第45話 国家の決断※政府側視点
会議室の扉が閉まる音がした。凪原透が退出した音だ。
その音を合図にしたかのように、防衛大臣の久世は指の腹で目頭を押さえ、長く息を吐く。
会議室はしんと静まり返っていた。
長机に並んで座っていた高官たちは、誰一人として口を開かなかった。ただ、空調がかすかに鳴っているだけだった。
ついさっきまで、その席に座っていた凪原透という男について、それぞれが考えを巡らせている。会議室にはまだ、あの男がそこに座っていた重みのようなものが、空気の中に残っているような感覚があった。
スーツに身を包んだ、三十代前半の男。彼は声を荒らげるでもなく、机を叩くでもなく、ただ淡々と自分の事情を語り、淡々と要求を述べ、淡々と頭を下げて部屋を出ていった。
とんでもない男を呼び出してしまった。
その実感は、怒りでも恐れでもなく、どこか乾いた感慨に近かった。久世は若い頃から自衛官として、後年は政治家として、相応の修羅場を踏んできたつもりだった。胆力のある人間にも、底意の知れない人間にも、それなりの数の相手と会ってきた。
だが、今日のあの男は――そのどれとも違っていた。
強がりでもなく、虚勢でもなく、威圧でもない。ただ、自然体で「底が見えない」のだ。深さが分からない井戸を覗き込んだときの、あの足元がすっと冷えていく感覚。長い人生で、こんな相手に出くわしたのは初めてだった。
久世はもう一度、息を吐いた。それから、机の上で両手を組んだ。
***
「――もうしばらく、会議を続けよう」
久世の声は、決して大きくはなかった。だが、固まっていた空気に動きを与えるのには十分だった。
高官たちの視線が、長机の中央へ集まる。
「彼の情報について、各自で持ち帰って悠長に検討するような案件ではない。今この場で、しっかりと議論しておきたい。認識を合わせておきたい」
久世は一同をぐるりと見渡した。誰も異を唱える者はいなかった。むしろ、待っていたとでも言いたげに、何人かが資料を引き寄せ、ペンを握り直した。
あれをどう扱うのか。あれと、どう付き合うのか。それを決めずに今日この会議を終えるというのは論外だ。
「論点を絞ろう。三つだ」
久世は、周りの者たちに見えるように指を一本立てる。
「一つ目。凪原透という人物の、実力評価」
そう言ってから、二本目を立てる。
「二つ目。彼と、どう向き合っていくのか。受け入れるのか、危険視するのか」
そして、三本目。
「三つ目――彼と同種の存在の有無」
それぞれが、その問いを胸の内で咀嚼していた。
「この三つを、今日この場で詰める。順に話し合っていこう」
久世は立てた指を、机の上へ静かに戻した。
***
「では、一つ目から確認していこう」
久世が促すと、長机の右手側に座っていた高官の一人が手を挙げた。慎重派として知られる、内局の古参だ。
「失礼を承知で申し上げます。――本当に、それほどの実力者なのでしょうか」
声には皮肉も嘲りもなかった。むしろ、誰かが言わなければならない、と腹を括ったような響きがあった。
「今はまだ、自己申告に過ぎないという見方もできます。話の運び方が巧みであっただけ、という可能性はゼロではない」
久世は手元の資料を指で軽く叩いた。
「朝倉日和という存在が、凪原透の実力の高さを証明している」
その名前で、室内の何人かが姿勢を正した。
「仮資格でありながら、トップクラスの探索士を退けた。国立探索士高等専門学校での実地訓練でも、突出した成果を残している。その彼女が――自分から、『師匠』と呼んでいる相手だ」
久世は一拍置いた。
「その少女に『師匠』と呼ばせている時点で、もはや尋常な水準ではないと思われる。これは、実力の自己申告ではない。第三者を介した、客観的な証左だろう」
久世は次の資料を引き寄せる。今度は探索士協会から上がってきた、凪原透の活動記録だった。
「もう一つは、協会報告だ。登録からこの短期間で、前例のないペースの攻略実績。それを一人で行っている」
ここで、長机の左手側に座っていた経済担当の高官が、資料を差し替えた。
「補足、よろしいですか」
久世が頷くと、男は手元の数字を読み上げ始める。
「凪原氏が単独で持ち帰った魔石量は、関東地区の供給量に対して無視できない比率に達しています。具体的には――」
数字が並ぶ。月次の供給推移、市場価格の変動、需給バランスへの寄与率。淡々と読み上げられるそれらが、ひとつの結論を浮かび上がらせていく。
「一個人の活動が、地域経済の指標に影響を及ぼしている。これは、トップクラスの探索士パーティーに匹敵するほどです」
経済担当の高官は、それだけ言って資料を閉じた。
会議室の空気が、一段、重みを増した。
久世は、最後の論点に進む。
「そして、これが――おそらく一番、肝心なところだ」
久世は、目を細めた。
「これだけの成果を出しておきながら、彼自身は、これを『片手間』だと言っているようだ。試験官の報告書にも、明確に書かれている。『規格外』――と」
積み上げてきた数字と実績、それらすべてが、まだ実力を出し切っていないという可能性。
本当の底は、まだ見えていない。
今この場で並べた事実は、あくまで"見える範囲"のものに過ぎない。あの男が見せている水面の、そのさらに下に、どれだけの深さが沈んでいるのか――それは、誰にも分からない。現時点では、誰にも測れない。
久世の目には、それは間違いなく、とんでもない実力の持ち主として映っていた。
***
「では、二つ目だ。我々が彼と、どう向き合うのかについて」
久世がそう告げた瞬間、長机の中ほどから、複数の声がほぼ同時に上がった。
「――発言、よろしいか」
「率直に申し上げる。あのような存在を、野放しにしていいとは、私には思えない」
声の主は、危険視派の急先鋒だった。
「制御不能。そう、はっきり申し上げます。あの男の実力が事実であれば、もはや国家の枠内で扱える水準を超えている。リスクを、国家として負いきれるのか。負いきれないものを、抱え込むべきなのか」
別の高官も続く。
「厳格な監視体制を提案します。窓口設置を呑むにしても、こちらの目が常に届く形でなければ、本来は受け入れるべきではない」
その言葉に、頷く者が幾人か。
部屋の空気が、再び張り詰めていく。
久世は、それらの発言をすべて、最後まで遮らずに聞いた。胸の前で軽く腕を組み、相手の目を一人ずつ見ていく。
やがて、声が出尽くしたところで、久世は口を開く。
「その懸念は、もっともだな」
一拍。
「だが、彼は自分から表に出てきた。嘘をつくことができた場面でも、すべて素直に認めた。自分の力の危うさを自覚し、"こちらが制御できる枠組み"を、自分から提案してきてくれた」
発言した高官に視線を向けて、久世自身の考えを述べる。
「これを善性と呼ばずして、何と呼ぶのか。私は、そう問いたい」
危険視派の高官の一人が、わずかに視線を伏せた。それを確認しつつ、久世は続けて言った。
「もし我々が彼を危険視した瞬間――最悪が訪れる」
久世は続ける。最悪のシナリオについて。
「あの男ほどの実力者が、本気で『再び隠れる』と決めたら、どうなるか。我々国家機構をもってしても、捕捉は不可能となる。これは推測ではない。三十二年間、誰一人として彼に気づけなかったという事実が、すでに証明しているから」
その懸念に、誰も口を挟まなかった。
「しかも、彼はおそらく朝倉日和を連れていく可能性が極めて高い。国家戦力となり得る二名を同時に、永久に失う。海外へ流出するようなことになれば、これは、安全保障上の最悪シナリオとなるだろう」
久世は周囲をぐるっと見回して語る。
「監視を強める、と言っていたな。それも、結構。だが――その監視を、彼に気づかれた瞬間、何が起きるか。彼がそれを嫌がって、反発してきたらどうなるか」
「他の探索士では、絶対に手の出ない案件。誰に頼んでいいのか、頼んだとしても帰ってこられるのか分からない案件。そういう"無理"を、自信を持って投げられる相手が、この国に存在する。これがどれほどの価値か、わかるはずだ」
「危険を冒してまで、敵に回す理由が、どこにもない。誠意で応えてきた相手に、誠意で応える。話し合いに応じると言ってくれた。そして、その上で――こちらは、彼の力という、得難い手札を持てる」
「これを手放すのは、国家として絶対に避けたい」
危険視派の急先鋒の高官が、ゆっくりと姿勢を戻す。何かを言いかけて、口を閉じた。もう一度開きかけて、また閉じた。最後には、ただ短く、首を縦に振っただけだった。
その後、反論は誰からも出なかった。
***
「では、最後の論点について。凪原透のような事情を持つ者が、はたして彼一人なのかどうか」
そんな疑問に誰も、すぐには答えられなかった。
三十二年間、誰にも知られないまま力を蓄えた人物が、現に、いた。それが事実として発覚した今、その問いは避けようのない形で立ち上がっていた。
今もどこかに、同じような存在が、潜んでいる可能性。
久世はゆっくりと、両手を机の上で組み直す。
「断言できる材料は、現時点では何もない。だが――"いない"と言い切れる根拠も、また、ない」
長机の何人かが、わずかに身じろぎする。
「方針を、申し上げる」
久世は順を追って語った。
「まず、この件について――凪原透にも、情報を共有しよう」
彼がそうしてくれたように、こちら側からも積極的に。
「誠意を持って応えるべきだ。秘密を作らない。この方針を、実務面でも貫く」
久世は一拍置いて、続ける。
「そして、彼に協力を要請しよう」
いくつかの視線が、久世に集中した。捜索を、彼にも協力してもらう――そういう提案だった。
「正直に申し上げて、彼の察知能力は、我々の手持ちのどんな手段よりも頼りになる可能性が高い。三十二年間誰にも気づかれなかった人物を、我々の側だけで探し当てるというのは――現実的に、難しいと思われる」
「ただし――」
久世は、声をわずかに低くした。
「探し方には、細心の注意を払う。万が一、本当に存在するとして、その相手を刺激してはならない。敵に回せば、取り返しがつかない。これは、凪原透にも同じ理屈で説明できる話だろう」
危険視派の高官の一人が、納得して頷いた。
「探すのではなく、いつ現れても適切に応じられる準備をしておく。それが、当面の方針となるだろう」
久世は、最後に視線を上げた。
「ただ、順序を間違えてはいけない。まずは――凪原透を受け入れ、彼との関係を、確実に築き上げる。すべてはそこから始めていこう」
頷く者が、複数。
それ以外の発言は出なかった。
三つの論点は、こうしてすべて認識を共有することができた。
***
窓口設置の準備と並行して、凪原透の実力を正式に測定する試験が実施されたのは、それから数日後のことだった。
その結果は、実力測定不能。
至急用意したスケールでは、記録できなかった。観測担当者は、何が起きたのかを認識すらできなかった。試験基準そのものが、意味を成さなかった――そう書かれた報告書が、防衛省内の限られた人間にだけ回覧された。
報告書を読んだ高官たちの反応は、おおむね三つに分かれた。
ある者は、顔を青ざめさせた。もし交渉が決裂していたら、あの時自分たちが向き合っていた人物がどのような行動に出ていたのか。想像することさえ、容易ではなかった。
ある者は、静かに胸を撫で下ろした。あの場の判断は、正しかった。少なくとも、踏み外しはしなかった――その安堵だけが、確かな実感としてあった。
そして、ある者は、深く考え込んだ。これからの付き合いは、一手一手が、そのまま国家の命運に関わる。それを理解した瞬間、安堵などしている場合ではないと、悟ったのだった。
凪原透という一人の男の出現は、確実に、国家中枢の在り方に影響を与えた。
だが今は幸いなことに、起きうる混乱は最小限に抑えられていた。




