情。
声に出してしまえば、不思議と、落ち着いていた。ずっと前から抱いていた気持ちだと気づくことができた。
「――日和、君のことが好きだ」
日和の呼吸が、止まった。
目が、見開かれる。
声を返そうとした唇が、半ばで動かなくなる。湯呑みの近くに置いていた手が、行き場を失ったように、膝の上で軽く握られた。
日和は、その言葉を大事に抱えるような顔をしていた。
透は、急がない。
もうひとつ、伝えなければならない大事なことがある。
一拍。
そして、まっすぐに告げた。
「結婚を前提に、俺と付き合ってほしい」
二人だけの訓練場の空気が、ピタッと止まったように感じた。
結婚。もちろん、軽い気持ちで伝えた言葉ではない。
それは、透が一番よく分かっている。承知のうえで、それでも、これが今の自分の答えだ。
日和は口を半分だけ開けたまま、しばらく動かなかった。目の縁が、少しずつ濡れていく。頬が、薄く赤くなっていく。
息を吸って――吐く。もう一度吸って――吐く。落ち着こうと必死に。
それから、ようやく、声が出た。
「……はい」
小さな、けれど確かな日和の声だった。
「はい。よろしくお願いします、師匠――」
そう言いかけて、日和は唇を引き結んだ。
目尻からひとつ、雫が落ちて、それを慌てたように手の甲で拭う。それから、もう一度、こちらを見た。
今度は呼び方が違った。
「――いえ。透さん。よろしくお願いします」
涙が滲んでいるのに、笑っていた。
崩れない笑顔、というよりは、嬉しさで形がほどけかけている笑顔。それでも芯は確かに立っている、日和らしい笑顔だった。
透は、ふっと胸の奥が熱くなるのを感じた。
――ああ、待たせてしまったな。
ほんとうに。
その喜びがあまりに素直で、こちらまで、目の奥が少しだけ熱くなる。
返事は、もらった。お互いの気持ちをちゃんと確認し合えた。
***
しばらく、卓のあいだに静けさが戻っていた。
気まずい沈黙ではない。温度の高いほうへ、ゆるやかに落ち着いていく――そういう種類の静けさだった。
透は立ち上がり、急須を温め直す。新しい茶葉を入れて湯を注ぎ、日和の前にも湯気の立つ湯呑みをそっと置いた。
日和は、まだ少しだけ目元を赤くしていたが、落ち着きを取り戻していた。
「君が学校を無事に卒業するまでは、今まで通り師匠という関係を優先したい」
学業優先で、そのために訓練を続ける。そっちの関係も大事に続けていく。それを聞いた日和の目が、ふわっと丸くなる。
「はい。私も、そのほうがいいと思います」
くぐもった声だが、迷いはなかった。
ここで日和の表情が、ふっとほどけた。緊張が解けたというよりは、可笑しさを堪えきれない、という顔だった。
「呼び方、どうしましょう」
「訓練中は『師匠』でいい。それ以外なら、好きにしてくれて構わないよ」
「そうですね。そのほうが、私もけじめがつきます」
日和は少しだけ考えてから、湯気越しに、そっと笑った。
「……じゃ、じゃあ。と、透さん」
声に出した瞬間、日和の頬がぽっと色づいた。同じ呼び方のはずなのに、いま声に乗せたら響きが違ってしまった。そんな自分の動揺に、本人が一番驚いている顔だ。
「……う〜ん。慣れるまで時間かかりそうです」
「ゆっくりでいいさ」
新しい湯気が二つ、静かに並んで揺れている。
日和は、それを見ながら話題を戻して、今日の訓練の話を始めた。剣を払う角度を少し変えてみたこと。来週は、新しい技を一つ試してみたいということ。
透は相槌を打ちながら、来週の訓練の予定を頭の中で整える。こうしたら、彼女が成長していけるだろうとメニューを組み上げていく。
いつも通りの、二人の時間に戻っていく。
――不思議なものだな。
透は内心で、静かに思う。
正式に付き合い始めた、という事実は確かにある。けれども、目の前で訓練の話をしている日和は、これまで何度も卓を挟んできた日和と何ひとつ変わらない。
関係が劇的に変わったわけではない。
ただ確かに、何かが一段、深いところで噛み合った。
訓練場の静けさの中で、隣にいる日和の存在が、これまでよりほんの少しだけ近い場所にある。
その手触りを、透は静かに受け止めた。




