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第43話 普通でいた男

 革靴の踵で玄関のタイルを軽く鳴らして、管理人室を出る。いつもの作業着ではなく、久しぶりのスーツを着た格好だった。


「あら、管理人さん。今日はずいぶんと、ビシっと決まった素敵な格好ね。お出かけかしら?」


「ええ、ちょっと所用で」


 ちょうど部屋から出てきた住人に挨拶して、軽く会話を交わして会釈する。まずは駅に向かう。


 近くの駅から電車に乗る。そこから新幹線の停車駅まで行き、乗り換えると東京駅で降りた。次は地下鉄を乗り継ぎ、目的の駅で地上へ出る。初めて降りる駅だった。


 官庁街から少し離れた場所にある防衛省の建物。そこの街路樹も歩道も丁寧に整備されていて、自然と背筋が伸びるような空気があった。スーツ姿の人々が慣れた足取りで信号を渡っていく。透もその流れに紛れるように歩いた。


 久しぶりに袖を通したスーツは、思っていたよりもしっくりきていた。


 目的の建物に到着。厳重なゲートがあり、警備員が立っていた。透は来訪票の用紙に名前と用件を記入するように指示された。指示に従い書き込んでから提出すると、奥からスーツ姿の女性がやってくる。


「凪原様ですね。お待ちしておりました」


 案内されながら手荷物検査、金属探知機、指定エリアへの入場記録。ひとつひとつの確認が丁寧で、目線も鋭かった。透は黙ってそれに従う。


 セキュリティをクリアして、ようやく中へ通された。


「しばらく、ここでお待ちください」


 待合室に通されると、グレーの低いソファと、観葉植物がひとつ置かれていた。室内は落ち着いた色合いで統一されており、静かで無駄のない空間だった。透はソファの端に浅く腰掛け、スーツの裾を軽く整えた。


 緊張、と呼ぶほどのものはなかった。


 これから、どんな話をするのか。どう答えるのか。頭の中で整理しながら、静かに待つ。


 数分後、扉が開いた。


「凪原様。お待たせいたしました」


 次に現れたのは、紺のスーツを着た中年の男性だった。奥へ続く廊下を手のひらで示した。


 透はソファから立ち上がった。革靴の踵が、磨かれた床で控えめに鳴る。促されるまま廊下を歩いていくと、突き当たりの両開きの扉の前で、案内役の男が立ち止まった。


 扉が、内側へ開いた。



***



 案内された会議室は、透が想像していたよりずっと立派な造りだった。


 磨き上げられた長卓。座面の高い革張りの椅子。窓には厚いカーテンが引かれ、外の音は遮られていた。空調の低い唸りだけが、室内の音らしい音だった。その部屋の中央寄りに、すでに何人もの人間が座っていた。


 透は扉のところで一拍だけ立ち止まり、室内をひと巡りに眺めた。


 長卓の中央、最奥の席に座る白髪混じりの男が、まず目に入った。


 濃紺のスーツは一分の隙もなく整えられ、襟元の小さなバッジが控えめな存在感を示している。背筋は真っ直ぐに伸び、その姿には長年上に立ってきた人間特有の重みがあった。


 その場にいる誰よりも自然に空気の中心へ収まっている姿を見て、透は彼がこの場の主導役なのだろうと判断した。


 左右に並ぶ人物たちもまた、落ち着いた雰囲気を纏っている。官庁の人間には詳しくない透でも、ここに集められているのが相応の立場にいる人間たちなのだということは、見てわかった。


 透は会釈を一つしてから、案内役の手のひらが示す席に歩を進めた。長卓の手前側、たった一つだけ用意された椅子。対面側に並ぶ高官たちと、文字通りに向かい合う配置だった。


 その瞬間、室内の空気が低く沈んだ。視線が一斉にこちらへ向けられる。だが透は、いつもと変わらない態度のまま、椅子に腰を下ろした。


 咳払いを一つ、中央に座る初老の男が口を開いた。


「凪原透さん、ですね。お忙しいところ、ご足労いただきまして」


 声色は丁寧だったが、その奥には探るような響きも混じっていた。透は小さく頷くだけで応じる。


「ご活躍はかねがね伺っております」


 協会を通して、色々と聞いている。そう伝えられた透は、特に反応することはなかった。そうですか、としか言いようがない。


「それで、単刀直入にお伺いします」


 彼の鋭い視線が、透を真っ直ぐ捉えた。穏やかな声色のまま、相手の反応を見極めようとする角度。


「――あなたは朝倉日和さんを、ご存じですか」


 名前を出した直後、こちらの瞳の奥を覗き込むように動いた。動揺、戸惑い、目線の逸らし。そのいずれかを引き出せれば充分、という質問の置き方だった。長卓の対面側、ほかの面々も同じように、透の一挙手一投足を見逃すまいと観察している。部屋全体が、この一問の答えに注目していた。


 さぁ、どう答える?


 聞かれた透は、相手の視線をしっかりと見返した。ここで誤魔化す意味はない。信用を得るために、まずはこちらから隠し事を減らす。そう考えて、静かに頷く。


「はい、知っています」


 透の発した声は、平らだった。


「では、もうひとつ。――凪原さんが、朝倉日和さんの師匠ですか?」


 確信を持って問いかけてくる。透は、長卓の向こうにある複数の視線を受け止めつつ――。


「そうです」


 短く、そう答えた。


 肯定した瞬間、長卓の向こう側で視線が交差した。まさか答えるとは。しかも、そんなに素直に。もしかしたら、隠すのではないか。曖昧に言い逃れするのではないかという予想を外した。


 聞かれた透は、相手の次の言葉を待っていた。さぁ次は、どんなことを聞きたい? 今なら答えられる範囲で、ちゃんと答えるよ。


 会議は、まだ始まったばかりだった。



***



 次の問いまでには、思っていたより長い間があった。初老の男は声の調子を慎重に整えてから、口を開いた。


「凪原さん。もう一点、確認させていただきたい」


「はい」


「およそ一年ほど前――国立探索士高等専門学校の実地訓練が行われている最中に、想定外のモンスターが出現し、訓練生と引率者を巻き込む事案が発生しました」


 その先を、彼は一拍だけ間を置いてから続けた。


「そのとき、現場に駆けつけ、モンスターを単独で制圧した――身元不明の人物が、いました」


「はい」


「それも、あなたですね」


 相手の目線がもう一度こちらの瞳を覗き込んできた。今度は、揺さぶるような細工はなし。もう、揺さぶらなくても答えは返ってくる、と察したうえでの確認だった。


「そうです」


 今度も透は隠すことなく、短く頷いて答える。声はやはり、平らだった。長卓の向こう側で、二つ三つ、小さな息を呑む音が重なった。


 これも、肯定した。


 今まで彼らが探していたのに見つけられなかった正体不明の人物が、まさか本当に現れるなんて。


「経緯を、お聞かせ願えますか」


「わかりました」


 そう問われた透は、その当時の経緯について語る。


 朝倉日和に持たせていたネックレスが効果を発揮して、彼女の危険を察知した。急いで駆けつけ、彼女を助けてから、ダンジョンから無事に帰還できるように最後まで同行した。目的を果たしたあとは、すぐに姿をくらませたこと。


 透は、自分の実力の詳細やネックレスの性能、瞬間移動で駆けつけたことなど詳細は意図的に省きつつ、語れる範囲での真実を嘘偽りなく伝えた。


 そして、長卓の上にボックスから取り出した黒い布を広げた。包みを解く。口元と頬を覆う形の仮面。


「これが、当時、現場で身元を隠すために使ったものです」


 白髪混じりの初老の男は、長卓の上に置かれた仮面をじっと見つめたあと、視線を斜め前へ向ける。そして、呼びかけた。


「――先生」


「間違いありません」


 先生と呼ばれた人物――端の席に座っていた男が答える。透は彼の顔をはっきりと覚えてはいない。だが、あの日の現場に、訓練生たちとは別に、もう一人、大人がいたことは記憶している。おそらく、その人物だろう。


「あの時に見た仮面で、間違いありません。背格好も記憶通りです。あの時、危険に晒されていた訓練生たちと私自身を救ってくださったのは――そこにいる、凪原透さんです」


 その証言を聞いていた者たちは、言葉を失ったように黙り込んだ。



***



 しばらく沈黙が続いたあと、初老の男が再び口を開いた。


「凪原さん」


「はい」


「聞かせてください。なぜ、今になって、表舞台へ出てこられたのですか」


 今まで姿を表さずに隠れていた。誰も、その正体を掴むことができなかった。日和も、師匠の存在は認めつつも、正体は明かさなかった。それを黙ってきた男が突然、表へ出てきた。


 なぜ、今なのか。彼らには不可解だった。


「――朝倉日和と、出会ったからです」


 その問いにも、透は正直に答えていく。


「あの子と出会わなければ、たぶん、私はここにいません」


 言葉の選び方は、慎重だった。けれど、その慎重さは、相手を欺くためのものではなく、自分の内側を正確に言語化しようとする側の慎重さだった。


「探索士に、なるつもりはありませんでした。試験に挑戦して、資格を取得するつもりもありませんでした。国家機関と関わるつもりも、なかったです。表に、出てくるつもりも、一切なかった」


「それは、どうして?」


「普通でいるために」


 その答えを聞いて、会議の参加者たちは、しばし黙り込んだ。どういうことなのか。意味を測りかねている表情。けれど、それが嘘ではないことを彼らは理解した。表舞台に出てくるつもりはなかった、という言葉が、本当であることを。


 穏やかな表情、揺らがない声、視線の落ち着き。どれもが、その一言の重みを裏付けていた。


 透は、最後にもう一文だけ、付け足した。


「あの子と出会わなければ、私は、今も、普通にアパートの管理人をして暮らしていたと思います」


 長卓の向こう側で、空気が静かに揺れた。


 これほどの実力者が、在野に潜んだまま、誰にも知られることなく一生を終えていたかもしれない。


 我々は、未来永劫、この男を捕捉できなかった可能性がある。


 その事実が、彼らの内側に染み込んでいく。



***



 会議の空気は、当初の目的から大きく変わっていた。


 始まったときは、事情聴取だった。国家側が問い、呼び出された透が答える。組み立てられた段取りに沿って、相手の心理の揺れを誘い、引き出すべき情報を引き出す――そういう場のはずだった。


 けれど、机の上に並んだ仮面と、彼の口から出された少女の名前と事情を境に、場の重心は、はっきりと別の位置へ移っていた。


 透は自然体で、プレッシャーをかけられても気にすることなく、変わらない態度のまま、長卓の向こう側を眺めていた。問いが来るのを静かに待って、聞かれたことを素直に答えた。圧の意図はない。ただ、こちらは答える用意があります、という温度で、そこに座っていた。


 その自然体そのものが、いま、会議室内の空気を、高官たちの意識を一方向へ傾けていた。


 徐々に、その場を支配していく透。


 長卓の向こう側で、数人がほぼ同時に、額に薄く汗を浮かべ始めていた。冷房は、変わらず効いていた。汗が流れたのは部屋の温度のせいではない。


 咳払いひとつ、初老の男が、姿勢をわずかに正した。先ほどまでとは声の置き方が違う。


「凪原さん。立ち入ったお話を、お伺いしてもよろしいでしょうか」


「どうぞ」


「現在の凪原さんの……ご活動の方針について、いくつか、教えていただけますか」


「はい」


 問いかけられた透も、一旦姿勢を正した。


 ここからが、本題だ。


 今日、この場に来た目的は、ただ事情聴取に応じることではなかった。透は、長卓の向こうに並ぶ視線を見渡してから、静かに口を開いた。


「いくつか、お願いしたいことがあります」


 会議室の空気が再び変わり、もう一段、引き締まった。

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